書評 サイモン・バロン=コーエン「ザ・パターン・シーカー」

ザ・パターン・シーカー:自閉症がいかに人類の発明を促したか

著名な自閉症の研究者が、共感と対照をなすシステム化の視点から人の心について論じた著作。ただし、内容が著者の専門に近い章は良質だが、心の進化にまで手を広げて大風呂敷を広げた章は無理をしている感が拭えない。この著者ならではの独自の内容はあるので、興味のある人が批判的に読む分にはお勧め

著者のバロン=コーエンは自閉症についての世界的にも有名な研究者であり、特に自閉症は心の理論の障害である(他者の心が推し量れない)…という説で知られている。私自身は20年近く前に、男性に自閉症が多いことから心の男女差を論じた著作を読んで以来の、久しぶりに読んだ彼の著作だ。今回は、その以前の著作でも論じられていた、人の心の二大特徴であるシステム化と共感の対を活かして、より広い視点から人の心の進化にまで踏み込んだ野心的な作品だ。ただし、その野心がうまくいってるのか?は私の印象では微妙なところもある。

著者のバロン=コーエンは自閉症者は物事のパターンに気づきやすいという特徴をシステム化と呼び、自閉症者が苦手とする共感とセットにして、人の心が持つ主要な二つの次元だと考えている。これがこの著作の基盤となるアイデアとなっており、特にシステム化が人類にとって果たす役割が強調されている。そうしたこの著者の独自の考え方を知れる日本語の本としては、貴重で読む価値がある。

科学者によって書かれた一般書にありがちなのだが、この本にも著者の専門に近い内容の章は良く出来てるのに、そこからさらに手を広げた内容の章はいまいち…という評価が当てはまってしまう。特にシステム化と共感の対を元にした大規模質問紙調査やゲノム分析に基づいて脳の5つのタイプを導く第三章や、両親の職業と自閉症児との関連を調べた成果に基づく第八章は、著者自身の専門のテーマについての具体的な研究に言及されていて読み甲斐がある。

対して、人の進化や動物との比較を論じた第五〜七章は、必ずしも悪い内容ではないが(専門外にも手を伸ばしてみた)無理してる感は漂う。例えば、人のシステム化の特徴を強調するために、人以外の動物の心は所詮は連合学習だと言い張っているが、これについては専門家の間でも同意がある訳ではない。また、第七章で触れられているワーキングメモリについての記述には明らかに誤訳とは思えない勘違いがある(p.203の例として出てるリスの記述は長期記憶との混同にしか見えない)。大風呂敷を広げたこれらの章は全般的に議論が雑で、自分に都合よく解釈してるように私には見える。この著作の中でもよく触れられているハラリの「サピエンス全史」の影響でこれらの章は書かれたのかもしれないが、バロン=コーエンの性には合ってない気がする。

翻訳は読みやすく、学者が関わっているので訳は信頼できる(ただしp.200のメタ表現だけはメタ表象やメタ表示の方が一般的な訳語だと思う)。全般的に評価すると、著者の専門である自閉症に関わる研究に基づく章は独自の内容があってお勧めできるが、無理に大風呂敷を広げた章には注意が必要だ。その点で、こうしたテーマに興味のある人が批判的に読む分には薦められるが、誰にでも薦められるか?と言われると答えに困る。

とはいえ、自閉症を入り口にしてシステム化に人が発明を生み出す能力を見出して、自閉症を誰もが持つ人の一般的な特性の一つの現れとする神経多様性(ニューロダイバーシティ)へと至る日本語で読める手軽な本が他にあるとも思えないので、少しでも興味があるなら読んでそこまで損はしないと思います。


自閉症の特徴は本当にシステム化なのか?

書評の本文ではあえて触れなかったが、この著作の基盤の部分には、個人的には大きな問題を感じなくもない。つまり、自閉症の特徴をシステム化とするのは、本当に正しいのだろうか?

