自由エネルギー原理とラカン理論を(マルクスを介して)比較する
そのうち自由エネルギー原理(または予測処理理論)について自分で説明したいとは思っていた。前々から、自由エネルギー原理とラカンの三界論(象徴界・想像界・現実界)には共通点があることには気づいていたので、それをテコにして説明しようと色々と調べてはいた。もはやこれで説明になるのか?よく分からなくなってきたが、とりあえず記事にはしてみた
自由エネルギー原理とラカン理論を比べてみる
この記事を書く準備として、自由エネルギー原理とラカン理論について調べていたら、次のような論文に当たった
まず、この論文にある自由エネルギー原理についての説明が簡潔なので、それを翻訳引用してみます
自由エネルギー原理によると、脳はベイズ推論マシンのように作動し、経験について確率的な「予測」を生み出す。それらの予測は感覚のフィードバックと比較されて、その結果である差異は「予測誤差」とか「驚き」とか「自由エネルギー」と呼ばれる。このモデルでは、脳は感覚印象の受動的な受け手ではなく、むしろ脳は「予測モデル」を作ることでその経験を積極的に説明する
John Dall’Aglio"Sex And Prediction Error, Part 2 : Jouissance and The Free ENERGY PRINCIPLE IN NEUROPSYCHOANALYSIS" p.717より
説明としてはだいたい合ってると思う。マクダウェル(またはセラーズ)の指摘するように、私たちの経験は単なる感覚からの受動ではなく、能動的な産物なのだ。私たちの中には世界についてのモデルを持っていて、無意識の内にそのモデルを(予測の形で)積極的に用いているのだ。モデルからの予測と感覚からのデータを比較して違いがある場合は、予測の元となるモデルをその違いに沿って修正することで、世界についてのより正確なモデルを作り続けることになる
ここで、モデルを象徴界、予測誤差を現実界と考えると、自由エネルギー原理とラカンの三界論との類似性に気づく。現実界とは象徴界の失敗する地点として説明されることが多いからだ
実は、私が最初に二つの理論の類似性に気づいたのは、引用した論文には触れられていない想像界についてだ。予測処理理論によれば、現実の世界においては予測外のことが起こりうるが、想像の世界では予想外のことは起こりえない(意図した予想外は本当の予想外ではない)。もし現実の世界で全てが自分の予測通りのことしか起こらなかったら、もしかしたらこれは夢では?と疑うだろう。予測との関係は現実と想像を区別する有力な基準でもある
しかし、自由エネルギー原理とラカン理論との類似性はここまでであり、実際には決定的な違いがある
享楽は、予測能力を超えて生じる剰余または残余の予測誤差に関わりを持っている。それらの予測誤差は予測能力に対して特に目立った激しい特徴を持っている―それらはホメオスタシスに達するための予測モデルの失敗で生じる
John Dall’Aglio"Sex And Prediction Error, Part 2 : Jouissance and The Free ENERGY PRINCIPLE IN NEUROPSYCHOANALYSIS" p.724より
自由エネルギー原理(予測処理理論)では、予測誤差は内部モデルへと全てが回収される運命にある。しかし、ラカン理論では(享楽の源となる)現実界は象徴界には回収されえない。ここが、自由エネルギー原理は科学理論だが、ラカン理論は科学理論ではない証だ。引用した論文では、自由エネルギー原理との類似性からラカン理論を科学的に捉える可能性を指摘しているが、私自身はむしろラカン理論が科学理論に抗する部分こそが重要だと考える
ラカン理論をマルクスから理解してみる
これから書くのは、一般的に理解されてるラカンやマルクスを私なりに解釈して、かなり雑に合理的な再構成をしたものです。正確に理解したい人は専門家の説明を見てください
剰余価値と剰余享楽について
ラカンの剰余享楽を理解するために、アイデアの源となるマルクスにまで遡ってみたい
本稿で検討するラカンのセミネールにおいて、マルクスの名が引用されるのは、彼の「剰余享楽(le plus-de-jouir)」という概念がマルクスの「剰余価値(la plus-value)」という概念から来ていることをラカン自身が明言するときである
マルクスの言う剰余価値とは何か?それはこういうことだ。ある商品を売って得た金額の中には、その商品を作るのに費やした労働力の分の価値が含まれているはずである。しかし、資本家の側は労働力に対して払う金額を値切って、その分の浮いた金額を自分の懐に入れてしまえる。この浮いた差額が剰余価値と呼ばれる。ただし、マルクスは価値を実体化していて限界革命後の経済観には合わない所もあるが、それは資本家の側が商品で得られた金額の配分を決める(労働者への配分をケチる)とする現代的解釈にもできるが、その話はここではこれ以上しない
(本来の標準的な価値から)予測されるより以上に得られる価値が剰余価値なら、剰余享楽とは象徴界によって予測される以上の享楽を得られることだ。これを説明するのに都合のいい事例が陰謀論だ。陰謀論は事実に沿って論理的に判断すれば、正しい所はないに等しい。しかし、陰謀論を信じる人にとっては陰謀論が真実なのか?間違っているのか?は重要ではない。例えば、陰謀論を信じる他の人たちとのコミュニティとの一体感を味わえるのであれば、そこに真偽を超えた価値を感じる人はありえる。そこに剰余享楽が生まれる
