前回の記事では、観念論についての一般的な説明を紹介した。だが、その説明ではバークリーとカントの観念論までに留まっていて、哲学史的なその先には触れられていなかった。それを少し追いながら、現代に相応しい観念論の理解を探ることになる。こんな試みは参考になる先例があまりないので、上手くできると良いのだか…
なぜ私が観念論にこんなに関心を持ったか?というと、それはイギリスの政治哲学者オークショットの影響だ。
観念論者としてのオークショット
元々オークショットの哲学は好きだったのだけど、いくらか前にオークショットの"On human conduct"の未訳の第一章の原文をネットで手に入れたので、気まぐれでそれを(半ばまで)読んでたら興味が出てきて、改めてオークショットについて調べるようになった。そしたら、(保守主義として知られるよりも前の)初期のオークショットの処女作が観念論的な著作だと知って、そこからどんどん話が広がっていった途中経過をまとめよう…がこの記事を書く動機になっている。
あまり知られてはいないが、彼がはじめて出版した本は『経験とその様相』(Experience and its Modes :1933)という形而上学についての著作である。この本のなかではOakeshottは絶対観念論者であり、現実は思考するという経験に他ならないと力強く主張している。この本の序論でOakeshott は次のように述べている。「私がそこから最も多くを学んだと自覚しているものは、Hegelの『精神現象学』と Bradleyの『現象と現実』である」(Oakeshott 1933, 6)。
白水大吾「理念なき絶対観念論 : F. H. Bradleyの形而上学についての試論」p.44より
近代哲学史における観念論の公式な位置づけ
一般的な哲学史的な理解だと、観念論はバークリーにカントと来たあとは、ヘーゲルに代表されるドイツ観念論まできたら、その後はマルクスなどによる観念論批判になって消息が分かりにくくなってしまう。しかし、実際にはイギリスやイタリアに観念論が受け継がれていた(ブラッドリーはイギリス観念論の代表)。だが、それもすぐに批判が続いてしまい、やはり消息が分かりにくくなってる。
現代において実在論と呼ばれているのは、20世紀初めのラッセルやムーアによるイギリス観念論への批判があり、そこから分析哲学が生まれている。他方で、レーニンによるマッハ批判としての観念論批判があり、これが正統派マルクス主義における観念論批判として広がってしまった。
こうした結果、20世紀を通して観念論についての否定的なイメージ(外界の存在や秩序を否定する独我論)がまとわりついてしまった。そのせいで、本当は観念論の影響を受けた人が自分は観念論者だ!と堂々と言えない状況ができてしまった(それは今にも続いている)。
ただし、観念論の中でもカントだけは特権的に扱われて、その観念的な要素を弱めて受け入れられはした(例えば新カント派やヘルムホルツ。無意識的推論は外界の存在を否定する必要はない) 。しかし、これらは科学による認識を特別視することになるので、実質的には科学的実在論との違いはなくなってしまう。
現代において観念論を擁護するなら、科学との対決が避けられない。その話は後でするとして、まずは観念論の持つ特徴を改めて確かめておきたい。
ヘーゲル以降の観念論の特徴を探る
ここまでに確認した観念論の定義はバークリーからカントまでに留まっている。そこでヘーゲルに代表される絶対的観念論を説明すべきだが、あの難解なヘーゲルの哲学を扱うのは私の手に余る。そこでここからは、ヘーゲル的な絶対的観念論がどのように受け入れられたか?から確認したい。
経験は思考であるというOakeshott のテーゼが結論するのは、世界は「意味(meanings)の世界」(Oakeshott 1933, 61)である、という主張である。「考えることは経験することであり、経験するとは意味を経験することであるから、現実的なものとは常に意味を持っているもの、あるいは理性的(rational)なものである。意味を持つものは、私たちがそれに完全な意味を与えるならば、現実的であり、現実的なものは意味を持つ」(Oakeshott 1933, 58)。この表現はあきらかにHegel を意識したものであるだろう。
