予測処理(予測符号化)の源を引用から探る

今の認知科学で大いに話題となっている予測処理およびその元である予測符号化には、歴史的に見ると何人もの先駆者がいることはよく指摘される。彼らは皆、知覚とは単に外界から感覚を受けとるだけではないことを強調する点で共通している

多くの研究者が予測処理(PP)のアイデアを、十九世紀の物理学で医者・心理学者であった新カント派のハーマン・フォン・ヘルムホルツの仕事と結びつけてる。彼は「脳は仮説検証マシンである」と明示に著した最初の学者だ。
…中略…
他にも、予測処理(PP)の哲学的な発想として重要なのは、マッケイやナイサーやグレゴリーのような研究者の仕事もあり、彼らは「合成による分析(analysis-by-synthesis)」を提唱した認知心理学者たちに属している。この見方によると、脳は感覚によって受け取った情報を集めて(ボトムアップに)世界の内的モデルを作るというよりも、表象を作って集めた情報と比較しようとしているのだ。

Michał Piekarski "Understanding Predictive Processing. A Review" p.4より 1

こうした、いわゆる知覚の無意識的推論の考え方はギブソン派や反表象主義者に忌み嫌われており、その影響で日本でも誤解されていることはよくある。だがとりあえず賛否は別にして、正しく理解することが議論を先に進めるためには必要だ。この記事はそのきっかけを与えるのが目的だ

ヘルムホルツ本人の言葉を含んだ引用

まずは、よくこうした話題でよく挙げられるヘルムホルツについての論文からの引用をしてみよう

そしてこの点がヘルムホルツの考える経験説のハイライトになるのだが、経験的に形成された連合や反復は、「無意識的推論(unbewusster Schluss)」という形で働くとされる。ヘルムホルツのこの概念は非常によく知られている。「無意識」という言葉を異なる文脈に過度に引き付けるべきでないことは当然として、「推論」という言葉は本来意識的に行われる高度な論理活動を言うので、その名称は言葉だけを表面的に追う向きには誤解の余地を孕んでいるが、ヘルムホルツはその点についてこう説明している。

実際のところ、我々の感性的知覚において大きな役割を果たしている推論は、論理的に分析された推論の通常の形式で語られるものでは決してない。いつも歩いている心理学的分析の道から脇に行かなければならない。そうすれば、通常いわゆる推論において働いているのと同様の精神活動がここで実際に関わっているということが確信できる。論理学者の推論と、感覚を通じて獲得された外界の見方として結果が表れてくる帰納推理(Inductionsschlüsse)との間にある違いは、私には実際のところ単に外面的なもののように思われる。主に違うのは、前者は言葉で表現できるが、後者はそうではないという点である。何故なら、後者では言葉の代わりに感覚や感覚の記憶像しか見られないからである。(NF,358)

確かに神経繊維内で生じている事態を言語化することは困難であるが、そのため言葉こそ用いていないが、知覚の背後で働く「推論」は、命題や判断とも見なせるものである。

福田覚「ゲーテヘルムホルツ」p.63-4より

正直なところ、日本であまり理解されていないヘルムホルツについての引用をできた時点で個人的にはもう満足だ。だが、手元にあった本からたまたま今回の話題に都合のいい箇所を見つけた

リチャード・グレゴリー本人の言葉を含んだ引用

リチャード・グレゴリーは、私が学生時代に読んで好きになった学者だ。ここでは手元に持っていた認知心理学事典の錯視の項目からいい感じの箇所を引用しておきます

Gregoryの認知的錯覚に対する考え方は、知覚の理論化における経験主義、構成主義の伝統の内にある。このアプローチを要約する有名な格言に、Helmholtsの「知覚とは無意識の推論である」がある。Gregogy(1973, p.51)はこの点を、次のように説明している。

知覚とは、利用しうる感覚データと解決困難な知覚の問題に左右される、多少とも真実と思われる「結論」(ないし「仮説」)である。(それらは)感覚によって与えられたデータや記憶の中に貯蔵されている(データから)推論されるものである。この見方から言うと、ちょうどどのような議論であれ間違っているかもしれないように、どのような知覚であれ間違っているかもしれない。それは仮説が間違っているからかもしれないし、あるいは議論の形式が誤っているからかもしれない。知覚についてこのような考え方に立つなら、哲学者にとって逆説と曖昧さが議論の本質に対してもつ重要性、あるいは真実や事実の発見のためにいかにデータを用いるのか、ということの重要性と同じ重要性が、錯視にもあるといえる。

