今の日本ではリベラル論議が盛んだが、それを見ててもしっくりくることはないまずない。その理由は簡単で、日本ではリベラルという言葉が正しく定義されることもなく、それぞれの人がそれぞれに好き勝手な意味で使っているからだ。
この前、比較的リベラル寄りのYouTubeのニュース番組を見てたら、チャット欄にリベラルとは人権を守ることだとの書き込みがあって、リベラル寄りの人でもその認識なんだと少し驚いた。人権は右か左かに関わらす重要であり、リベラルの定義とは関係ない。
リベラリズムには大きく三回の展開がある。最初の頃の立場は自由を最優先する思想だったが、それは今では古典的リベラリズムと呼ばれている。その後、政治哲学者ロールズによるリベラルな平等主義が広まり、それがニューディール以降のマクロ経済政策と結びついた。つまり、自由を基盤としたマクロ経済政策と平等主義的な再分配との組み合わせとなるのが正統派リベラリズムだ。本来はこれこそがリベラリズムと呼ばれるべきだったが、さらに転回が起こってややこしい事態になっている。
それは2010年代に入ってから盛り上がったwoke運動と結びついた新しいリベラルである。それは元を探ると20世紀末に生じたアイデンティティ政治による文化左翼(ローティの命名)にあるが、それがいつの間にかリベラルと結びつくようになった。ジョセフ・ヒースも指摘するように、この新しいリベラルは正統派リベラリズムの持つ曖昧さにつけいっている。その結果、その平等主義がアイデンティティ政治に踏み潰された(SNSでよく見る平等と公平についての壁の向こうを覗くイラストも参照。ただしヒースの言うようにそのイラストにはかなり問題がある)。
私自身はwokeなリベラルには問題がある(分断の原因にしかならない)ので、正統派リベラリズムに戻るべきだと思っている。しかし、日本ではさらに事情がややこしくなっている。
日本では人権を否定する反動的なネトウヨ勢力が力を持ち、ネトウヨでない人までそれを真に受けている人が多い。日本ではそれに対抗する運動がリベラルの側とされてしまった。ここでは人権の問題と権利の問題がゴッチャにされてしまっている。
欧米のwokeなリベラルが好むDEIは、(LGBTなどの)権利の問題であって人権の問題ではない。だが、日本ではそれが人権の問題とされて、話がややこしくなってる。欧米の極右は人権を否定するほどのヤバイ発言(ナチス!)は避けており、その点では議論の仕方は巧妙だ。それに比べて、日本は人権理解がおかしいことが多く、議論のレベルが低くなりがちだ。
ただでさえ現在のリベラルはややこしいのに、日本ではそれに輪をかけてグチャグチャになって訳が分からなくなってる。日本では人権を守るのような、本来のリベラルとは関係のない基礎的な話から始めないといけないのがもどかしい。
私自身は正統派リベラリズムに近い立場であり、それ以外のリベラルについての批判は私の中では既に終わっている(リバタリアニズムとアイデンティティ政治を批判すれば済む)。しかし、正統派リベラリズムにも問題があり、その批判こそが重要である。現在を読み解くには正統派リベラリズムへの批判が核心にあるのに、そこに入る前で大勢が右往左往してるのは時間の無駄だなと感じてしまう。