楽観主義バイアスは人類に共通の認知バイアスか?

少し前に、ここのブログの記事である論文に付属していた認知バイアス小辞典を紹介した。そこには有名なバイアスも多く説明されていたが、次の認知バイアスもよく見かける有名なものだ。

楽観主義バイアス:好ましい出来事の確率を過大に見積もり、嫌な出来事の確率を過小に見積もる傾向

Optimism bias: the tendency to overestimate the probability of positive events and underestimate the probability of negative events (O’Sullivan, 2015).
google:Cognitive biases Section to be published in the Encyclopedia of Behavioral Neuroscience (Hans)Korteling Alexander Toetより

楽観主義バイアスはネットでも様々な文献でもよく見かける代表的な認知バイアスであり、そこに問題はないように思われる。楽観主義バイアスは、当たり前のように世界中どこでも見られる人類共通の認知バイアスだと広く信じられている。

楽観主義バイアスについての最近の研究例

この記事を書こうとして、ネットで調べていて見つけたある心理学論文(2015年)があったので、そこから引用しよう。

自己楽観バイアスは比較的頑健な現象として知られているが,質問の内容等によっては必ずしも観測されないことが示されたことは消極的ではあるが発見といえなくもない。
google:長瀬勝彦 自己楽観バイアスと時間割引のまとめ より

この論文で言われている自己楽観バイアスは、上で説明した楽観主義バイアスよりももう少し意味が広いが、それが含まれていることには変わりがない。この論文で、日本の学生を相手に行われた実験では(楽観主義バイアスを含む)自己楽観バイアスが見られなかったと言う。

こうした反証となる心理学実験の成果が、発見なのか?勘違いなのか?実験上の不備なのか?を評価するのは実は難しいのだが、その問題は脇に置く。たとえこの実験が発見だったと好意的に捉えたとしても、それは実のところ再発見でしかない。

この論文が参照してるレビュー論文では楽観主義バイアスを比較的頑強な現象としていたようだ。だが、それはレビュー論文の書かれた2004年の時点でも、明らかな不勉強でしかない。

心理学におけるWEIRD問題とは何か?

最近になって、心理学で問題になっているのにWEIRDがある。心理学実験では、実験の対象となる被験者が必要だが、前節で紹介した論文でも見られたように、その手軽さからか大学生が用いられることが多い。

その結果、心理学実験のほとんどが大学生を対象とした研究ばかりになってしまっている。しかし、そうした大学生ばかりの研究成果を人間全体に一般化するのは正しいのだろうか?

私たちはこうした心理学のデータベースをWEIRDと呼んでいます.Western Educated Industrialized Rich Democratic Societies (西洋の,教育を受けた,工業化された,豊かな,民主主義社会の)の頭文字を取ったものです.心理学のデータベースは大部分がWEIRDサンプルに基づいて作られています.しかし,こうした人々から導かれる結論は,その他の人々から導かれる結論と同じなのでしょうか.
google:Steven Heine 心理学における多様性への挑戦:WEIRD研究の示唆と改善 p.64より

この論文でこう指摘してから、Steven Heineは実際の研究例を挙げている。最初に挙げられている研究例は、「工業化された社会とそれ以外の社会」での錯視の見え方の違いだ。この例は、私が学生時代に読んだリチャード・グレゴリーの本(たしか「インテリジェント・アイ」)にも書かれていた話題で、個人的にはちょっと懐かしい気分になる。ここから人類学の話に逸れることもできるが、それは我慢。

育った環境の違いによって錯視の見え方が違う例…の次に挙げられているのは、西洋社会と非西洋社会の例だ。そこで西洋と東洋の自己観の違いに触れられているが、ここでも私は学生時代に引き戻される。なぜなら、それは私が学生時代に知って一時夢中になった文化心理学が関わりを持っているからだ。

文化心理学と楽観主義バイアス

北山忍は(マーカスと共に)、特にアメリカと日本の心理学的な成果を比較しながら、西洋と東洋の自己観の違いを提示したことで、二十世紀末の欧米の社会心理学界では比較的に知られていた。そうした成果を基にして、心の文化的な要因を扱う文化心理学もその時期に勃興していった。

細かい説明はここでは省くが、参照されているそうした成果の一つに楽観主義バイアスもある。

Weinstein (1979) は、様々な出来事が自らに将来起きる可能性を推定させ、 アメリカ人の多くは楽観性のバイアスを示すことをみいだした。つまり彼らは、望ましい出来事 (e g. 昇進、長寿) は平均的他者と較べて自分により起こりやすいと感じているのに対して、 望ましくない出来事 (e. g. 癌、 失業) は自分には起こりにくいと感じている。これらの研究とは非常に対照的に、近年の比較文化的研究はこれらの効果の多くが日本をはじめとするアジアの諸国で起きないのみならず、しばしばこれらの効果はその方向が逆転し、自己高揚的というよりも自己批判的・卑下的傾向が起きることを示している。
google:北山忍 文化的自己観と心理的プロセス p.162より

この論文が出されたのが1994年だ。これはもちろん日本語の論文だが、同じような内容は英語でも書かれており、よく参照されたのはむしろそっちの方だ。二十世紀末の段階で、楽観主義バイアスには文化差があって一般化できないことは既に知られていた…はずだった。

見捨てられた楽観主義バイアスの文化差

二十一世紀に入ってしばらくするうちに、そうした心の文化差は軽視されていったように感じる。同時期に心の普遍性を訴える進化心理学が流行るようになったが、同時にその頃は進化心理学に証拠に基づかない怪しい話がだんだんと増えていったとも感じる。これが(20)00年代までの状態。

そして、2010年に既に紹介したWEIRD問題が書かれた論文が出されている。10年代は他にも、(科学から遠ざかった)進化心理学が批判され、脳の機能局在論が疑われ、心理学実験の再現性が問題となった。こうして並べてみると、00年代までの安易な研究前提が一斉に叩かれていたのだと感じる。