なぜ公的な領域にはエビデンスベースが求められるのか?

二十一世紀に入ってから、医療や教育や政策などエビデンスベースが求められる領域が広がっている。エビデンスベースとは「証拠に基づいた」という意味で、経験的な検証を経た手法を用いて医療や教育などを行なおうという動きである。

エビデンスベースとは何か?

まず始めに確認しておきたいのは、エビデンスベースとは科学的であることと全く同じであるわけではないことである。世間一般で(広い意味で)科学的という場合は、任意の科学的成果に基づいているという広い意味で使われることが多く、科学的成果からそれに基づく提言までの間にあからさまに類推や推測が働いていることが多い。それに対して、エビデンスベースの場合は、対象となる手法を直接的に検証している。例えば、単に(広義で)科学的というだけだとある成分がラット実験に効くことだけから人間にも効くということを導く場合も含まれうるが、この例ではラットに効くなら人間にも効くという推測が働いている。エビデンスベースの場合はその成分の直接に人間に試して効くかどうかを検証するような直接的な仮説検証型を指す場合が一般的だ。更に実験計画や因果推論に関わる細かい話は他にいろいろとする余地は幾らでもある。当初はそうした細かい議論をする記事を書く計画だったが、それは手間が掛かりそうなので今回はその手前の内容を書く予定なので、今はこの説明で済ませます。

私がエビデンスベースについて書こうとしているきっかけは、たまたまネット上にあったエビデンスベースについて記事を読む機会があり、ネットで日本語のエビデンスベースの論文を幾つか読むうちに危機感が高まってきたせいである。ネットでよく見かけるエビデンスベースの論文は教育学者や人文学者によって書かれたものが多く、基本的に反エビデンスベース色が強い上に科学的な方法論にも無知なことが多く、読んでも得るものが少ないと言わざるをえない。だいたいその人たちの科学観も科学社会学(やSTS)の辺りに留まるものが多く、私から見ても古臭くて偏っている。このポストトゥルースの時代に、クワインホーリズムもろくに分からない不勉強で非倫理的な 1学者に付き合わされるのはあまりに気の毒なので、とりあえずはエビデンスベースの必要性についてだけの記事を書くことにした。エビデンスベースについてのさらなる突っ込んだ議論 2は別の機会に書く予定です(出来なかったときはすいません)。

私的な領域にエビデンスはいらない(当たり前だ)

なぜ、どんな領域にエビデンスは必要なのだろうか。それは公共的な領域にはエビデンスベースが求められるのだ。そして、医療や教育は社会全体に影響を及ぼす重要な領域であり、そこで使われる手法になぜそれである必要があるのかという公共的な理由が要求されるの自然なことだ。エビデンスというのはまさにその公的な理由(public reason)としてふさわしいものだ。効果があるのかよく分からないものに公的な資金が費やされ、社会の大多数がそれに巻き込まれるのは社会にとって迷惑でしかない。医者が自分の好みで勝手な治療法を選んだり、教育の仕方が政治家や教育学者の単なる思い込みで決めれたりしたら、その社会は大損失を被ることになる。もちろんエビデンスベースは万能なものではないが、社会全体を考えたら、エビデンスベースに従うことが多くの人にとって益することになるのだ。勝手にエビデンスベースを万能なものに仕立ててそれを非難するという反エビデンスベース論者の言うことをいちいち真に受ける必要はない。

エビデンスベース論者で極端な馬鹿論者は、何にでもエビデンスベースが当てはまるわけじゃないという人がいる。そんなの当たり前だ。すでに論じたように、エビデンスベースは公共的な領域について公共的な理由を与えるために求められるのだ。逆に言えば、当然なことに私的な領域にはエビデンスベースは必要ない。これまた理由は簡単で、私的な領域に公的な理由は必要ないのであり、各人は法律に反しなければどんな人生を送ろうと自由だ。もちろん人生に規範が必要だと思う人は勝手にそう思えばいいのであり、それもエビデンスとはなんの関係もない。エビデンスベースに強い抵抗を示している人は、自分の人生が侵食されるかのようなおかしな勘違いをしている場合もあるのかもしれない。

この節で重要な結論は、「公共的な領域にはエビデンスベースがあるものがふさわしい」ということだ。エビデンスベースをどう評価しどう適用すべきか?という上級編は別の機会に取っておきます。

経営にエビデンスベースは必要か?

