アメリカの副大統領となったヴァンスの外交姿勢が騒がれている。特にリベラルとされる人たちがヴァンスの発言を批判して、否定的な評価をしている傾向が強い。
そうしたヴァンスの政治的な態度を探る記事をいくつか読んだ。それらは大抵、ヴァンスがティールらペイパル・マフィアからの過大を課題に評価して、新反動主義の影響を指摘するものだった。
しかしヴァンスの言動を見れば、それは単なる憶測による分析に過ぎないと感じる。むしろ、実際のヴァンスの言動を見ていると、それは政治理論における政治的リアリズムの特徴に当てはまるところが多い。
それで、次にリンクした記事を参照しながら、ヴァンスの思想を分析してみたい。
【解説】ヴァンス米副大統領が見ている世界とは――なぜそれが重要なのか
政治的リアリズムとは何か?
政治的リアリズムは、高名な哲学者だったバーナード・ウィリアムズが亡くなってから出された遺稿によって、話題になった政治理論の立場だ。次に日本語で読める政治哲学リアリズムについての代表的な紹介論文にリンクしておく。
乙部延剛 政治理論にとって現実とはなにか ――政治的リアリズムをめぐって――
バーナード・ウィリアムズの政治的リアリズムは、ロールズ的なリベラリズムが現実の政治に示唆するところがないとする批判から成り立っている。こうしたリベラリズム批判やウィリアムズ以外の政治的リアリズムについてはリンクした論文を読んで下さい。
以下では、ヴァンスに関わる言動からそれが政治的リアリズムにどう当てはまるのか?を指摘したい。
ヴァンスのどこが政治的リアリズムか?
ここからの引用は全て、始めにリンクした「【解説】ヴァンス米副大統領が見ている世界とは」から行なう。
政治と道徳の分離としてのリアリズム
政治的リアリズムの最大の特徴は、政治を道徳から分離することである。これはマキャベリを始めとする政治的リアリズムの古典において共通して見られる最大の特徴である。
ヴァンスにはこの道徳と政治の分離が典型的に見られる。次の引用などはまさにそれを典型的に表している。
本人の言葉を借りるならば彼は、「どの国が良い国でどの国が悪い国かなどという、道徳を気にしている」暇はないのだから。
「これは、道徳などどうでもいいということではなく、どういう国と交渉しているのか、そのことについて正直でいなくてはならないという意味だ。この国の外交政策の主流派のほとんどが、この点についてまったく失格だ」。ヴァンス氏は昨年、米紙ニューヨーク・タイムズのコラムニストにこう話している。
帰結主義としてのリアリズム
次の引用も、交渉相手が悪人かどうか?を二の次にする点で、道徳と政治の分離に従っている。と同時に、政治にとっては結果が全てであるという帰結主義も含まれている。
2024年のミュンヘン安全保障会議で当時オハイオ州選出の上院議員だったヴァンス氏は、 「プーチン大統領が親切で親しみやすい人だなどと主張したことは一度もない」と演説で述べた。
「(プーチン氏に)賛成する必要はない。彼と争っていいし、今後もしばしば争うはずだ。しかし、彼が悪者だからといって、基本的な外交に取り組んではいけないとか、アメリカの国益を優先してはいけないとか、そんなことがあるわけはない」
反ユートピアとしてのリアリズム
政治的リアリズムでは、あるべき理想を前もって想定してそれを目指すユートピア主義が否定されている。リベラルが(過去にはファシズムや共産国家が)陥りがちなそうしたユートピア主義を、政治的リアリズムは強く批判している。
英ケンブリッジ大学の宗教哲学准教授で、ヴァンス氏が自分の「イギリスでのシェルパ」と呼ぶ友人のジェームズ・オー氏はこう言う オー氏は説明した。「ここで言うアメリカの国益とは、抽象的なユートピアの利益ではなく、さまざまな提案や理念の集合体の利益でもなく、アメリカ国民の利益を意味している」。
このようにヴァンスの言動には、政治的リアリズムに当てはまる特徴が多く見られる(これに比べると、イーロン・マスクは自分の理想の実現を目指すユートピア主義に見える)。安易にティールらの影響から新反動主義を持ち出すのは、実際のヴァンスの言動をろくに見てない間抜けに思える。
政治的リアリズムについてもう少し詳しく考える
ヴァンスの政治的リアリズムへの指摘はこれで済ますとして、もう少し政治的リアリズムについての話を続けたい。
ここまでに指摘した政治的リアリズムの特徴は、トゥキュディデスやマキャベリのような古典から現代にまで共通する特徴だけを上げて来た。しかし、近年に論じられている政治的リアリズムにはそれ以外の特徴も見られる。
それは、政治的なものの喚起であり、これは既に挙げたウィリアムズによりも、現代の政治的リアリストとしてよく挙げられるもう一人の哲学者ゴイスに見られる特徴だ。
政治的なものの喚起としてのリアリズム?
