ベイジアンの合理的分析について考える

前回の記事でTauber et al."Bayesian models of cognition revisited"を読んでから、その著者らが批判したがっている最適アプローチなるものが気になって調べてみた。まず、実際に調べてみるとTenenbaumらの研究が合理的だとされる理由がはっきりとしてきた。その源を探ると1990年に出たJ.R.Andersonの本において提唱された合理的分析にたどり着いた。J.R.Andersonというと認知アーキテクチャACT-R理論で知られているが、合理的分析の創始者でもあると初めて知った 1。その合理的分析を受け継いた学者として有名なのが、Nick ChaterやMike Oaksfordであり、TenenbaumらはそのChaterとの共著論文をいくつか書いている。つまり、Tenenbaumらの研究は合理的分析の系譜を受け継いでいるがゆえに合理的なアプローチだと言われているのだ。

こうした視点からのベイジアンアプローチ批判として有名な、Bowers&Davis"Bayesian just-so stories in psychology and neuroscience"や以前も取り上げたJone&Loves"Bayesian Fundamentalist or Enlightenment?" 2を改めて見てみると、ベイジアンそのものへの批判というよりも合理的分析(によるベイジアンの使用)に批判的なのだったと気づいた。それでは、合理的分析とは何なのだろうか。

合理的分析とは何か?

Andersonによって提示された合理的分析の手順をChaterらがまとめたものを引用すると

  1. 目標:認知システムの目標を正確に特定する
  2. 環境:システムが適応する環境の形式的モデルを明らかにする
  3. 計算的限界:計算的限界についての最小限の前提を作る
  4. 最適化:1~3の元で、最適な行動機能を得る
  5. データ:行動機能の予測を確認するために経験的証拠を試す
  6. 反復:繰り返して、理論を洗練させ続ける

    Chater&Oaksford"Ten years of the rational analysis of cognition" p.62より

簡単に説明してしまうと、合理的分析とは人の認知システムを環境への適応として捉えて分析しようという考え方だ。ベイジアンはその分析のための適切な道具としてよく採用されている。合理的分析の例としては「推論と判断の等確率性仮説」にあるOaksford&Chaterの研究の紹介を参照ください。(是非は別にして)Tenenbaumらの研究を見れば分かるように、合理的分析は研究プログラムとしては十分に生産的であり、その点では批判には当たらない。それでは、合理的分析はどこに問題があるとして批判されているのだろうか。

研究プログラムとしての合理的アプローチ

まず、最初に問題として目をつけられ易いのはその環境への適応性という前提だろう。確かにこの前提が間違っている可能性は十分にある。しかし、この点を批判する人たちは科学の持つ研究プログラムとしての側面があまり見えていない。そこで、ここでは似たような批判にさらされた社会生物学を例に挙げて説明しよう。社会生物学も適応万能主義としてよく批判されていたが、結局は様々な研究や成果を生み出して、科学的な研究プログラムとしては生産的だったので、結果としては成功した科学分野だと言える。実はここで問題なのは適応主義が本当に正しいかどうかではない。そうではなく、適応主義という前提から如何にして新たな研究や成果を生み出していけるかが問題なので、適応主義そのものは経験的研究の中でその正しさが検証されれば済む話だ。社会生物学は、適応主義を前提として動物行動学や進化ゲーム理論などの研究手段によって成り立つ研究プログラムの全体として評価されるべきなのであって、その部分をほじくり返しても科学的には不毛でしかない 3

同じようなことが合理的分析に影響を受けた研究にも言える。それまでの認知科学では、論理などによる分析の規範があって、実際に観察された心的機能がその規範に従っているかどうかが問題とされた。その典型は行動経済学におけるヒューリスクティクス(直観的判断)であり、ヒューリスクティクスの持つ非合理性が主張された。こうした人の心の非合理性という前提は、現象の発見という点では大きな貢献をしたが、その説明という点になると単に非合理的であるの域をあまり超えないものであった。そこで認知科学で当時までに論じられていた生態学的妥当性の影響を受けて、人の認知を環境への適応としてみる合理的分析が現れた。合理性仮説の持つ長所は社会生物学における適応主義と似ていて、新たな説明を生み出して検証するための研究プログラムとしての生産性にあるはずだ。確かに、合理的アプローチは研究プログラムとしてそれなりに生産的でありそれなりに成功したように思える。にも関わらず、既に示したように合理的アプローチに対する批判は未だに止まない。それはなぜだろうか?

合理的分析のどこが問題か?

合理的分析への批判は早くからあって、Oaksford&Chaterの稀少性仮定が恣意的な仮定として批判されていたりした。その点では、Tenenbaumらの研究はそうしたあからさまな恣意的前提が少ない分よくできているが、実は問題はその分析手段であるベイジアンの方にある。合理的分析におけるベイジアンの使用はAndersonから既にあったものである。当時は論理を基礎にした分析が古典的計算主義として批判されていた頃であり、それが高次認知の研究にも合理的分析としてのベイジアンの利用を勧めていったとも言える。高次認知研究も科学として発展しているのであり、もはや未だに古典的計算主義を必死に批判している身体化論者はただのアホにしか見えない。高次認知へのベイジアンの適用には、標準的な論理や確率を基準に分析していた頃はそれに従っているか逸脱しているかの選択肢しかなかったが、ベイジアンを用いればもっと自由にモデルを構築できるという長所がある。しかし、この長所は両刃でもあり、データに合わせた恣意的なモデルでも作れてしまうことも意味する。既に挙げたベイジアンアプローチ批判の論文でもこの辺りはだいたい共通で指摘されている。

総合的に言えることは、認知モデルであるにふさわしい基準というのが分かりにくくなっているということだ。だからといって、認知モデルがいらないかというとそうも簡単にはいかないし、高次認知なんてどうでもいいと言うのも甘い。ベイジアンの合理的分析は認知モデルの問題を表面化させたにすぎない。


  1. Anderson自身は、合理的分析における環境への適応の考え方は、生態学的妥当性で有名なBrunswikやJ.Gibsonにまで遡るとしていると説明している。

  2. リンクはしませんがこれらの論文はネットから読めます。

  3. ちなみに、似た批判にさらされがちな進化心理学は、研究プログラムとしては社会生物学ほどには成功していない。その原因はおそらく研究プログラムとしての曖昧さ(例えばモジュール論の位置づけ)や実証的研究との繋がりの弱さなどがあるだろうが、これ以上の分析はしない。ただ一つだけ言いたいことは、進化心理学の流行がなければ心の研究(認知科学)における進化論的アプローチの普及はこれほどには進まなかっただろうということだ。