エビデンスベースの必要性についての基本的な話はすでに終わったのだが、今度はその応用編となる議論をしてみよう。経営にエビデンスベースが必要だという人を想定しよう 3。この人の意見は正しいのだろうか?

結論を先に述べてしまうと、その人がそう主張するのは自由だが、公的領域におけるほどには強制的な説得力はない。経営にエビデンスが必要とされるかの判断の基準は、経営が公的な領域に当てはまるかどうかにかかっている。社会全体を網羅するような医療や教育ほどには大多数の人には関わりが大きくないにしても、私の人生のような私的領域に比べると関わりのある人数はずっと多い。その点では、ある経営者が自社の多数の雇用者のために確実なエビデンスに基づく経営手法を選ぶというのはおかしな話ではない。しかし、その決定は公共的決定とは言い難い。エビデンスの求められる公共性の問題は単に人数の問題ではなく、その失敗が社会においてどう位置づけられるかにかかっている。

ここで注目すべきなのは経営が市場で評価される点である。医療や教育におけるエビデンスベースとは失敗を最小限に抑えること…つまり実験では一方の条件の群が失敗を被るが、単に盲目的に勝手な手法が適用されている(つまり失敗の情報があまり伝わらない)よりは失敗の数は最小限に抑えられることになる(失敗の情報が効率的に伝わる)。

そもそも、経営手法を実地に実験できるか(条件のランダムな割当に経営者が賛同できるのか?)も問題だが、それ以前に注目すべき点として、市場とはそれ自体が実験場なところがある。つまり、市場で様々な経営が行われて、そのうちの成功したものが生き残るのだ。市場そのものが実験場なのだから、わざわざ手間のかかるエビデンスベースな実験をすることは無駄が多い。市場はそれ自体が効率的な(分散的)情報伝達を行なう場でもある。経営にはエビデンスが必要ないというよりも、市場の効果には及ばないということでしかない。

市場かエビデンスか、それが問題だ

ここまでくると、リバタリアン(自由至上主義者)なら医療や教育も市場に任せればいいだろ!というかもしれない。実際に塾や予備校は市場原理に従っている。しかしこれらはあくまで家庭ごとの私的支出によって支えられている。医療や教育のような公共的領域の目的の一つは、公的資金を投入することで最低限の基準を保つことである。そのためにはやはりエビデンスベースによる最低限の保証はないよりあった方がよい。それは自分勝手な政策を実行しようとする政治家に対する防波堤にもなりうる 。

無知なエビデンスベース非難はお話しにならないが、エビデンスベースには様々な面倒な問題があって、単に手法を検証して適用すれば構わないでは済まされないのも確かだ。その点ではリバタリアンのすべてを市場原理に任せろ!も理解できない訳ではない。しかし市場もエビデンスベースとは別の意味で万能薬ではない。ただ、最終的に市場に任せるのであれエビデンスベースに頼るのであれ、政治家や官僚や学者の何の証拠にも基づかない思弁的な政策を勝手に実行されるよりはずっとマシだということだ。 4


  1. 自分の学者人生を引き伸ばすことしか考えていない

  2. おそらく社会科学の基礎論的な話になるだろう。社会科学は条件の統制やサンプルの代表性が自然科学ほどには保証できない…と書けば分かる人には分かるはずだ。実は心理学の再現性問題も関わりを持っている。

  3. だいたい経営手法を直接に実験的に検証するのは困難としか思えない。「経営者と構成員の認知・判断に関する実験科学的アプローチ」を参照。一応確認しておくと、私はエビデンスベースの経営を否定しているのでなく、必要性の議論の違いに注目させたいだけだ。

  4. ちなみに、この記事に文献参照が少ないのは単に適切な日本語のエビデンスベース論文がないからでしかない。一本だけ良い日本語の論文はあったが、今回参照するのには端的に適切でなかっただけだ(次があれば参照するはず)。英語のエビデンスベース文献で最も重要なのは科学哲学者ナンシー・カートライトの著作だ。