M.W.アイゼンク編「認知心理学事典」『錯視』 の項目 p.140より

学生時代に読んだリチャード・グレゴリーの錯視の説明には本当に感心したし、故に錯視をうまく説明できない直接知覚説には納得したことがない2。無意識的推論説の良さはもっと知られてほしい

ここまでが予測処理(予測符号化)の歴史的な先駆者としてよく挙げられる例だが、それはまだ本当は一部でしかない。これまで挙げてきたのは知覚の理論だったが、もう一つ重要なのは日本の学者による運動制御の研究である。知覚論と運動制御論の合流点に予測符号化があり、それを拡大して一般化されて予測処理や自由エネルギー原理が成り立ったのだと考えている

伊藤正男の講義録からの引用

元々の論文から引用するのは私にはキツイので、後々になされた伊藤正男の講義から、予測処理(予測符号化)と関連があると思われる箇所を引用してみます

この外界,もしくは脳内の他のシステムの入出力関係をコピーしたネットワークのことを内部モデルと呼ぶ.
ヒトはこの内部モデルを獲得することで,適応的な運動制御を学習することができると考えられている. 運動学習を実現するための内部モデルとして,運動指令を入力,その結果おこる運動(実際の体の動き)を出力とする,身体や環境の特性をコピーした内部モデル (順モデル),行いたい運動の計画を入力とし,筋肉に送る運動指令を出力とする,運動野での処理をコピーした内部モデル(逆モデル)の 2 種類のモデルが考えられる.前者の場合,運動指令からその結果を知る事ができ,ヒトが運動の結果を感覚刺激として受け取って処理する時間を無視して実行する運動の結果を予測することで,なめらかで正確な運動制御に貢献していると考えられる.また後者の場合,行いたい運動からすぐ運動指令を決定できるため,学習が進めば最適な運動の選択を素早く行う事が出来る.伊藤は,順モデルの獲得による運動学習を提案した(Ito, 1970).また逆モデルはその後に,川人らが提案したモデルである(Kawato, Furukawa and Suzuki, 1986).

「講演者:伊藤正男: オータムスクール ASCONE2008」p.95より

ここで重要なのは、脳に内部モデルが作られていることだ。これが予測処理(予測符号化)における生成モデルの重要性(およびそこから派生した表象主義論争)につながっている

予測処理のもう一人の先駆者C.S.パース

最後に、この話題では必ずしも出てはこないが、実は重要な先駆者としてパースを挙げておきます

ベイズ的な推理では、出力頻度だけでなく説明(仮説)そのものの特徴にも注意が払われているが、これは(ベイズ)知覚とは感覚入力の原因に対する脳の「最良の推論」であるというスローガンとして理解できる。ということは、ベイズ脳とは演繹でもなく帰納でもなくアブダクション (Hohwy 2014)であると言えるのだが、ここでいうアブダクションとは典型的には「最良の説明への推論」として理解されるものだ

Anil K. Seth"Inference to the Best Prediction A Reply to Wanja Wiese" p.2より

ただし、パースについては事情がややこしい。パース自身が知覚はアブダクションであると指摘している箇所は確かにある。しかし、アブダクション最良の説明への推論との関係については議論が紛糾しているところがある3。予測処理とアブダクションには共通点があるように見えるのだが、まだその辺りはあまり整理されていない 4


  1. この引用に対して細かい指摘をすると、ヘルムホルツは(当時の分類としては)心理学者というよりも生理学者とする方が一般的だし、「合成による分析」はナイサーが元々は工学における音声処理で使われていたアイデアを借りてきたものだ。内的モデルという言葉も、予測処理における生成モデル(表象主義論争)を考慮すると誤解を招く言葉遣いで感心しない。また論文の注では、Hohwyが中世のアラビアの学者Ibn al-Haythamをも先駆者として挙げていると指摘されてる

  2. 生態学的アプローチの系譜をたどると直接知覚説は必須ではないと感じる。ギブソンの影響が大きすぎることで、生態学的アプローチへの理解が偏っている気がする。ギブソンの知覚論についてはもっと当時の心理学的な背景から理解するべきだと思う。

  3. アブダクション最良の説明への推論については、同じではないことにはパース研究者の間でかなりの同意があるが、どの程度まで共通点があるか?については相当に意見が分かれている(無関係派もいる)

  4. パースについては個人的にいろいろと調べてはいるので、気が向いたら何か書くかもしれない。特にアブダクションについては前々からいろいろ調べてきてる