またネットですぐ読めるお薦め論文を紹介してみた

なにかマトモな記事は書きたいが、なかなかやる気が起こらない。アブダクションについては、既に中間報告はしたが未だに進行中のテーマだ。教養についての記事もある程度の準備は前から進めているが、まだ書く気がしない。教養と言っても、これが教養だ!的な自分に都合の良い内容を教養だと言い張る話ではなくて、教養が人文学とどう結びついてるか?とか民主主義に教養は必要?みたいな話の予定だ。

エヴェレットの新著の翻訳が出たということで、ピダハン論争について書こうか?という気もしなくもない。特に日本ではエヴェレット寄りの話に偏りがちなので、そのバランスを取りたいと言うのはある。ただ問題はネットで読める中井悟のピダハン論文の域を超える内容は私には書けないので、興味のある人はそれを読めば済む話ではある(ただし読みやすい論文ではない)。

最近読んだお薦め論文

で…まぁ、以前にもやったネットで読める最近読んだ面白かった論文でも紹介しようかな〜と思う。一応は読みやすい論文を選んではいるが、スラスラとまでいくかは保証できない。私の本来の得意領域外とはいえ、馴染みが全くない訳ではないので、知識ゼロでも読めるかは私にはよく分からない。

例によって、どの論文もネットで調べればPDFが手に入って、すぐに読めます。

ジュゼッペ・パテッラ「アイデアを修復できるのか」

google:アイデアを修復できるのか 現代芸術の修復についての問い ジュゼッペ・パテッラ

現代芸術についての講演の翻訳。現代芸術はどう修復できるのか?という話。

私は若い頃に現代芸術の展覧会によく行っていたので、昔ほどではないにしても、現代芸術にはそれなりに理解も興味もあるつもり。だから、現代芸術が政治的なことに怒っていた馬鹿ウヨには軽蔑しかしなかったが、今回はその話ではない。

現代芸術に修復は必要か?

もちろん、すべての芸術作品に修復は必要だ。なぜなら、すべての物質は劣化を免れないからだ。有名な例では、レオナルド・ダヴィンチの「最後の晩餐」の劣化からの修復がある。ここまでの極端な例でなくとも、普通の絵画でも劣化は起こりうる。美術館では作品の劣化を防ぐために、展示作品を定期的に交換したり、明かりを工夫したりしている。

すべての芸術作品は劣化からの修復を必要とするが、現代芸術は事情が特別だ。ダヴィンチは作品の劣化を予想して作品を描いた訳ではないだろう。しかし、現代芸術は意図的に劣化しやすい素材を使っていることがある。講演では砂糖や牛乳の例が挙げられている。当然、こんな素材で作られた作品はすぐに腐ってしまう。こんな作品を修復する必要はあるのだろうか?

コンセプトと商品に引き裂かれる現代芸術

現代芸術ではアイデアやコンセプトが重視されている。インスタレーションやパフォーマンスのように、その場で成立すれば構わないタイプの現代芸術もある。ストリートアートのように、その特性上で劣化しやすい作品もある。ならば、そもそも現代芸術は消えてしまうものとして、修復なんて考えなくても良い…とも考えられる。しかし、そうも行かない理由がコレクターの存在だ。

現代芸術は高値で取り引きされる対象であり、コレクターにとっては作品を劣化されるままにして消え去っても構わない…とは思っていない。ならば、現代芸術は劣化したら元通りにすべきなのか?それとも、コンセプトを優先して元とは違う姿にして修復してもよいか?

このように、現代芸術がコンセプトを重視する芸術システムと、商品として扱う市場システムと、の狭間で微妙な位置にあることを、作品の修復の視点から考察した面白い講演だ。

鰐淵秀一「ポスト共和主義パラダイム期のアメリカ革命史研究」

google:ポスト共和主義パラダイム期のアメリカ革命史研究鰐淵秀一

ブラックライブズマター(BLM)の動きがここ最近盛んだが、そこである注目すべき動きが起こった。アメリカのある有名な大学の創始者が、当時に差別的な言動を行なっていたとして、その像を撤去するように訴えが大きくなった。

私自身は、極端なポリティカルコレクトネス的な表面だけきれいにしようとする試みは、実態としての差別を覆い隠す役割を果たすので危険だと思うが、ここではその話はしない。

むしろ注目すべきなのは、このような歴史をマジョリティ(大学の創始者!)の視点から差別されたマイノリティの視点への転換だが、これはアカデミックな世界では長い間をかけて起こっていた動きであり、今回の像撤去はその帰結だと言うことだ。

学問的な歴史学で何が起こっていたのか?

この論文は、最近までのアメリカ革命の歴史についての研究の展開を紹介するものとなっている。アメリカ革命そのものには興味がなくとも、これを読むとここ数十年で歴史学で起こった動きが分かるようになり、BLMでの動きの理解にも寄与する。

本当はポーコックに始まる共和主義パラダイムも興味深い1のだが、この論文で主に扱われているのは、それ以後から最近までの動きだ。それは大きく二つの動きからなる。 - 一国史からの脱却→周辺国を含むグローバルヒストリーへ - マジョリティ中心からの脱却→マイノリティへの視点の転換

論文では、アメリカ革命史の研究誌なのに、アメリカ以外の国を扱った論文ばかりになってしまったことへの年配の歴史家からの苦言が引用されている。もう一つ、アメリカ革命が白人男性中心で差別的だったとの見解にも反発している。

歴史への視点の多元化の結果…

近年のアメリカ史の研究は、女性・黒人・先住民といった従来の歴史研究では無視されてきたマイノリティの視点から描かれるものが増えたらしい。BLMでの動きは突然現れた孤立した動きではなく、アカデミックな歴史学で起こってた動きを反映したものだったのだ。これを読むとその一端が分かる。

もう一つ、この論文には興味深い指摘がある。それは、学問的な歴史学では視点の多元化が進んでいるのに対して、世間一般では相変わらず「当世風建国者伝」型の著作、つまり有名な人物を分かりやすく描いた伝記が人気だという指摘だ。これは、歴史学が多元化の結果として分かりやすい物語りをより提示しにくくなり、その一方で分かりやすさへの欲求は衰えてない(増してる?)事実だ。

これは私の勝手な推測だが、分かりやすい物語りへの欲求は、日本ではネトウヨに好まれる歴史学の成果を無視したフェイクヒストリーにつながっているのかも知れない。学問的な世界での証拠重視や多元化の動きに呼応するように、世間ではフェイクがはびこっていることについて語りたい欲望が生じてくるが、もはや紹介論文と関係ない内容なのでこれで終わり。


  1. 政治思想についても調べていたことがあるので、共和主義をめぐる議論もそれなりに知っている。シビックヒューマニズムや徳倫理が関わりを持っている。私は特に後期ロールズ好きなので、それと関連して言いたいことがないでもないが、それは別の機会にでも