政治的なものの喚起は、カール・シュミットに典型的に見られ、その後はムフやコネリーのような闘技民主主義に受け継がれている。ゴイスもこの人たちと思想がそっくりである。しかし、これが政治的リアリズムにふさわしいのか?は自分には疑問だ。
カール・シュミットは議論による同意を批判して、闘技としての政治性を推し進めた。闘技民主主義やゴイスもこれを受け継いでいる。しかし、闘技民主主義がリベラリズムに対決する政治的リアリズムにふさわしいのか?疑問しかない。
ゴイスは,政治理論の役割として,概念の発明,変革をあげているが,ここには,概念によって政治的現実が構成されるという社会構築主義的な視座が窺われる。 というのも,概念の変革に期待されている役割は,既存の現実によりよい説明を与えることではなく,新たな概念によって政治の現実を書き換えることにあるからである
乙部延剛「政治理論にとって現実とはなにか」p.245より
社会構築主義的な視点はゴイスと闘技民主主義とに共通の特徴である。ここに見られる特徴は、よく見れば概念工学的な試みとして見れるが、実際にはSNSや一部の人文学者に見られる文化闘争(正しい概念の押し付け)にもそっくりであり、それは今や不毛なアイデンティティ政治だと批判されている。こんなのはさっぱりリアリズムに見えない(むしろ現代のリベラルの側だ)。
ポストモダン・リアリズムはリアリズムなのか?
政治的ものの喚起は、カール・シュミットによる同意に対する敵対性の提示から来ているが、これは同一性に対して差異を提示するポストモダン思想と図式が同じだ。つまり、ゴイスや闘争民主主義はポストモダン・リアリズムだと言える。
しかし、敵対性や差異を強調する(秩序から差異へ)のは本来のリアリズムの特徴とは合っていない。例えば、リアリズムの古典的な代表であるホッブスは、人々が争ってる状態にいかに秩序をもたらすか?を問題にしている(差異から秩序へ)。これでは向かう方向が全く逆だ。
その点では、正統性を問題にするカール・シュミットやバーナード・ウィリアムズは、リアリズムの伝統に従っている。非道徳的な政治的行為が許されるとしたら、そこに正統性があるからであって、なんでもありではない(安易な「君主論」解釈はそう思われがち)。
私は、ポストモダン・リアリズムを政治的リアリズムとして認める気はとても起きない。むしろ、これは現代的なリベラルの特徴の方に近い。
トランプ当選によって否定された現代的なリベラルは、本来のリベラリズムとは似ても似つかない。ジョセフ・ヒースが指摘するように、本来のリベラリズムの持つ曖昧さに付け込まれたのだ。私はリベラルという言葉が乗っ取られた(ハックされた)と思っている。
リベラル批判についても少しだけ
ちなみに、今回の事態からリベラル批判をする人はたまに見かけるが、(リベラルという言葉への乗っ取りを無視して)これが単なるリベラリズム批判でいいと思ってる人は多いようだ。これでは、ヴァンスを新反動主義だと決めつける人と変わりない。
現代的なリベラルの特徴は、この前の記事やここで指摘したように闘技民主主義(差異の政治)による文化闘争にもあるが、もう一つは功利主義にもある。功利主義は、一方で効果的利他主義や長期主義にも見られるが、他方でマクロ経済政策の重視(総和主義)にも見られる。アメリカはマクロには景気は悪くないが、ミクロには不満が溜まってトランプ当選につながった。
つまり、アメリカ民主党はマクロな経済政策は必ずしも間違っていた訳ではないが、マイノリティの味方ごっこのせいで優先順位が狂ってしまい、ミクロな政策はうまく行かなかった(少なくともアメリカ国民の多くにそう思われた)。
現代的なリベラルにおいては、本来のリベラリズムは(よく見積もって)せいぜい骨組みが残っているだけで、それ以外の壁も屋根も全て取り替えてしまった。その実質は"闘技民主主義+功利主義"に近い。
今や左にはポストモダン左翼としてのリベラル(文化左翼)がいて、右にはポストモダン右翼としての新反動主義(オルタナ右翼)がいる。政治的リアリズムに意義があるとしたら、そのどちらとも異なる方向を目指すしかない。ヴァンスはそうなるのだろうか?