脳科学で彩られた記事を読む方法、教えます

中野信子がマスメディアに出始めた頃は、話題に合わせて新しい論文を適切に参照した発言をしていた。それまでマスメディアに登場してた脳科学者に懲りごりしてた私は、(研究の一般化に疑問はあれど)その賢い発言に感心してしまった。しかし、比較的最近になってラジオにおいて脳科学で人生相談をし始めるのを聞いてから、ガッカリする事が多くなった。

おそらく中野信子が変わる分水嶺となったのは、ベストセラーとなったサイコパス本のせいだと思う。私は本は読んでないので直接に評価はできないが、当時ラジオで話してた感じではちゃんとした内容なんだと思えた。ただ、そのラジオを聞いてて気になったのは、中野信子サイコパスは必ずしも悪いものではなく、英雄や天才のように良く働くこともあると強調してたのに、聞き手の側はそこをあまり飲み込めてないように聞こえたことだ。それはサイコパスは犯罪者みたいな人だという偏見が拭えないせいだろうし、そこが理解されないのは気の毒だと思った…その時は

そして、最近の彼女の発言は冒頭にリンクした記事になる。私の印象は、脳科学で人生相談の時と似ていて、他人の欠点を脳科学で説明してほしいという欲求に屈してしまった!というものだ。その結果、部分的にはおかしくなくとも、全体として見ると奇妙な歪みを感じる記事になってる。

ここではこの記事を直接批判するのが目的1というよりも、こうした脳科学的な記事を読むためのコツを書こうと思う。

科学的説明から価値は導けない

じつは人間の脳は、他人に「正義の制裁」をくだすことに悦びを感じるようにできていると中野さん。

この記事はこうした「正義中毒」にハマった人を非難する内容になっている。だが、ここで気をつけてほしいのは、科学的説明から価値や規範を導くことはできない事だ。まるで正義に駆られた言動が悪!みたいな言い方がされてるが、それは著者の価値から導かれたもので、科学は関係ない。

中毒そのものが悪いと思われがちだ。ここでは説明されてないが、中毒は脳の快楽回路(悦び)と結びついたものとして説明されることがある。これはアルコール中毒やギャンブル中毒になると思うと悪そうだか、仕事中毒や研究中毒の形で表れたときにそれで重要な成果が出たとしたら、それを一概に悪いものとは断定しがたい。

要するにサイコパスと同じで、科学的説明から「これは悪い」といった価値を結論として導く(正当化する)かに見えるときは気をつけないといけない。

還元的な説明は科学的な彩りを与える(だけ?)

そのために重要な役割を果たしている神経伝達物質のひとつがドーパミンです。私たちが「正義中毒」になるとき、脳内ではドーパミンが分泌されています。ドーパミンは快楽や意欲などを司っていて、脳を興奮させます。

こうした脳内物質による還元主義的な説明は脳イメージングの流行り前からあり、これへのウンザリ感が私を(計算主義的な)認知科学に走らせた所もあるが、その話は別の機会にしよう。

こうした還元主義的な説明に説得させられてしまう人は多いだろうが、そこには罠がある。ドーパミンの分泌は快楽状態のときの脳の物質的な状態を示しているだけであり、ドーパミンの分泌が快楽の原因だと考えてはいけない。重要なのは、どのようにドーパミンの分泌に導かれるか?というメカニズムの方だ。

科学的な説明法は一つでも一枚岩でもない

引用部分の後に「自分たちの集団や価値観を守るため、正義をおびやかす「悪人」を叩くという行為によって、快感が生まれるようになっているのです」とあるが、これは直前のドーパミンの説明と結びついていない。脳のメカニズムは複雑であり、堂々と一般向けに説明できる段階にはまだ達していない。

実のところ、この記事にある説明は(脳科学と称する記事にありがちなように)、神経科学による説明だけでなく、心理学や進化論による説明も混ざっている。こうした異なる分野の説明はそんなに簡単にはきれいにはつながらないことが多いのにも注意しよう。

自分を例外に置くバイアスに嵌まってる?

「正義中毒」につながる傾向のひとつに、自分たちの集団を「他よりもよい、優れている」と感じる「内集団バイアス」があります。

これ読んで思ったのは、「正義中毒」に罹ってる人達を自分とは異なるあの人たちとして告発する姿そのものが内集団バイアス(Ingroup bias)じゃないの?という疑問だ。

安易なカテゴライズ、レッテル貼りに逃げない……単純なレッテル貼りを気持ちよく感じてしまう裏側には、脳の弱さがある。

これは著者がお勧めしているトレーニングの一つだ。だが、「正義中毒」そのものが安易なレッテル貼りじゃないのか?問題のある人も多くいるのかもしれないが、正義に駆られた人々を十把一絡げに中毒呼ばわりするが本当に正しいのだろう?これが安易なカテゴライズでないと堂々と言えるのか?

こうした自己矛盾はこの記事に限らず、ネットはもちろん様々なメディアの記事によく見られる。自分を特別視するのは認知バイアスに広く見られる特徴である。

残念ながら、他人の欠点を科学的に説明してもらいたい欲望に応えることは、そうしたバイアスに貢献することになってしまう。

とりあえずの締め

ここで指摘した特徴が中野信子自身にどの程度に当てはまるのかは、微妙なところもあって確定はできない。だが、ラジオや記事での彼女の発言を見る限りでは、他人の欠点を科学的に説明してもらいたい欲望に応えてしまっている感は拭えない。その点では、彼女を擁護する気は私にはどうも起こらない。


  1. 初めの計画では、もっと内容に突っ込んだ批判も書く予定だった。例えば、脳の機能部位対応説はどこまで有効か?、政治的だけでなく科学的にも危険な性差の話、統計的な有意差という必殺語の罠、メタ認知が感情的な反応を抑える?…といった話題も書こうとしたが、ちゃんと書こうとすると面倒くさいことに気づいてやめた。