4E認知は仲良しごっこのウソお友達グループだったのか?

認知科学では二十世紀の末頃(特に80年代から90年代まで)に、主流(特に古典的計算主義)に対抗する動きとして身体化論の流れが様々な形で起こった。それは二十一世紀にも受け継がれて、主要な概念であるembodied,embedded, extended, enactiveから頭文字を取って4E認知と呼ばれて議論されるようになった。しかし、4E認知の諸概念は実はお互いに相容れない所もあるのではないかと、当の支持者も含めて疑われるようになった。

疑惑の前触れ、拡張と埋め込み

4E認知の諸概念は二十世紀の段階で既に提出されていた用語を寄せ集めただけだが、これらを同じ頭文字としてひとまとめにしたのは確かによくできている。いつからこう言われ始めたのか私にはよく分からないが、実は4e認知の用語が広まる前に既に不穏な空気は醸し出されていた。それはRupertによる拡張された心(extended mind)と埋め込まれた心(enbeded mind)の二つの仮説についての議論だ。簡潔な説明はAndy ClarkによるRupert批判論文「Curing cognitive hiccups」の冒頭を参照してください。Rupertは拡張された心と埋め込まれた心では環境の重視という点で救える現象はほぼ一致しているので、常識や科学理論における直観に反する心的システムの身体よりも外部への拡張の考え方をわざわざ採用する必要はない、としている。Clarkによる反論が正しいかは脇においても、とりあえず4E認知の中のextendedとembededの二つの概念が両立することに疑いの目が向けられたことだけは確かだ。

4E認知の革命はうまく行かない、拡張とエナクション

二十一世紀に入ってしばらくして、おそらく10年代に入る少し前辺りから、4E認知(特にenactive)の論者の中から認知科学に革命を起こそうとする急進的な(radical)な勢力が現れるようになった。私の印象では、もともとMicheal Wheelerはどちらかというとそうした傾向には好意的な論者だと思っていた。しかし「The revolution will not be optimised」でそうした急進的な革命が楽観的なものではないと気づくようになったようだ。
後はこの論文の内容を紹介すればいいのだが、エナクションが拡張を含み得ない…という結論だけははっきりしているのだが、それを導く議論は複雑でどうも私にはうまく分かり得ない。そこで以下の議論は論文の正確な要約と言うよりも、おそらくこういう事を言いたいんじゃないかという忖度だと思ってください。
拡張された心は心が身体の外に広がっているとする外在主義を、エナクションは反表象主義を第一に含意している。心的表象を否定する反表象主義はそのまま外在主義を導くと思われがちだ。ところで、エナクションにはギブソンからの系譜とヴァレラからの系譜がある。しかし、ギブソンから受け継がれたアフォーダンスの概念もヴァレラから受け継がれたオートポイエーシスの概念も心の境界を否定する外在主義とうまく両立しない。オートポイエーシスの概念には境界の概念が含まれているように思えるし、環境も心的システムの一部だとしたらアフォーダンスにおいて何に対して何が提示されているのかがよく分からない。エナクションが外在主義と一貫した整合的な理論となりうるのかは(少なくとも今のところは)どうも怪しい。
以上の議論に妥当性があるかは確信が持てないが、少なくともextendedとenactiveの間に亀裂がある疑いは抜けきれなくなった。

身体的認知に身体はいらない、身体なしのシュミレーション

しかし、4E認知の仲良しグループに決定的な打撃を与えることになったのは、最近における身体化論の代表的な論者Shaun Gallagherである。「Invasion of the body snatchers」はこれまで私が触れたギャラガーの文章の中でも圧倒的な傑作であり、本当は私の中途半端な要約でなく誰かに訳してもらいたいぐらいだが、そうもいかないので要点にだけ触れる。
基本的なアイデアはシンプルなものだ。4E認知の共通点は認知(心)における身体の役割の重要性を訴えているところだ。"embodied"の概念には、心の理論におけるシュミレーション説が含まれており、ミラーニューロン(システム)の発見によって科学的にも援護されている重要な説だ。シュミレーション説とは他者の身体的振る舞いを心の中でシュミレーションすることで他者の心を理解するという説である。このとき身体的イメージが使われるようになるが、こうした(身体的な)心的イメージを用いた議論はLakoffやBarsalouのような身体化論者にも共有されている。身体的に経験されたイメージが用いられる点で身体の重要性は強調されている。しかし逆に言えば、一度身体的なイメージを身に着けてしまえばもう身体は必要ない。つまり、身体化の理論の中にはイメージ以上の身体は必要ない説が含まれていることになる。もはやembodimentからは4E認知における唯一の絶対的な絆が失われてしまったのだ。
こうした以上の議論から言えることは、4E認知の表面的だけの仲良しブリっコが暴露された今、4E認知をまとめて擁護する活動には問題があると言う事だ。しかし、これは4E認知を一挙にまとめての擁護が問題視されただけであって、個々のアイデアについてはその限りではない。