愚痴の後で書きたい記事のアイデアだけを書く

以下はただの愚痴なので読み飛ばせ

私がこのブログで書くことはだいたい早すぎて、その時点ではあまり理解されない。

俗流クオリア論批判もその流行りのまっただ中で書いたが、当時は学者も含めて誰も批判する人がいないことに呆れていた。ピンカーやマッド・リドレーなどによる合理的楽観主義についてもかなり早くここで指摘した覚えがあるが、ファクトフルネスが出版されることで最近になってやっと認識され始めた感じがする。ニューラルネットワークを統計として論ずるのも日本でもよく見るようになったが、それをここで指摘したのもそれなりに早い。

早い段階で(知識や議論として)正しいことを指摘しても誰も褒めてくれないし、それどころか場合によっては不条理な攻撃に合う。私はこのブログを書いても一銭も儲からないし1、承認欲求もそんなにないので知的欲求のある人だけが分かれば十分だと思ってる。それでも、世間の状況やこのブログの読まれなさにかなりめげてきてる。

認知科学についても、私は早い段階で身体化の影響を受けていて2 ここでも早くから何度か紹介したことがある。最近の認知科学の哲学は、日本ではおそらく研究者がほぼいない3と思うので、ここでの最近の議論の紹介は今の日本では貴重だと自認してるが、まぁ別に誰にも感謝されないよね。

21世紀に入ってから認知科学に関連するブームはさんざん起こってたのに、認知科学なんて時代遅れ!とか認知科学…それ食べれるの?的な態度には何度もあっている。結局は時代になんとかついていけてるのは私の方なのに、その場その場の流行りに乗ってるだけの奴からの嫌な目にばかり合う。

このブログをどうするかな

ここまでは全部どうでもいい愚痴4なのだけれど、それを書きたかった訳ではない。困ってるのは、このブログに何を書くべきか?迷っている件だ。一見私の好き勝手に書いてるようにも見えるかもしれないが、だいたいその時点のブームや話題にかなり合わせている。私だって、自分が持ってたニューラルネットワークの知識が役立つ時代が来るとは全く予想してなかった。

でも、21世紀に入ってから断続的ながら起こっていた認知科学関連のブームはほぼ終わっている。人工知能ブームについてもここでも色々書いてきたけど、まぁこんなもんだよね(シンギュラリティとか仕事が奪われるとかどこいった?)。

少しだけ世間でも流行る気配がありえるのは、(去年英語圏で一般書が出たらしい)利他性の科学的研究くらいだけど、本当に流行るのか?は分からない。ただこれも確実に言えるのは、ゲーム理論的な実験をしても理論通りほどには利己的でないこと…ぐらいで、あまり人が利他的であることを強調するのは(利己的だと強調するのと同じぐらい)どうかと思う。

認知科学関連のブームがほぼ終わってるところに、心理学の再現性問題が重なり、世間的に目新しい研究は出づらい状況になっている。世間的な注目や学問的な流行りの点で、ここに書くのを見つけるのは面倒になっている。じゃあ書きたいものがないか?いうとそうでもなくて、個人的に興味を持ってるものやまだ学問的に広まるか分からないものなら、いくつかある。

書きたい記事のアイデだけ書く

いくつかあるアイデアを順不同で軽く書く。単なるアイデアなので結論も何もありません。続きは自分で勝手に考えてもらって構いません。関連論文はキーワードで検索すれば見つかると思います。

情報熱力学から心の進化を考える

統一理論としての予測処理理論は(理由はここでも紹介したが)私には見込みのないものに思えてきて、学者による議論や研究の進展を待つ待機状態に入るつもりだ。と同時に、前々から感じていた生命へのエントロピー論の適用も疑いがより深くなった。しかし、少し前にこの疑問に答えてくれるかのような新しい物理学の成果の紹介を見つけた。それは情報熱力学だ。つまり、生命の情報処理はそれによって得られるエネルギーとの関係で進化してきたのではないか?これなら、進化心理学のような「なぜなぜ物語」にはまらずに心の進化を論じられるのではないか?

