ラジオを聞いてたらどっかの哲学研究者が、AIは感情を持てないから所詮人間とは違う…みたいなことを話していて、まだその場所?と軽く馬鹿にした。

人工知能が人の感情を引き出す振る舞いをして、人の側が人工知能に感情があると思い込めば、それだけで人を上手く操ることは難しくない。人工知能について本当に感情を持つかという形而上学レベルから感情があるかに見えれば構わない…の動きは二十世紀末から起こった動きで、そっちの方が怖えんだよ!所詮、知識のないやつの見解なんてどっかの典型に当てはまるものでしか大抵ない。

人工知能について日本では、教養のない工学者の素朴な技術主義と(科学的)知識のない人文学者の素朴な人間主義とが分断している下らない状況はある。日本の技術主義の話は脇に置くとして、そういえば認知科学的に見ても、日本では身体化とかクオリアとかアフォーダンスとかが好まれやすいが、それって日本には人間的なものへの素朴な愛着がある伝統があることの傍証にも感じる。

人権否定は人間への見方が甘い証拠

日本には人権を馬鹿にする西洋の人間主義を否定する奴も多いが、私からみると人間に対する見方が甘いのはむしろ日本の方だ。そう思ったきっかけは、どうも日本では制度とかプラットフォームとかを軽視しているが、それは人間に対する見方の甘さが原因ではないかと気づき始めたからだ。

つまり、制度の基盤となる権力分立とは人は権力を持つとろくなことをしないという冷徹な視点から成立しており、権力同士を互いに均衡させようとしている。しかし、日本にはそんな思考があまりなくて、決められない政治は駄目だ的な言葉に簡単にやられてしまう。決められない政治は権力均衡の結果であり、簡単に物事を決められる独裁状態に陥るよりもよっぽどマシだ。

プラットフォームとしての憲法

憲法はプラットフォームを成立させるためのもので、人権はその重要な要素の一つだ。人権なんてどうでもいいと言う奴は、人権はお互いに守りましょうと言う奴と同じで、人権の役割を分かっていない。人権とは、権力との非対称な関係から人々の身を守る基盤であり、人権を守るべきなのは人々の側と言うより権力の側だ。人権に安易に例外を認めないのは、権力の側による恣意的な運用を防ぐのが目的。人権を安易に否定する奴は、権力を持った人間の恐ろしさを分かっていないアホな奴らでしかない。

日本では制度やプラットフォームの意義がさっぱり理解されていなくて、自分に都合よく物事を変えようとして土台まで平気で掘り崩す馬鹿がいる(スマホでアプリを削除してたらOSも消しちゃったみたいな感じ)。憲法と法律の区別もつかない馬鹿な政治家に限って憲法改正で騒いでる。憲法は政治的に見解が異なる間でもなんとか同意できるものでないといけない。憲法を変えるのがいけないとは言わないけど、せめてもうちょっと憲法の意義を正しく理解できるようになってからやろうとしてくれないかなぁ〜

人間や制度への認識の甘さは東アジアの特性?

西洋の人間主義(ヒューマニズム)を馬鹿する奴は日本によくいるが、権力分立や人権が何故あるのか?つまり権力を持った人間の恐ろしさを知らない日本人の方が、よっぽど甘ちゃんとしか思えない。

で、こういうことを考えているうちに、私の中国思想史の知識(諸子百家から陽明学まで)を漁って見ると、どうも西洋にあるリアルな人間観が見当たらないのに気づく。韓非子の法家はリアリストっぽいけど、誰が法を作るのかを見逃してる点では甘い(西洋だと古代からツキディデスのリアリズムもあれば混合政体論もある)。今の東アジア(特に中国)を見てると、そもそも東アジアでは思想的に制度は理解されてないかも…とも思うが、これはこれから調べるべき宿題だな


勢いで書いたので本文からは抜いた

緊急事態条項うんぬんで騒ぐ奴らもいるが、緊急事態条項は条文化されてる国もされてない国も両方あるのでそこは問題ではない。むしろ緊急事態にはリスクと人権を秤にかけられる人材がいることが前提で、あとは責任を持てる人が決断できればよいのだが、残念ながら日本には「責任」を持てる人も制度もないので、全くもってお話にならない。緊急事態条項をそんなに条文化したいなら、それ以外の制度を整えてから物を言え!