なぜお役立ち野郎が資本主義の敵なのか?(注つき)

最近、役に立たない科学はいらない!的な発言をする人を日本でもよく見かける。そういう奴を見かけるたびに、資本主義の本質を理解してない馬鹿な奴らだなぁ〜と軽蔑せざるを得ない。既成のお役立ちという閉じた価値観の中にいては、資本主義の中での発展はありえない。

以下には、私が独自にまとめた資本主義への理解を書きます。ちゃんとした理解をしたい人はちゃんとした学者から話を聞いてください。

資本主義の基本としての市場原理

今の政権は、一方で国民に自助を第一に勧めておきながら、他方で携帯電話料金の設定に介入しようとしていて、市場の力などちっとも信じていない。こんな政治家どもはもはや新自由主義(ネオリベ)ですらなく、私には軽蔑の対象でしかない(ハイエクぐらい読めば?)。

情報の分散的な処理としての市場

市場原理の優れたところは、その情報の分散的な処理による効率の良さにある。市場原理と対照的な中央集権では、全ての情報を中央に集めて最適化を目指す処理をする。しかし、こうした中央集権的な国家はすでに失敗している。それは旧ソ連だ。

旧ソ連の計画経済を実施していたが、結局は失敗した。歴史的な分析は専門的な書籍を読んでもらいたいが、その失敗の原因は中央集権的な手法の効率の悪さにある。わざわざ情報を一箇所に集めて処理するという方法は、時間的にも空間的にもまどろっこしいものでとても効率が悪い。各個人が欲しい商品を見つけ値段を比べるという、市場による情報の分散的処理の方が明らかに効率が良い。

分散的な処理が効率的な他の事例

東日本大震災のときに、自治体や組織ごとにお金を集めて活動すれば良い…とする議論に対して、それではお金の行き渡り方に不平等が生じるから国が一括でお金を集めて分配すべきだ!との意見が出た。それは時間に余裕があるなら構わないが、緊急時にそんなことしてたら効率悪いわ!と思った。まぁ、実際に国が集めたお金が必要な人に届くのに多くの時間がかかった。分散的な処理の優位性を理解できてないことは恐ろしいことだ…と思った覚えがある。

もちろん、市場は完璧なシステムではない。全ての人を満足させる均衡状態に向かうには様々な試行錯誤が必要だ。しかし、分散的な処理の持つその中央集権的な手法に対する優位性は理解しておくべきだ。

なぜ資本主義には市場の他に外部が必要か?

しかし、市場だけでは資本主義の発展はありえない。市場は数理的には均衡システムに喩えられる。市場は既存の情報に沿って物事を最適に向かって整理してるに過ぎない。資本主義には、エネルギーや物質をやり取りする環境や、これまでにないアイデアや商品を生み出す革新(イノベーション)、といった外部が必要である。

部屋のお片付けとしての市場とその外部

ここにグチャグチャに散らかった部屋があるとする。市場原理とは、この散らかった部屋を片付けて使える空間を空けることである。だが、あくまで部屋の中の物をあっちにやったりこっちに持ってきたりして整頓してるだけだ。空く空間には限界がある。もちろん部屋を広げることもできる(海外への市場の開拓)が、それが唯一の方法ではない。

例えば、部屋からいらないゴミが溜まってきたらどうしようか?もちろんゴミは部屋の外に出して捨ててしまえば良い。ただ調子に乗ってそれをやりすぎると、部屋の外がゴミだらけになる(エコロジー問題)。もし部屋の外に人が住んでいれば揉めることになるが、それも人のいない文句を言ってこないところに捨ててしまえば済む(市場の外部性)。

市場を活性化させる外部を必要とする資本主義

ここまでは、部屋の中の物を比喩として語ってきたが、物をアイデアを変えても同じことである。物であれアイデアであれ市場でやり取りされれば同じく商品価値を持つ。しかし、前半でした市場の説明は新しい商品が生み出されない、閉じた均衡システムを想定していた。だが、閉じた部屋の片付けはいつか終わるように、閉じたシステムは均衡状態に陥ったらそこで終わりだ。

市場を再び活性化させるには、商品価値のある新しい製品やアイテムが必要だ。その際に、既にある既存の価値観の中に閉じていては、新しい価値は生まれない。むしろ、誰もが思っても見なかった新しさこそが市場を活性化させる。しかし、新しさのためには試行錯誤が必要であり、試行錯誤の過程で多くの無駄が出るのは避けることはできない。

お役立ち野郎が資本主義の敵である理由

役に立たないとされてきた科学研究が、後に商品化された例は挙げると切りがない。役に立たないの典型とされた数論でさえ、今や暗号理論として役立っている。画期的な発明がされた時に、泥縄で一から研究を始めてたら明らかに手遅れ。それを理解してないお役立ち野郎は日本を世界で貧しい国にしたいとんでもない奴でしかない。

外から叩かず内から叩く戦法の勧め

科学が推奨され表向きの理由は、世界の真実の探求である。そこからお役立ち野郎を批判することもできるが、そもそもの前提を共有してないので、それではろくにダメージを与えられない。

むしろここは、彼らでさえ共有できる目的から叩く方が効果的だ。彼らが資本主義さえ否定するなら、お前のお役立ち思想ってなんの意味があるの?と問い返してみましょう。新自由主義としてさえ一貫できない御都合主義は葬ってあげよう。

それから一応指摘しておくが、この記事は資本主義の擁護が目的ではありません(その辺りの皮肉は察してください)。それからここでの議論が人文学には当てはまらない…とする懸念に対しては、人文学的教養の行く末という別のアイデアもあるので、気が向いたら記事を書きます。

お薦め

市場の均衡システムについては、経済学の文献を探せば書かれているものは多いので、ここでは特にお薦めはしないでおきます。ただ個人的には、ハイエクの経済思想ぐらいは知ってほしいが、適切な文献を思いつかないので省略。


斎藤幸平はマルクスの「資本論」からエコロジー思想を読み取った研究で世界的に知られるようになった。記事では軽くしか言及しなかったその辺りのことはそちらで読んでほしい。


人間社会の外部環境とのエネルギーのやり取りを、エントロピーの視点から説明した論文。これに限らず、システム的な考え方はもっと広がってほしいと願う。


これは今、私が最も楽しみにして読んでいるネット連載。資本主義に抵抗したはずのカウンターカルチャーによって作られた外部でさえ、資本主義に回収されてしまう悪夢を資本主義リアリズムとして指摘したマーク・フィッシャーを軸にして、カウンターカルチャーのあり得た未来を探る連載。単独で読んでも面白そうなところにリンクした。