現代哲学に見られる観念論の要素を少し覗いてみる

最近、現代哲学では否定的に扱われがちな観念論を擁護する記事を書こうと計画している。別に論文を書く訳ではないので手軽に書くつもりだが、それなりにちゃんとした内容にしたいので、どうしようか迷っている。本体の記事を書くのはまだ先になりそうなので、その入り口となる準備の記事をまずは書いてしまおうと思った。

最近の大陸系の現代哲学に見られる観念論の要素の一例

日本で人気の哲学者にマルクス・ガブリエルがいる。マルクス・ガブリエルの哲学はポストモダン哲学を批判する新実在論と呼ばれて、日本でもよく読まれているようだ。しかし、日本でのマルクス・ガブリエルについての説明を見てても、重要なところが触れられていないと感じる。

マルクス・ガブリエルは元々はドイツ観念論(特に後期シェリング)を研究する哲学史家として評価され、その後に一般向けの哲学書を書いて有名になった。

ガブリエルのオリジナルな哲学的な主張は一般的には新実在論と呼ばれている。しかし、この言葉は元々の研究対象であるドイツ観念論とは相反しているようにも見えてしまい、その内実が日本でどこまで理解されているのか?疑問に感じるところはある。

「意義の領野」とは何か?

マルクス・ガブリエルの主要な説に「意義の領野」(又は意味の領野)がある。その説では小説に出てくる虚構の人物や陰謀論の主張も他の存在と同等に扱われている。一見するとこれは一般的な実在論の理解(物の存在を認める立場)に反しており、(二次元の)俺の嫁は存在する!と揶揄されることもある。

ガブリエルの言う意義(Sinn)とは、元々はフレーゲのSinnから来ている。困ったことに、ガブリエルの翻訳ではSinnは意味と訳されがちだが、フレーゲの翻訳では伝統的に意義と訳されている。フレーゲにとって意味と意義はセットとなる概念なので、訳語が真逆なのは混乱を招いている1。おそらく日本でマルクス・ガブリエルの哲学が正しく理解されにくいのは、この辺りに事情があると思われる。

ガブリエルの「意義の領野」の源は、(彼によるその批判にも関わらず)マクダウェル「心と世界」にある。人の経験をフレーゲの意義(Sinn)によって説明するのはマクダウェルの説としてしられており、マクダウェルの知覚の概念主義もそれと関連している。

概念領域には外部との境界線があるという考えを拒否することが「絶対的観念論」の核心であり、われわれはいまや、その哲学のレトリックを手なずけるための糸口を手にしている。

マクダウェル「心と世界」p.85より

絶対的観念論とはもちろんヘーゲルの哲学のことだが、ここにマクダウェルマルクス・ガブリエルの哲学における共通点がある。ただし、経験の領域がマクダウェルでは知覚が中心にあるのに対してガブリエルでは虚構にまで広げられているのに違いがある。

現代における実在論(realism)という言葉の含意は、20世紀の始めに起こった観念論vs.実在論の対立から生じている。マルクス・ガブリエルが自分の哲学を新実在論と称していることも、ガブリエルにおける観念論の要素を見えにくくしてて、ややこしさに拍車をかけている 2

最近の分析哲学における観念論の説明の一例

自分が本編として書こうとした記事は、20世紀の前後における英米哲学における観念論の要素を示すことだ。それを書くのは次回以降のこととして、今回はチャーマーズによる心身問題から見た現代の分析的な観念論の概論を見ておきたい。

参照するのは以下の論文だが、私の説明は分かりやすくするために、この論文の正確な要約ではないです(特にマクロ観念論はかなり変えてる)。正確に知りたい人は原論文を読んでください。

David J. Chalmers "Idealism and the Mind-Body Problem"
https://scispace.com/papers/idealism-and-the-mind-body-problem-1-1gzukyj1rg

チャーマーズの概論を雑に読む

心身問題(心と体の関係を問う)については、その解決についてこれまで唯物論や二元論や汎心論が論じられていた。その中で最近は観念論にも注目されるようになっている…とチャーマーズは言う。その観念論をチャーマーズは大きく三つに分けて考えている。それはマクロ観念論、ミクロ観念論、コスモ観念論だ。

マクロ観念論とは、人の心のような中くらいの心を基盤においている。これは世界は心が作っているとするバークリー的な主観的観念論と相性が良い。しかし、そんな心が複数存在したら、互いに見ている世界がバラバラなのでコミュニケーションが不可能である。これを解決する最も簡単な方法は、心は一つしかないとする独我論である(世界は俺の心が作ったのだ!)。それに満足できるならそれでもよいが、なぜその心に(感覚できてない)物理的な物があると思えるのか?が答えられない。これに答えるためには、さらに別の観念論の立場が必要になる。

ミクロ観念論とは、世界の最小のものに心があるとする説だが、これは実質的に汎心論と同じである。汎心論にはいわゆる組み合わせ問題、つまり最小の心よりなる大きな心(例えば人の心)がなぜ一つのまとまりとして感じられるのか?に答えられないといけない。

コスモ観念論とは、ただ一つの極大な心(神の心?)があるとする説だ。人の心はその極大な心の断片だとするのが、マクロ観念論で出された問いの答えとして提出されている。ただし、これに対してはなぜ極大な心と断片の心の間に違いがあるのか?に答えないといけない。これは汎心論とは問題設定が逆(組み合わせか?断片か?)だが、どちらも答えるのは難しい。

コスモ観念論の立場で、物が存在してるように感じられるのを説明できる最も説得力のある考え方がシュミレーション説である。つまり、世界は神の心(極大のコンピュータ?)が計算してシュミレーションしているとする考え方だ。これについては既にチャーマーズの翻訳本もあるので詳しくは触れない。

ちなみに、私自身はシュミレーション説には魅力を感じたことがない。理由は簡単で、この世界が自然法則を伴って存在するという唯物論(物理主義)の言い方を、この世界は神の心(コンピュータ)が計算してると唯心論の言葉で言い換えてるだけで、違いが感じられないからだ。正直、私にはどっちでもいい。

終わりに

ここまで、チャーマーズの観念論の説明を大雑把に紹介してきた。しかし、これは哲学史における観念論とはあまり一致しない。哲学史に現れたその観念論についての記事を計画している。ここでした話の中でその計画中の記事と最も関連性が高いのはマクダウェルだろう(マルクス・ガブリエルは取り上げる気がないから、ここで軽く済ませた)。


  1. フレーゲのSinn(意義)とBedeutung(意味)は、英語ではsenceとreferenceと訳されることもあるが、これだと物を指示する方がBedeutungだと分かりやすい。Sinnについてはただの記述だと理解されていた(クリプキ)が本当は概念と理解するのが正しい…とするのがマクダウェルの見解だ。
  2. マルクス・ガブリエルの新実在論はその前の思弁的実在論とも関わりを持っているが、どちらも一般的な意味での実在論とは内実が違っている。この辺りも観念論(特にシェリング)と結びつけることで理解しやすくなる気がするが、私はそこまで詳しくないのでここでは触れない。少なくとも21世紀に入ってから流行った現代思想系の実在論は元々の実在論とは異なる。