社会を統治する新しいパラダイムを探ってみる

最近の私がよく調べたり考えたりしてるものがある。それの中の主な二つが、統計(情報)の話とアーキテクチャの話になる。ただ、私が考えてるテーマを直接書いてもなかなか興味を持ってもらえそうにはないので、もうちょっと現在の状況に合わせた形の話題にして、ネット記事からの引用を交えて記事を書くことにした。

目先のポストコロナ論を超えて

現在は新型コロナウイルスで騒然とした状況である。その中で、様々な人が様々な見解を発信している。ただ、直接に問題と結びついた知識を持っている人はそれを元に議論をすればよいが、そうでない側の人は(馬鹿騒ぎするのでなければ)やきもきするしかない。そこで、それに耐えられない人たちが、この新型コロナ以後の世界を論ずる、ポストコロナ論やアフターコロナ論を展開させている。

しかし、そうしたポストコロナ論やアフターコロナ論はたいてい、私にはつまらないと感じられる。それらを展開させている人がそもそも関連知識がない(あるなら直接に新型コロナ論を論じてる)のも原因の一つだ。だが、もっと大きな要因は、現在の危機状態における状況をそのまま将来に拡大させて反映させているだけなことが多いからだと思う。

その点では、山形浩生の指摘は正しい。オウムサリン事件やリーマンショック東日本大震災と同じで、事態が収まって時が十分に経てば1、そんな一時的な反省は忘れ去ってしまうだろう。

その中で比較的に面白い記事だと思ったのが、エフゲニー・モロゾフによる論考だ。

ごく単純に言えば、「ほかの選択肢も時間も財源もないから、 社会の傷にはデジタルの絆創膏を貼ることくらいしかできない」と考える思想だ。
ソリューショニズムの信者は、テクノロジーを使えば、政治に首を突っ込まなくてすむと考える人々だ。
「パンデミックを“IT政策”で乗り切る」のは大間違いですより

これが興味深く感じられる理由は、それがモロゾフが前々から主張している解決主義(ソリューショニズム)批判と結びついてるいるからだろう。たいていのアフターコロナ論は現在の危機感をそのまま将来に拡張させてるだけなのに対して、これまでの流れを踏まえた射程の広い議論なのが良い。

そこで自分も、このモロゾフの解決主義批判の議論を補うように視点を広くできるヒントぐらい書きたいなぁ〜

社会を統治する新たなパラダイム

社会に重大な影響を与える病気への対応は、時代によってかなり異なる。特にフーコーによる議論は知られている。

こうした排除、価値剥奪、追放といったネガティヴなメカニズムに支えられたモデルは、しかし17世紀末から18世紀初頭にかけて姿を消したように思われる、とフーコーは分析する。反対に、それとは別のモデル、ペスト患者に対する封じ込めのモデルが、癩病患者の排除に取って代わったという。ペストのモデル、それは管理のモデルであり、ペストが発生した都市の網羅的警備というモデルである。
7調和と逸脱──19世紀における〈メタ身体〉の系譜学より

「狂気の歴史」で描かれる排除モデルから、「監獄の誕生」で描かれる管理モデルへの転換は、その方面ではよく知られている。管理モデルはフーコーの言う生権力と結びついており、学校や工場、病院や監獄のように、一括に人々を集めて人々の行動を制御するという形をとる。詳しくは大量にある関連文献を読んでください。

しかし、こうした管理モデルが成立してたのはせいぜい二十世紀の間までだ。今では新しい社会統治のモデルが現れつつあり、それこそがモロゾフの言う解決主義である。政治的解決の当てにならなさに絶望した後に、テクノロジーによる解決に期待したくなる気持ちは私自身も理解できる。実際に、それはビックデータと高度な技術発展によって可能になりつつある…いや、実は別の形ですでに実現していた。

各個人に最適化させるアルゴリズム

マイクロターゲティングという手法自体は、一般的なマーケティングでも使われるものだ。CA社は、それをプロパガンダに利用した。かつてのプロパガンダでは、例えば同じメッセージが書かれた大量のビラを空から無作為にばらまいていた。CA社が行なったプロパガンダとは、ひとりひとりに対して異なるメッセージが書かれたビラを、狙い撃ちで届けるようなものだ。
ケンブリッジ・アナリティカ事件の当事者が語る「民主主義をハックする」方法より