ただし、この形で理解すると剰余価値や剰余価値には奇妙なところが生じる。陰謀論を信じる瞬間は象徴界から外れてるので剰余が生じるが、陰謀論を信じ続けてる人にとってはその陰謀論はその人の想像の範囲内なので剰余はなくなるはずだ1。剰余価値についても、マルクスのように労働の持つ本来の価値からの搾取の結果として見るか?他の市場価値との相対的な差異(労働者への賃金を他の競合する雇用者より低くする)として見るか?で意味合いはかなり異なる。ここには、象徴界と想像界との違い(市場価値と搾取の関係)が関わっていると思うが、ここではそういう議論はしない
ここでした説明は、私がかなり強引に合理的に整理したものだ。正確には各自で関連文献を読んで確認してくださ
ラカン理論の側から自由エネルギー原理を眺める
ここまでの議論は何を意味しているのか?ここで最初に引用した論文の著者は、剰余享楽に相当する神経メカニズムの発見に期待している気配があるが、私はそれは無理があると思う。ならば、ラカン理論は所詮は非科学的なお話だと捨て去るべきなのだろうか
自由エネルギー原理(予測処理理論)については、著名な研究者がこれは心の統一理論だとか万物理論だとかと称している。このブログでは、それが誇大宣伝ではないか?との疑いを示す記事は既にあげている。自由エネルギー原理(予測処理理論)で現時点で説明できそうにない現象は色々と挙げられているが、認知的なバイアスはその典型例であると思われる
(自由エネルギー原理を含む)予測処理理論については、表象主義のように世界についての正しい表象の追求と見るのであれ、反表象主義のように世界への適応性の追求と見るのであれ、学習によって内部モデルを修正する部分は共通点である。しかし、陰謀論信者のように、特定の信念は絶対に手放すことなく、その核となる信念に都合のいいように他の信念や証拠を信じるようになることもある。ここには内部モデルへの柔軟な学習や修正はあまりない2
内部モデルの修正を超えたところにあるのが、ラカン理論が扱おうとしている享楽や欲望の領域であり、そこをわざわざ科学に譲るべき必然性はないかもしれない3
おわりに
動機や欲望のような心の核にある動因は、認知科学にとっては直接の研究対象ではない^4し、他の科学領域でも単なる記述や分類を超えているとは思えない。自由エネルギー原理(予測処理理論)も例外ではないと思う。そういう科学では扱うのが難しい部分について、ラカン理論に限らず4そこを指摘し続けることは私は重要だと感じる
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もっと卑猥な例を挙げてみよう。始めてのある変態行為によってそれまでにない激しい性的興奮を覚えたとして、その興奮を忘れられずにその同じ変態行為を繰り返しても、最初ほどの性的興奮は感じられないかもしれない。その同じ変態行為にしか性的興奮を感じられない人がいても、それはもはや条件付けされた興奮でしかない可能性が高い。そうなると、元と同じぐらいの興奮を得るためにはその変態行為はどんどん過激になっていくだろう。しかし、その過激さはただの量的な増大であって、質的な剰余ではない。経済で例を挙げると、なんでも目新しいものが安易にイノベーション(革新)と呼ばれがちなのは罠だ。本当のイノベーションとは(例えば)これまでなかった需要を喚起する商品であって、小手先の工夫で市場で売り抜ける行為とは異なる。剰余は求めて得られるのものではなく、むしろ求めれば求めるほどますます得られなくなる↩
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もちろん陰謀論者は内部モデルの壊れた精神的な病を患ってるとすれば、辻褄は合う。ただし、この方向をとるなら精神的病であると認定するための明確な基準を設けないと、自分が異常だと思える事例にいくらでもご都合主義的な判断をくだせてしまう。当然ながら、ここでは精神病理的な判断基準について議論する気などない↩
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正確には内部モデルの修正にも量的と質的の違いがありうる。単にモデルにある既存のパラメータの値を変えるだけの量的な修正と、パラメータの構成そのものを見直してモデルの構造自体を変える質的な修正は全く違う。アルゴリズムで書けるのは基本的に量的な修正だけである。質的な修正は人の行なうアブダクションによる発見と関わりがある(ただしアブダクションにも量的[選択]と質的[創造]の違いがある)。内部モデルにニューラルネットワークを使うこともできる。前にも指摘したが、ニューラルネットワークはあくまでデータから相関的なパターンを学んでいるだけであって、データの元となる世界の構造を学んでいる訳ではない。ポール・チャーチランドやヒントンはニューラルネットワークによってデータから世界の構造をも学べることを夢見てるはずだが、それが可能か?は今の所よく分からない↩
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というか、学者や臨床家に限る必要もない。本文ではラカン理論に甘く書いたが、動機や欲望を扱うのが学問である必要はない。というか、そんなことは当のラカン自身が暗にほのめかしている。でも、ラカンは精神分析家という臨床家に対してはまだ甘い↩