心は脳にだけでなく身体に分散してる

ネットで見つけた「環境を友とする制御法」の論文を面白く読んだ。ロゴス中心主義批判の派生のような反表象主義は下らないと思うが、その源となった力学系アプローチは馬鹿にできないと感じる。「環境を友とする制御法」はその力学系アプローチの工学的な継承者である。力学系アプローチから取り入れるべきなのは、(古典的計算主義批判でしかない)反表象主義なんかではなく、脳中心主義への批判なのだと思う。つまり、心は身体に分散しているのであって、脳だけを心の座とするのは狭い考え方では?と考えるようになった。

心はサンプリング装置なのか?

google: 寺前順之介 脳と知能の物理学 は、脳はサンプリング装置でもあることを指摘した面白い論文だが、心をサンプリングとして理解する論文は実は既に読んだことがあった。遡ればいくつか論文があるが、ここでは比較的新しい論文として google: The Sampling Brain by Jian-Qiao Zhu を紹介する。認知のベイズ理論が発展する中で、それはマーの言う計算論レベルでしかない…という批判があった。それに対して、アルゴリズムレベルとしてサンプリングに注目する研究が現れた。ただ、アルゴリズムレベルとしては変分ベイズも候補としてあり、最近はこれの勉強で手一杯かな。まぁ、私はどちらかというとサンプリング派かな(排他的な選択肢では必ずしもないが)。

文化右翼としてのオルタナ右翼

あと認知科学からは外れるのも一つ。ネットでネトウヨについての話を見てたら、ネトウヨ民族派右翼と違って口だけで行動しないから嫌い!という過激な見解が耳に入ってきた5。そこから、あれ?ローティの批判する文化左翼とは、行動しない口だけのポストモダン左翼のことだが、だとするとネトウヨ(オルタナ右翼)ってのは文化右翼じゃん!と思いついた。ただし、文化から社会を変えるは有名なマルクス主義グラムシのアイデアだが、それに実地に実行したのはむしろオルタナ右翼なのだ。まあ、自分は文化左翼も文化右翼もどっちも(話が非論理的で非科学的だから)嫌いなんだけどね。

私は学生時代に大好きだった認知科学ブルーナー(故人)6と同じで、アイデアを撒き散らしがちで、あまり深める気力ないんだよね。私が今の時代に学者だったとしても、全く大成しなかったろうな。


  1. アフィリエイトを始めて、駄目になったブログはいくつも見た

  2. 20年以上前の学生時代に、既にレイコフらの「レトリックと人生」を読んでいたし、デネットの本だけで噂に聞いてた「身体化された心」が翻訳された時は狂喜乱舞した。その私でも(身体化論から派生した)近年の反表象主義にはガッカリしかしてない。私はどちらかというと、古典的計算主義でも反表象主義でもなくて、イメージ-命題論争におけるイメージ派に共感的なのだけれど、海外でさえこの立場はマイナーなので、ここでこの話をしていいのか?よく分からない

  3. 認知科学の哲学は、科学と哲学が共に分からないとできないので、文理の断絶の激しい日本では研究者が出てきにくい。それでも、最近は日本でも科学哲学の優秀な学者が出てきているが、その専門はたいてい生物学の哲学の方で、認知科学の方には来ない。その原因の一つは、そもそも近年の日本の認知科学そのものがドメスティックになってしまって、海外の事情とのリンクが薄いせいでもある

  4. 私からすると、これでも抑えたつもり

  5. まあ、私も過激なこと平気でつぶやくけどね。でも、単に議論上の思考実験として過激なことをいうだけで、価値的な正しさにはあまり興味がない。だから、日本にはやたらと学者が多い倫理学にはあまり興味が持てない。なんで日本の分析哲学の人には倫理学の人が多いのか?不可解。日本にももっとゴリゴリの分析哲学者ふえてくれよ

  6. ジェロームブルーナーの名前を出したのは、ここでは始めてじゃないかな。私にとって、ブルーナーは(波多野誼余夫と共に)学生時代からの知的なヒーローだったんだけどね。こんなこと書いても誰にも共感されないからずっと書かないでいた。今の私にはそんなに知的ヒーローはいないけど、海外の若手の面白い研究者(2010年台のトップ3論文で挙げた人)を知っているので、そんなに不快ではない