白水大吾「理念なき絶対観念論 : F. H. Bradleyの形而上学についての試論」p.45より
引用されてるオークショットの文体はヘーゲルの難解な文体を真似ており、読んでいて頭が痛くなる表現ではある。ここで大事なのは、経験される世界は意味に満たされており、その外側はないことだ。外側がないとは、次の引用のように反基礎付け主義的な全体論を含意している。
それゆえにOakeshott は、「思考することはセンスデータや所与の感覚あるいは知覚から始まるのではない。また、直接的なものから始まるのでもなく、不整合でナンセンスな多様なものによって始まるのでもない」(Oakeshott 1933, 20)と語る。感覚から得られたデータを基に知識の体系を構成することができるという基礎づけ主義的な認識論に与しないという点では、BradleyはOakeshottと同じ側の陣営にいる。
白水大吾「理念なき絶対観念論 : F. H. Bradleyの形而上学についての試論」p.47より
この絶対的観念論の側面は、以前の記事で引用したマクダウェルの文章にも反映されている。改めて引用しよう。
概念領域には外部との境界線があるという考えを拒否することが「絶対的観念論」の核心であり、われわれはいまや、その哲学のレトリックを手なずけるための糸口を手にしている。
マクダウェル「心と世界」p.85より
マクダウェルはブランダムと共にヘーゲルの影響を受けたピッツバーグ学派として知られている。ここでピッツバーグ学派の観念論を確認してもよいのだが、ここでは彼らの師となるセラーズの中にある観念論を確認したい。
セラーズにおける観念論の要素
セラーズはカントからの影響を強調してるとはいえ、自らを観念論だと称してはいない。セラーズ自身は次のような言い方をしている。
われわれは私が心理的唯名論(psychological nominalism)と呼ぶある一般的な型の見解を持つことになる。それによれば、種類、類似性、事実等々の意識のすべて、簡潔に言えば、抽象的存在者についてのすべての意識は―実際、個物についてのすべての意識さえ―言語に関わる事柄(linguistic affair)である。この見解によれば、言語使用の過程はいわゆる直接経験に関わる類、類似性そして事実についての意識さえも前提としてはいないのである。
ウィルフリッド・セラーズ「経験論と心の哲学」p.69より
「抽象的存在者についてのすべての意識は言語に関わる事柄である」の部分だけ取り出すと、唯名論の特徴に当てはまる。しかし、「個物についてのすべての意識さえ」まで考慮するとその考えは撤退せざるをえない。なぜならオッカムからの伝統の唯名論とは、抽象的なものの存在は否定するが個物の存在は認めるからである。
手元にオッカムについての著作を持っていたので、そこから引用しよう。
オッカムは、スコトゥスのように「個々の人間に共通な本性が心の外に存在する」と考える人々を批判して、
心の観念が述語づけによって、外界の複数の事物に共通な不変なのである。……外界の事物の側には、端的に個である物以外には、何も存在しないのだからである。…[Ockhan Summa Ligicae]
渋谷克美「オッカム哲学の基底」p.5より
この唯名論の特徴に典型的に当てはまる哲学は、メレオロジーを基盤にしたネルソン・グッドマンやデイヴィド・ルイスの哲学理論である。グッドマンやルイスの哲学は、一方に言語があり他方に個物からなる世界があり、それらの間を自在に関連づけられるのが特徴だ。しかし、セラーズにはそのような意味での外側の世界(個物や感覚データの源)はありえない。これはまんま観念論の特徴そのものである(ただしセラーズがどこまで観念論なのか?はここではこれ以上は問わない) 1。
とりあえず観念論の特徴をまとめる
まだ(ドイツ観念論の影響下にある)プラグマティズム(古典的と現代的の両方)については論じられていない。だが切りがないので、ここで現代的な観念論の特徴をまとめておこう。
私たちの経験する世界は意味(又は概念)で満たされており、その外側なんてない。
ただし、元々のヘーゲルの絶対的観念論にあった絶対者の想定はかなり薄まって(なくなって?)いる(ただし、どうしても外界の存在が必要ならそれは絶対者が認識するものとすれば良い)。
まだ観念論の科学との対決まで届いてないのだが、既に長いのでそれはまたの機会としよう。


