メタ認知はなんとか中毒を抑制できるのか?

こうした脳の手抜きを防ぎ、「正義中毒」に飲み込まれないようにするためには、どうしたらよいのでしょうか。
中野さん

ひとつ提案したいのは、「メタ認知」を鍛えることです。「メタ認知」とは、いわば自分を監視するもうひとりの自分。
どんなときに「許せない!」という感情が湧いてしまうのか、自分自身で認識する努力をしてみましょう。それができれば、自分を客観視して「正義中毒」を抑制できるようになります。

この前にこのブログで挙げた記事で参照したサイトの記事後編「正義中毒の対象になるのは、集団のルールを乱す人/脳科学者・中野信子さん」からの引用だ。

このサイトの記事で気になったところは幾つかあったが、その中でもこの引用部分は特に違和感を感じた。これは独立した記事を書いた方が良いかな…とここしばらく調べ物をしていたのだが、とりあえず区切りがついたので記事にしてみた。

メタ認知とは?

まず気になったのは、メタ認知の説明だ。メタ認知についてインターネットで検索してみた。特にビジネス系のサイトでよく解説されているのを見かけたが、その説明に問題があるとはそれほど思わなかったので、詳しくはそれらを見てください。

メタ認知の説明としては、「認知についての認知」や「考える事を考える」として簡単にできるメタ認知は、自分は安易な判断をしがち…といった知識やこんな考え方はやめよう…といった調整からなっている(google:判断の歪みを生む不適切なメタ認知的知識を問い直す 三宮真智子も参照)。

『どんなときに「許せない!」という感情が湧いてしまうのか、自分自身で認識する努力をしてみましょう』はメタ認知の例として相応しいのだろうか?これはどうも微妙だ。感情が湧くのがメタ認知の対象となる認知なのかも微妙だ。どんなときに許せないのかの認識も、それはただの状況分析であってどこに「メタ」の要素があるのか怪しい。

メタ認知は中毒を抑えられるのか?

それでは、そもそもメタ認知は彼女の言う正義中毒を抑えることができるのだろうか?彼女の言う正義中毒は強い解釈と弱い解釈とをとれる。それらを別々に検討してみたい。

ドーパミンがもたらす中毒症状としては、アルコールやギャンブル依存症があります。「正義中毒」の認知構造は、これらの依存症とほとんど同じ。一度ハマると簡単に抜け出せなくなり、罰する対象を常に探し求めるようになってしまうのです。

記事前編「これからは「人を許せない」気持ちが増幅していく」からの引用だ。ここからは強い解釈、正義中毒はアル中と同じ依存症であるという解釈がとれる。以下では、メタ認知は依存症に効くのか?と一般化された形で議論してみます。

もう一つは、正義中毒は内集団バイアスのような認知バイアスの一種である…とするような弱い解釈だ。これも一般化して、メタ認知は情動的な反応を抑制できるのか?といった形で論じてみたいと思います。

メタ認知は依存症に効くのか?

正直、これには私は専門家ではないので正確には答えられない。依存症の治療にメタ認知が用いられているのかは私にはよく分からないし、あったとして証拠(エビデンス)があるかも知らない。ただ、メタ認知が依存症を抑えられるかのような言い方にはかなりの問題がある。

過去にドラッグ経験のある芸能人があらためてドラッグの件で再逮捕されたときに、テレビ番組で騒がれたことがある。その時、ラジオ番組で専門家がドラッグに代表される依存症は病気なので、意志が弱いといった本人の全面的な責任だけで語るのは危険だと論じていた。私もこの説明が正しいと思う。

つまり、本物の依存症はメタ認知を鍛える程度で治るものではなく、むしろ依存症が意志や努力だけの自力で治ると誤解されるのは危険でしかない。メタ認知が依存症に効くとする強い解釈は問題がある…とはっきり言わざるを得ない。その程度で治るなら、世の中の依存症はとっくに治っている。

メタ認知は情動的な反応を抑えられるのか?

感情と言った時に、それがfeelingなのかemotionなのか1分かりにくい。feelingは感じられるものなので、そこから直接に反応が起きる訳ではない。むしろ、科学的に問題とされるのは身体的反応を伴ったemotionである。以降で話題となるのはemotionの方なので、ダマシオ的に情動と訳して用います。

情動的な反応を抑える…と言われて私が思いついたのは二つある。それは、二重過程説と実行機能2だ。そこで、これらを順に取り上げてみたい。

メタ認知は二重過程説と関係あるのか?