バロン=コーエンのするシステム化の説明は基本的にif-and-then(もし…ならば〜)ルールの条件論理によるものだ。ただ、他方で自閉症についての本文の記述や巻末にあるシステム化を測る質問紙を見ると、知覚によってパターンを見出す能力による説明になっている。この物事のパターンを見つける能力の部分が、本のタイトルのパターン・シーカー(パターンを探る者)に込められている。つまり自閉症児が適当なスイッチをいじって何が起こるのか?試したがるようなことを指して、if-and-thenパターンを探求するシステム化の能力だとしている。

しかし、ここで人工知能(認知科学)の知識を持ってる側からすると違和感のあるところが出てくる。if-and-thenルールと知覚で起きるパターン検出とをシステム化として一つにまとめてしまって良いのだろうか?要するに、if-and-then規則の条件論理を扱うのは古典的な計算主義(または古典的認知科学)なのに対して、パターンを扱うのが得意なのは今をときめくニューラルネットワークによるコネクショニズムであるが、これらは未だに対立したものとして扱われることも多く、融合が夢見られてはいるが成功してるとは言いがたい。この2つの異なるように思える能力(条件論理とパターン認知)をシステム化として一つにまとめてしまってよいのか?は私には疑問に感じる。

正直、質問紙を用いるアンケート調査がそもそも何を測っているのか?について、私自身は懐疑心を持って見ることが多い。最近は再現性問題によって、心理学実験での検査(試行)が本当には何を測っているのか?さえ怪しまれて始めてるというのに、ましてや質問紙の文への反応が何を測っているのか?はさらによく分からない。つまり、第三章で紹介されている、システム化と共感を測る大規模質問紙調査はそれ自体は貴重な研究ではあるが、実際のところ能力としてのシステム化をどれだけ測れてるか?よく分からない(自認を測ってるとするのが穏当)。ゲノム検査までした研究があることはすごいことだとは思うが、質問紙調査を中心とした研究への参照が多い第三章は私には(興味深い内容ではあるが)評価が難しいと感じた。つまり、第三章の内容からシステム化というひとまとまりの能力を擁護できるのか?は私自身は疑問に感じる。

この著作では、システム化はルールベースとパターンベースが混じった形で定義されている。しかし、実際の自閉症の描写を読むとパターンベースの描写(例えば海面のパターンを見る)が明らかに多い。システム化は仮説検証を行なう科学者の能力のように定義されているが、実際に紹介される自閉症の例は現実に働きかけて確かめるタイプの工学者的な人が多い。発達心理学では子供を小さな科学者として理解する説があるが、自閉症児はむしろ小さな工学者のように私には思える。著作本人もうすうす気づいているが、自閉症とシステム化との関係は間接的な証拠しかない。システム化の概念は人類一般の理論(発明を促すシステム化が文明を生み出した)を組み立てるために作られた傾向が強く、自閉症との関係は少しばかり薄いと感じる。

神経多様性(ニューロダイバーシティ)を考える

神経多様性とは、異なる環境が呈する多様な課題を人間のマインドが乗り越えていくことを確実にするための自然の戦略であると考える人もいる。 […略…]「神経多様性は、生命の多様性が生命にとって非常に重要なように、どの点から見ても人類にとって、非常に重要かもしれない。どのような脳回路が、どのような瞬間に最適となるかは、誰にもわからないのだ」』(「ザ・パターン・シーカー」p.224)

とはいえ、神経多様性(ニューロダイバーシティ)を単なる道徳からではなく、科学的な視点から擁護してる点ではこの本は現時点で価値がある(少なくとも日本語で読めるそういう本はまだ少ない)。ただし、そのためには自閉症とシステム化との関係はもっと精緻化される必要がある。

その上、特に第八章はSTEM職への偏見を招く側面もあり、不注意な読者にはむしろ読まれたくないと思ってしまう(最近だと集団遺伝学から人種分離が導びかれる説を安易に信じてる人がいるが、どう考えても無理がある)。著者は有名な故人を自閉症かどうか診断することを批判している(p.132)が、私も(昔は流行った)そういうアームチェア精神病理学に意義があるとは思えない(むしろ偏見を促進する可能性が高い)。

著者は「神経多様性の考え方とは、発達において多様な道筋があるということである」(p.222)と言っている。この発達の多様性はロシアの心理学者ヴィゴツキーが「思考と言語」で言おうとしてることと同じだと私は思っている(ヴィゴツキーの場合はピアジェの単線発達説への対抗になっている)。誰かが精神病理であるかどうか?は環境との関係で決まるのであって、個人の特性だけで決まる訳ではない。

最近の日本では、企業内の働かないおじさんが話題になることがよくあるが、これを働かないおじさん個人だけの責任と考えるのは間違いであり、これはむしろ彼を生み出した組織の問題でもある(そのままならまた同じ事態は繰り返される)。問題のある他人に精神病理的なもっともな診断名をつけて満足してるのは、非倫理的でしかない。ヴィゴツキーの最近接領域理論は発達を良い方向に促すように(人や技術を含む)環境を整えることと理解できる。これもバロン=コーエンと同じ見解であると言える。