現代の学者による観念論の説明を眺めてみる

現代の哲学において観念論は目の仇にされがちだ。私がやろうのしてるのは、観念論を擁護する(擁護できる形に変える)ことが目的だ。そのためにまずは観念論の説明から始める。

現代的な観念論のイメージは、20世紀初頭のイギリスでの観念論-実在論の論争や同時期のレーニンの経験論批判(実質上の観念論批判)から始まり、近年のサイエンスウォーズ以降のポストモダン思想批判にまで続いている(思弁的実在論以降の現代的実在論もこの流れにある)。そこでの観念論のイメージとは何なのだろうか?

戸田山和久「科学哲学の冒険」はサイエンスウォーズ以降の観念論への敵対視を反映した著作だが、ここにある観念論の説明が標準的な説明なので、始めにそれを紹介する。

戸田山和久の観念論の説明を見る

観念論とは独立性テーゼを捨てるという戦略をとる立場だ。「独立性テーゼとは、人間の認識活動とは独立に世界の存在と秩序をみとめる考え方」である(戸田山和久「科学哲学の冒険」p.148より)。

この戦略は、「観念論(idealism)」って呼ばれてきた。観念論にもいろいろなバリエーションがあってね。たとえば、一七世紀アイルランド生まれのバークリーなんかは、「存在するということは知覚されることである」と言って、そもそも、われわれが見たり触ったりするということを離れては世界はないとした。つまり知覚から独立の世界の存在まで否定しちゃた。

戸田山和久「科学哲学の冒険」p.141より

[カントは]、世界の構造とか秩序―たとえば因果とかは、認識主観の能力が構成して世界に押しつけるものだと考えていた。だから、認識から独立した世界はみとめるけど、認識から独立した世界の秩序はみとめない。これも独立性テーゼをほとんど否定しているも同然だから、観念論だよね。

戸田山和久「科学哲学の冒険」p.141-2より

観念論とは、認識から独立した世界の秩序をみとめない立場だが、独立した秩序がなければそれを知る試みも不可能だ。そんな科学的活動を否定するような考え方は許せん!というのが戸田山和久の態度であり、これは同時代の観念論的なポストモダン哲学(社会構成主義)への批判と結びついていた 1

「Idealism in Modern Philosophy」序章の観念論の説明を見る

そこで、次はもっと最近の著作での観念論の説明を取り上げよう。2023年に出たPAUL GUYER AND ROLF-PETER HORSTMANN"Idealism in Modern Philosophy"の序章がネットで読めるので、それを参照してみたい。 原文をそのまま訳すと長いので省略して紹介します。

近代における観念論には二つの根本的となる考え方がある。
1. 心的なものが全てのリアリティの究極的な基盤である。
2. 心から独立したものが存在するとしても、この心から独立したリアリティについて私達の知れる全てには心の活動が貫かれている。

一つ目の項目は存在論的な観念論と呼ばれバークリーに代表される。二つ目の項目は認識論的な観念論と呼ばれカントに代表される(以上、PAUL GUYER AND ROLF-PETER HORSTMANN"Idealism in Modern Philosophy"p.2から要約)。

この観念論の説明も基本的には戸田山和久の説明とだいたい一致しているが、違いもある。それはリアリティ(reality)という言葉が使われていることだ。訳すなら現実感とか現実味とか現実性となるが、過度に主観的に受け取られないようにそのままにした。
この著作のもう少しあとには別の形の説明がある。

観念論は唯物論(materialism)とは対照的に理解される。唯物論は物の特性を超えた何かとしての心のリアリティを否定するが、観念論は心から独立した物のリアリティを否定しても、心のリアリティはほとんど否定しない。

PAUL GUYER AND ROLF-PETER HORSTMANN"Idealism in Modern Philosophy"p.4より

戸田山和久による世界の秩序を否定する反科学だとする観念論の説明に比べると、リアリティを強調することで反科学的な要素は弱めになってる。それでもまだ、人によっては反科学的に見えてしまう側面を残してしまっている。しかし、観念論を反科学的に理解する必然性はないはずだ。

既に長いのでこの辺りでやめるが、ここまでは学者による一般的な観念論の説明を紹介するだけで終わってしまった。私が本来やろうとした内容にはまだ届いていないので、それは次回以降にします。


  1. 戸田山和久構築主義構成主義を安易に同じに扱っているが、私からするとconstructionism(構築主義)とconstruntivism(構成主義)は違う。しかし、これらがごっちゃに一緒にされているのは現在の一般的な傾向なので仕方ないのかもしれない。でも、社会学に由来する構築主義と数学やカントに由来する構成主義は分けて理解する方が良いと思う。この話は気が向いたらそのうち書くかも。