前回計算論に軽く触れたので、今度は今話題の予測符号化についての哲学的な話でもしようかと思ったけれど、まだ現在進行中なことも含めてまだ決心がつかない。予測符号化(または自由エネルギー原理)の科学的な側面については日本語でも書籍の出版や学術誌の特集などによって触れられるようになりつつあるが、哲学的な側面となるといつになったら日本語で読めるようになるのかよく分からない。たとえそれが出たとしても身体化(4E認知)論に偏った議論の紹介にしかならないのではと心配している。それをきちんとした記事にするか軽い独り言にするかもまだ迷っているので、今回は別の話をする。

以前、認知科学の創始分野の一つである人類学が二十一世紀になって認知科学での位置づけが怪しくなった話をしたことがある。私は有名な認知人類学者ハッチンスの本を原書で読んだことがあるのでその事態は残念だが、今回はその話ではない。これは誰かが指摘していることではなく私の勝手な印象だが、実は言語学も人類学の二の舞を踏みつつあるのではないかと懸念している。言語学認知科学の創始分野の一つに挙げられるが、以前に比べると認知科学的な議論に参加している言語学者が目立たなくなっている気がしている。チョムスキーは未だにたまに共著論文を出したりもしているが、全般的に見ると言語学者は専門的な言語学の中に閉じつつあって、以前にはよくあった学際的な議論は少なくなっているように感じる。もちろん専門分化は言語学に限った話ではないが、専門分化が先行している点では人類学とは事情が違う。

なぜこんな事態になったのか。もちろん、そもそも認知科学の生物学化は原因のひとつだろう。ここにはチョムスキーによるミニマリストプログラムの動向が関わりを持っている。まず主流の生成文法ミニマリストへの転向によって、認知言語学による生成文法批判の位置づけが分かりにくくなったのがある。ミニマリストの大きな長所は言語進化を扱えるようになったことだが、認知言語学は言語進化の議論にうまくついていけなくなった感が拭えない。ミニマリストは専門の言語学者を置いてけぼりにしてまでむしろ生物学化の事態に適応してしまった点では感心するしかない。

二十一世紀になって大きな話題になった生成文法の話題にピダハン論争があって、詳しくは書籍が出てるのでそっちを読んでほしいが、結論だけ述べると「埋め込みがなくても再帰性は否定されない」が正しいと思う。もう少し小さな話題としては文脈主義論争もあったが、(ピンカーの本でも軽く触れられていたとはいえ)思った程には話題にならなかった気がする。あとこれは私の勝手な見解だが、法則を見つけようとする生成文法よりも、制約に基づく理論や構文文法の方が言語を記述するという点では優れている気もしている。言語学で対立と思われていたことの多くが今でも意義のある対立なのか私にはもうよく分からない。

生成文法であれ認知言語学であれなんであれ、以前は言語学者が分野やテーマを横断した学際的な理論を展開していたが、前にも指摘したようにそういうことが平気で出来る時代はもしかしたら過ぎ去ったのかもしれない。そういう中で認知科学の現在がどうなっているかを語る予定だったが、すでに長くなっているのでそれは別の機会に…