予測処理理論は用語があいまいに使われているのか?

この前、統一理論としての予測処理(PP)理論を批判する論文を読んでいると書いた。それは次の論文だ。

google:Piotr Litwin, Marcin Miłkowski Unification by Fiat: Arrested Development of Predictive Processing には、一通り内容には目を通した。それなりに面白かったが、アンディ・クラークらの予測処理理論のレビュー論文とは真逆としたのは誤解を招く書き方だったなぁ〜と思った。

google:Kevin S. Walsh, David P. McGovern, Andy Clark, and Redmond G. O’Connell Evaluating the neurophysiological evidence for predictive processing as a model of perceptionでは、知覚のモデルとしての予測処理理論を検討している論文だったが、その後に私が読んだ論文はあくまで統一理論としての予測処理理論を批判してるものだった。

つまり、始めに挙げた論文での予測処理理論への批判は周辺的な批判であって、本丸には達していない。知覚は予測処理理論の本丸1なので、これらの二つの論文は互いに相反してはいない(少なくとも直接的には)。

どんな論文を読んだの?

「Unification by Fiat: Arrested Development of Predictive Processing」は訳すなら、「専制による統一:阻まれる予測処理の発展」。Fiatは命令が直訳だろうが、それだと意味が分かりにくい。無理矢理に作られた統一が含意なので、こう意訳するのが良いだろう(こういうのは自動翻訳にはできない)。

専制による統一」は、予測処理理論の応用研究への批判が中心であり、その結果として予測処理理論の統一理論としての意義に疑いを発している。予測処理理論そのものの批判が目的ではないが、そもそもの原因として予測処理理論がもつ用語の曖昧さが指摘されてるので、無傷とも言いがたい。

論文「専制による統一」の全体の紹介は面倒なのでしないが、その一部を日本語の論文を引用しながら説明できそうなので、すこしやってみようと思う。

計算論的精神医学における用語の使われ方

専制による統一」ではいくつかの応用研究が挙げられている。その中でも特にある研究がやり玉に挙げられている。それは、予測処理理論の計算論的精神医学への応用だ。あまりに批判が集中してるせいか、ネットで当人同士で反論合戦が繰り広げられている(Marcin Miłkowskiのホームページを参照)。

比喩として心的用語を使うことの罠

この論文での批判が当てはまる記述が、日本語で書かれた計算論的精神医学の論文に見つかったので、まずはそこを引用してみます。引用で出てくるベイズ推論モデルとは、少し前の記述から自由エネルギー原理(代表的な予測処理理論)だと分かります。

具体的には,うつ病患者が呈する自己・世界・将来に対する否定的な信念は,ベイズ推論モデルにおける信念と考えることができる (Chekroud, 2015)。そのように考えると,認知行動療法で行う認知再構成は,患者のもつ信念とは異なる情報や結果を経験する (予測誤差が生じる) ことで,信念の更新が生じ,否定的な信念の確信度を弱めているのかもしれない。
google:国里愛彦 片平健太郎 山下祐一 うつに対する計算論的アプローチ 強化学習モデルの観点からp.100より

ベイジアンの知識があると、かえっておかしいことは言ってないと思いがちだが、ここでのベイジアンの応用は意思決定論ではないことに注意すべき。そこで、次は「専制による統一」からの引用の翻訳(意訳気味)。

しかし、私達の関心は正確さに限られない。予測・期待・信念のような主観的な領域での、呼び名は同じなのに意味が違うそっくりさんがいる、PPのテクニカルな用語にこそ、あいまいな表現の落とし穴がより強烈な形で待ち構えている。
Piotr Litwin, Marcin Miłkowski "Unification by Fiat: Arrested Development of Predictive Processing" p.7より翻訳

例えば、予測処理理論で使われる予測という用語は、私達が主観的に経験できる予測を意味してはいない。あくまで比喩やアナロジーであって、文字通りに受け取るべきでない。

先の引用部分で出てくる「信念」も、本来は計算論的なモデルのはずだが、「患者の持つ信念」とも言われていて、どうも意味の一貫性が守られてるように見えない(ただし、これは英語の元論文による責任の可能性も高い)。これは予測や信念という言葉の曖昧さの現れそのものだ。

大御所でも筆は滑る

もう一つの引用は、予測符号化の先駆的な研究で知られる乾敏郎による、実質的な内容が計算論的精神医学の論文からだ。

したがって統合失調症では誤ったデータに基づき信念が書き換えられていき,結果として世界について誤った信念を持つに至る.換言すれば,知覚異常が学習によって誤信念を導いたということだろう.
google:乾敏郎 誤った知覚から世界に関する修正不能な信念が生じる脳内メカニズムp.176より

「データに基づき信念を書き換え」るとする記述は誤解を招く微妙な書き方だ。ただこれに関しては、信念を直接に書き換えたとせずに、知覚が信念を導く(信念の形成は結果)と解釈すれば問題はなくなる。しかし、これだけの大御所でも誤解を招かない言い方を避けるのは難しいことが分かる。

予測符号化に遡って本来の適用範囲を確認する

予測処理理論は、元からあった予測符号化を、一般化して適用範囲を広げようとして統一理論を目指した理論だ。適用範囲を広げようとして曖昧さの罠にハマったとされるが、本来の適用範囲はどこまでなのだろうか?

それを確認するには、元の予測符号化に遡れば分かる。しかもそれをすぐに分かる有名論文がすでにある。それはgoogle:Rick Grush The emulation theory of representation: Motor control, imagery, and perceptionだ。これは予測符号化のレビュー論文だけれど、便利なことにタイトルを読むだけで、運動制御・心像・知覚が扱われてると分かる。これに、このレビューが出た頃に既にフリスらによる研究があった自己主体感を加えれば、予測符号化がもともと得意とした研究テーマがだいたい分かる。

予測符号化には信念の書き換えを文字通りに行なうことは、適用範囲内にはない。ならば、適用の拡大が可能だと説明されるべきだが、それを見たことは(少なくとも私は)ない。やはり、用語の曖昧さによる過剰適用だと責められても仕方ないと感じる。

統一理論としての予測処理理論を信じられるか?

自由エネルギー原理に代表される予測処理理論は統一理論を標榜するが、「専制による統一」が示唆するように怪しいところもある。しかも、そのくせ自由エネルギー原理は元の予測符号化には適用範囲に含まれていた心像(imagery)を外すことで、反表象主義におもねっている疑惑が拭えないのは、私には印象が悪い。

ここでは扱わなかったが、「専制による統一」には、後付でもっともらしい話(just-so story)が作られる事の問題や、都合の良い証拠を集めるだけで事足れりとすることの問題(consistency fallacy)など、統一理論としての予測処理理論だけに限らない科学の問題も触れられて、それも興味深い。これらの問題からは、データに基づいた下からの理論形成ではなく、理論が先にあって上から証拠を説明しようとしている点で、専制という訳がまさにしっくりくる。

だがなにより、予測処理理論が統一理論だと信じるには、私は認知科学関連の他の様々な成果や理論を知りすぎてるのはある。それが幸いなことなのか?私自身にはもはやよく分からなくなっている。


  1. ただし、クラークらのレビュー論文が書かれた動機にあるように、知覚でさえ予測処理理論に充分な証拠があると言えるかは疑われている。