ケンブリッジアナリティカは、イギリスのEU離脱やトランプの大統領当選に大きな影響を与えた企業として有名になった。重要なのはそこで使われた手法で、それはこれから社会統治に用いられようとしている手法そのものだ。

人々からデータを集めて、それを各自に沿った形へと変換して使う。そこには、過去の排除モデルや管理モデルにあったようなあからさまな不快さは消されている。それは一度受け入れてしまえば抵抗するのは困難になる。それは既に、アマゾンやユーチューブやネットフリックスのような巨大プラットフォームにおいては実装されており、利用者はその便利さに逆らうことにメリットはほぼない。

今回の感染症対策にこうした技術を活かせば、被害を最小限に抑えながら経済活動を促進することが可能になる。そして、ここで味をしめてしまえば後はそれが社会統治へと全面化されるがそれで良いのか?…がモロゾフの提示する疑問だ。

この疑問を論ずることは別の機会にするとして、次はこうしたビックデータを扱う技術を支える背景にも少しは迫っておきたい。

平均の統計学からの転換

19世紀後半には、統計的平均と健康(健全さ)は同一視され、「正常なもの(le normal)」と呼ばれるようになり、逆に統計的平均=調和から逸脱したものは「病理的なもの」と記述されていった。
7調和と逸脱──19世紀における〈メタ身体〉の系譜学より

統計学を古典的統計とベイズ統計に大きく分けるとすれば、古典的統計は平均と線形(の帰結としての正規分布)の統計学である。二十世紀までは古典的統計が当たり前の主流であったが、最近はベイズ統計が力を増してきている。

二十世紀までは、フーコーのいう生政治によって統計的な平均が重視されており、それが規範を定める生権力による管理モデルに反映されていた。学校や工場のように、決まった時間に一斉に学んだり働いたりし、机に座ってじっと先生の話を聞くという行動規範が押し付けられていた。

ここで興味深いのは、管理モデルの時代と古典的統計が進展・普及する時代が重なっていることだ。ここには、その時代の知識の共通の基盤として、フーコー的な(近代的)エピステーメーが働いてるのかもしれない。そこでは、記述的な状態としての平均と人為的な基準としての規範が一緒くたにされて、社会統治のパラダイムをなしていたのかもしれない。

今回の新型コロナの件でリモートワークが増えてきている。そこから全てがリモート化するみたいな、今の状態を将来に拡大されただけの話はどうでもいい。ここでは管理モデルにあった、一括に人々を集めて管理する側面がどんどん解体されつつある。社会統治の新たなパラダイムが作られつつある(監視モデル?)。それに対応するかのように、知的な領域でも変換が生じているが、統計学における古典的統計からベイズ統計への転換もその一つと思われる。

統計改革は現在、進んでる最中でなかなか語りがたいが、古典的統計とは異なる考え方が普及しつつあるのは確かだ。ここで簡潔に論ずるのは困難だが、統計的な検定やモデリングだけでなく、ニューラルネットワークのようなアルゴリズムも含めて考慮すると、データへの統計的な扱い方や考え方(例えば線形から非線形へ)に大きな変化が起こっていることだけは確かだ。

とりあえず締める

後はせめて科学観の転換(物質から情報へ2)についても書けば、フーコーのいう知から力の層までで起こっている変化をとりあえず網羅できるが、もう切りがない。

最後に、ここでは結局あまり語れなかったアーキテクチャ論に触れてる最近の記事を紹介しておきます。


  1. おそらく問題は、人と距離を保つこと(social distancing)が元に戻るまで持たない業態が増えることだろう。特に昔ながらの商売を続けるのが困難になってしまい、街が様変わりしてしまうかもしれない。人々が精神的に目覚めて…みたいな一時的な空想よりも、そっちの方が心配。

  2. 案外知られてないのは、ニューラルネットワークの研究に物理学の研究者が多く関わっていることだ。これは統計力学の考え方(数式)がニューラルネットワークに応用できるかららしい。