どうも、最近使っていた古いタブレットが突然にぶっ壊れてかなり困った蒼龍です。その後、リサイクル店で手頃な中古タブレットを見つけて助かったわ。

認知科学については日本ではあまり知られていないが自分ならそれなりに知っているようなことは探せばあるだろうが、面倒なのと知らせる動機が湧かないのとでやる気が起きない。最近だと計算主義批判に反論した論文が面白くて記事に書こうかとも思ったが、そもそも日本では計算主義も(身体化論による)計算主義批判もろくに知られてないのに計算主義への反論について書く意義がよく分からないし、一から説明するにも面倒で取り掛かる気は起きない。

最近の日本の認知科学事情だと、リサ=バレットの情動(emotion)論の著作が訳されたのが目についたかな。ちゃんと読んでないからここで大したことは言えないけど、リサ=バレットによる情動の構成主義から内受容感覚の予測符号化へという流れは、フリストンの認知的存在論(cognitive ontology)から自由エネルギー原理へという流れに対応している。つまり、機能や情動の脳部位対応説が失敗したことから脳の計算的メカニズムの探求へと言う流れは共通している。脳の計算的メカニズムとしてはベイズ脳が想定されているが、ベイズ脳における合理性を批判する論文も少し前に読んでいて面白いとは思ったが、それを紹介するのもまだやる気がしない。

それよりも、最近の日本の政治事情を見ていてイライラしてくるところがあるのでここに書いてスッキリする。それは日本での制度への注目のあまりのされなさにうんざりしている。つまり、官僚が政治家に忖度するそもそもの原因は、人事を政治家に握られているせいである。そこの問題に気づかないのはそれこそ権力分立も議院内閣制も日本ではろくに理解されていない証拠だ。

議院内閣制について知るには古典であるバジョット「イギリス憲政論」を読むのが一番だが、これは読まれていないどころか、日本では手軽に手に入れることさえできない。そのせいか、議院内閣制とは専門知識を持った官僚を素人としての大臣(政治家)が見張るという形式が理解されていないように見える。確かに元々の日本の大臣は官僚の犬みたいな立場で問題があったが、それが今回は真逆に政治家が官僚の人事を握ったら権力分立が完全に崩れっ去ってしまって官僚が政治家の犬になってしまう。議院内閣制では三権分立が守られていない…はバジョットの見解ではあるが、それは一方が他方に従属する犬になっていいことを意味していない。こんな馬鹿な制度を作ったのはどこの誰なのか?なんできちんと反対できなかったのか?はきちんと調べておいたほうが良い。

ちなみに、日本では制度か人か?の二者択一を持ってきて、制度では問題は解決しないから人だ!という論者もいるが、これはまやかしだ。もちろん制度も人も!が正しい。だいたい制度は人が安易に間違ったことをしないようにしたり(権力分立!)、できればうまく物事が運ぶようにしたりするための仕組みで、制度だけで問題が解決すると思うのが勘違いだ。

日本の問題は最新の理論や技術以前の基礎知識レベルで解決すべきところも多いが、それが指摘されることさえ少ない。実は日本には制度上の問題はもっと広範囲に見られるものでもある。