この世は儚いから人生は無意味であるのか?

最近、こういう論文を読んだ。

人生は甲斐がなく無意味である ――水泡論証による擁護 笹滉介

これは、近年に盛んになっている人生の意味についての分析哲学的な議論を扱った論文である。内容は水泡論証の紹介としては良く出来てるので、興味があるなら読んでもいいかもしれない(ただし、あくまで学術論文なので面白く読めるとまでは言えないが、この種の論文としては分かりやすくて読みやすい)。

人生の意味の哲学については、前に入門書を読んだことがあって、それなりに興味深かったがそこまで感心はしなかった。この時は、自分はこのテーマにそもそもそんなに関心を持てないからかな?と思っていた。

今回、この論文を読んでも少し考えたことがあったので、ここにメモ的に記しておきたい。

水泡論法とは?

まずは、この論文で話題となっている水泡論法についての説明をしよう。以下の引用は全て、最初にリンクした論文からとする。

(1) 人の成果がすべて無に帰するならば、人生は甲斐がなく、無意味である
(2)人の成果はすべて無に帰する
(3)人生は甲斐がなく、無意味である ∵(1) ~ (2)
「人生は甲斐がなく無意味である」p.10より

身も蓋もなく言えば、「どうせ自分はいつか死ぬし、なにかしたとしてもその成果はいつかなくなるんだから、人生に意味なんてないじゃん!」となる。

このタイプの考え方は過去にもよくあったことは、論文に示されてるのでそれは読んでください。この論証の詳しい定式化も論文を読んでください。ここではその先の話をします。

この論文には、この水泡論法に対するランダウの批判が紹介されている。実は自分はこの批判の紹介こそが一番面白いと思った。

いくつかランダウの批判が扱われているが、それらへの著者の反論には説得力のあるものもあった。しかし、もっとも重要な批判については著者の反論には説得力がないと感じた。

水泡論法へのランダウの批判

まずはランダウによる批判は次の通りである。

ランダウの一連の批判のうち、注目に値するのは、死は等化器 (equalizer) ではないということを論拠とした批判である。ランダウは、「それらがみな死および消滅を控えているという点で束の間のものであるという理由で、すべての経験、人生が等しいものである」という見解の奇妙さを指摘する。例えば、キング牧師切り裂きジャックについて、2人が死によって消滅しているという点で共通しているとしても、それゆえに2人の人生の価値が等しいと考えるのは奇妙である。
「人生は甲斐がなく無意味である」p.18より

これに対して、著者は人生における意味と価値は別であると反論してる。だが、ランダウはそもそも人生における意味と価値は分けられないと考えているのだから、十分な説得力がないと感じた。

こんなことになったのは、この論文の前提から来ている。「ウルフ-メッツパラダイムのもう一つの特徴は人生の意味を道徳や福利(well-being)とは異なる第三の価値として捉えることである」(p.3)。

ランダウの批判の根底を問う

この論文で前提となっているウルフ-メッツパラダイムとは

このパラダイムの特徴の一つは、人生の意味について、meaning of life と meaning in life を区別した上で、後者に探究の焦点を合わせることである。
…[略]…
本稿では、前者を「人生がそもそも有意味でありうるかどうかを問題にする場合の人生の意味」、後者を「人生を有意味にするものが (仮に) 何かあるとすれば、 それは何であるかを問題にする場合の人生の意味」として理解する。
「人生は甲斐がなく無意味である」(p.2-3)より

しかし、この前提が正しいかどうか?はこの論文では全く扱われていない。自分はこれはおかしいと思った。「人生の意味」と「人生での意味」を別々に分けていると言えるが、これは完全に別々ではない。そもそも人生の意味がないならば、人生に意味を与えるものを問うてもしょうがない(全称が否定されるなら特称も必然的に否定される)。異なる別の問いがあるだけで、それらが分離されてる訳ではない。

ランダウのいう人生における価値も、これは何が有意味か?という価値の基準の問題をはらんでおり、その点では「人生での意味」と関わりを持っている。

ランダウの主張は、善人であれ悪人であれどうせ消滅するから意味ない!というのは直観的におかしいということだ。ここでランダウはウルフ-メッツパラダイムの根底を批判してる。

水泡論法のプラトニズム

ここで目線を変えてみよう。もし不死の人が存在したら、水泡論法は成立するのだろうか?たとえ主体が不死であっても、その成果はいつか消滅するので、人生は無意味である…とは言えそうだ。ただしこの場合は、神がこの可滅する世界を作ったとしたとすると、この世界(神の成果)はいつかなくなるのだから神の生(?)には意味がない…も導ける。もし神の生?に意味があるとしたら、可滅する世界とは別にあるイデア(神の成果)があるから…というプラトニズム論法が思いつく。

実は、「人生の意味」(「人生での意味」ではない)における論証には、こうしたプラトニズム論法が見られる。つまり、不死で不滅な存在だけが意味を持つという論法は、イデアこそに価値がありその影でしかない現世は劣っている!というプラトンの論法とそっくりだ。そもそもありえない基準を想定して、それを満たせないものを貶している。

神とは人によって理想化されて作り出された…というフォイエルバッハの論法があるが、水泡論法にもこの論法を当てはめてみたくなる。人生の意味をありえない形で理想化した上で人生の意味を否定するのは、自分にはなんか八百長みたいでズルいと思ってしまう。

プラトニズムではない人生の無意味を導く別の論証

人生の無意味を導く、こうしたありえない理想化を用いない別の論法は簡単に思いつく。それは、世界(宇宙)の広大さを前にしては人の生なんて意味ない!とする論法だ。おそらくこの論法で一番有名なのはパスカルだろう。

この場合は、ありえない無限に対して無意味を問う水泡論法に対して、ありえるが無限に近い広大さに対して無意味を問うのだから、プラトニズムではないので、フォイエバッハ的な批判は成り立たない。

しかし、これは簡単に反論できる。人は広大な宇宙に比べたら微小だ…という話だが、そもそも無と微小は全く違う。広大な砂漠からするとそこの一粒の砂粒は微小でなくなっても変わらないので、意味がなく見える。だが、その砂漠の全ての砂粒に同時にそれを実行したら、その砂漠はなくなってしまう。どんなに小数点以下にゼロがたくさん続こうと、それはゼロではない。

この微小には意味があるのだろうか?これは(特に古典的)統計を持ち出して説明してみよう。任意の2つの群(例えば男女や貧富など何でもいい)の平均値を比べた場合、その平均値の差に意味があるか?と問うのが有意差検定である。しかし、現実のどの2つの集合を比べても、その平均値が全く同じであることはまずない。再現性問題が起こるまではP値だけから有意性を判定しがちであったが、それはサンプル数に相対的な判断であって、具体的にどれくらいの差があるか(効果量)とは関係がない。

本来は2つの集合にどれくらいの差があってほしいのか?を検定者が決めてから、統計的な分析をするのが正しい。これ以上は統計の話をするのはやめるが、大事なのはどんな差に意味があるか?は、客観的に決まっているのではなくて、分析者が定めるものである。

人生の意味も同じで、どんなに微小に見えようが、そこに意味があるか?は分析する側の基準によって決まるのであり、客観的には定まらない。微小を無にしてるのは、広大な宇宙を前にした者からの判断であり、微小を無にできてる訳ではない。

おわり

ここまで論じてきたことは、自分が以前に人生の意味の哲学の本を読んだときに、あまり感嘆しなかった理由を含んでいると感じる。つまり、人生の意味を普遍的に問う論法に意義を感じられなかったからだと感じる。