二重過程説は、カーネマンに代表される行動経済学によって一般にはよく知られているが、学問的にはこれまで様々な領域で独立して発見された成果をその共通する特徴からまとめ上げた射程の広い理論だ。

二重過程説は、素早い直観的な判断に当たるシステム1と遅い熟慮的な判断に当たるシステム2からなっている。システム1はたいてい意識されないので潜在的過程、システム2はたいてい意識されるので顕在的過程とも言える。認知バイアス潜在的なシステム1に当たり、脳の研究から情動的な反応とも深い関わりを持っているとされる。システム2は脳の前頭前野が関わりを持っており、そこは中野信子も指摘している。

二重過程説にはデフォルト介入説(Evans&Stanovich)があり、初期値(デフォルト)で素早い判断が決まっていて理性がそこに介入するとされている。実は中野信子の説明はこれに従っている。ただし、これには批判もあって一元的な説も提示されているが、一般的にはこの二元的な説が広まっている。

この二重過程説が正しいとして、メタ認知はこれとどう関係あるのだろうか?正直よく分からない。メタ認知には認知を調整する機能はあるが、情動をどうこうする機能はない。感じられる感情ならメタ認知で調整可能かもしれないが、それは必ずしも情動的反応に直接に結びついてる訳ではない。

二重過程説だけから、メタ認知が情動的反応を抑えるのを導くのは無理がある。

実行機能はメタ認知と関係あるのか?

情動的反応を抑える…と言われて、私がもう一つ思い出したのは実行機能だ。実行機能とは、目標に向けて自己を調整する機能である。子供は目標のために目の前の欲求を抑えられるか?といった発達的な研究がよく行われている(google:実行機能の初期発達、脳内機構およびその支援 森口佑介を参照)

メタ認知は、メタ認知的な知識(knowledge)とメタ認知的な調整(regulation)からなっており、調整の中身は監視(monitoring)と制御(control)からなっている。しかし、メタ認知の調整の及ぶ範囲はあくまで認知の範囲だけであり、情動にまでは及ばない。

実行機能は調整機能(regulation)そのものであるが、それは情動(emotion)にまでも及ぶ。もしメタ認知が情動的な反応の調整にも及ぶとしたら、それは実行機能を介してでなければありえない。メタ認知と実行機能の関係はきちんと科学的に研究されるべきなので、まだ研究が進んでいない段階で私が言えることは少ない(google:Executive function and metacognition toward a unifying framework of cognitive self-regulation Claudia Roebersを参照)。

よって、以下は私のただの推測になる。実行機能が情動的な反応を抑えるような自己調整を行なうには、自らの状態を目標に照らして評価する必要がある。その時に、自分の認知状態を評価するのにメタ認知の能力が用いられているはずだ。つまり、メタ認知は実行機能と組み合わされるなら、情動的な反応を抑える可能性はある。ただし、それがどのように可能かはよく分からない。

一応の処方箋

依存症を抑える方法は私には分からないので聞かないでください。情動的な反応を抑える方法なら、あくまで示唆ぐらいならできるかもしれない。

  • 目標の設定

単にメタ認知能力を高めても、いつそれを発揮するべきか分からない。実行機能の特徴に目標指向があるが、情動的な反応を抑えるためには(小さくとも具体的な)目標を定めることは重要であると思われる。目標があって始めて、自らの状態を評価するのが可能になる。

  • ナッジの活用

とはいえ、必要な時に目標を思い出せるか分からない。あまり自力にこだわらず、目標を思い出せる仕組み(環境やアプリ)を作っておけば良い。例えば、欲求に屈しそうなときに自分の子供(親、恋人…)の写真が目につくようにするなどが考えられる。

  • 環境を変える

意志や努力は必要だが、あまり過剰評価してはならない。むしろ環境を変えてしまった方が良い場合もある。SNS中毒で困ってるなら、インターネットにつながらない環境に行けばよい。人間関係を変えることで、余計な誘惑をなくすこともできる。ここまでの環境の激変は無理でも、変えられるところは探していいかもしれない。

自己啓発系やビジネス系のサイトや書籍を見て思うのは、何でも個人の能力や努力のせいにする悪しき心理学主義(psychologism)に陥ってはならないことだ。マトモな心理学や脳科学はそんなに便利なものではありません。


  1. さらに、関連用語にはaffectiveもあってややこしいが、ここでは取り上げない

  2. exective functionは執行機能とも訳されるが、ここでは実行機能で統一する。学術語の日本語訳は幾つもあるままなことが多く、挙げ句の果てはカタカナ語(や直訳)で済ますという手抜きにさえ至るので、本当に困る。ちなみに、私自身は意味を反映した訳を望む。理由は簡単で、カタカナ語を連発するだけで何を言ってるかよく分からないビジネスマンや政治家が嫌いだからだ。残念ながら、学者でも似た人は多い。