リベラルにありがちな二重過程説(無意識の偏見)への間違った理解

近年のジョセフ・ヒースのエッセイはどれも面白く、経済学101のサイトですぐに日本語で訳されるのでお薦めします。最近だと特にこれがお勧めだ。

正直、ヒースは主流経済学についてはちょっと真に受けすぎだと思う1が、認知科学進化心理学については知識がちゃんとしてるので、その点でもぜひ読んでほしい。彼に賛同するのであれ反対するのであれ、まずは彼の知識のレベルに達してから始めてほしいと思う。

リンクしたエッセイは彼の過去の著作「啓蒙思想2.0」を最近のポピュリズムと結びつけて論じていて、とても興味深い。詳しくは実際にエッセイを読んでほしいです。

このエッセイの良いところは二重過程説について正しく理解されているところだ。二重過程説は日本も含めて一般に知られつつあるが、この理解には偏りがあることが多い。特にリベラルのされる人たちの間で無意識的な偏見を通して知られているその理解にはかなりの問題がある。結果として、それが近年のリベラルぶりっこの駄目さの原因となっている。

リベラルぶりっこの二重過程説への間違った理解の話をする前に、一応確認しておきたい。たまに二重過程説は再現性の危機によって否定されたとする人がいる。残念ながらそれは正しくない。再現性問題によって否定されたのは二重過程説の中の個別の説であって、二重過程説そのものではない。二重過程説はそれまで別々にあった様々な科学的成果にあった共通性を集めて理論化したのであって、そんなに厳密な理論ではない。大枠としての二重過程説は否定し難く、その個々の説のすべてが否定されるなんてありそうにない。

もう一つややこしい話もしておくと、メルシエ&スペルベル「理性の謎」(未訳)で知られるようになったマイサイドバイアスによって、二重過程説はいらないという人もいる。もちろん、このエッセイを読めば分かるように、ヒース自身は今でも二重過程説を否定していない。マイサイドバイアスは理性を他者への正当化として捉えるのであり、バイアスの排除ではないとしている。しかし、二重過程説を、理性によってバイアス(偏見)を克服できる、と考えるのは次に説明するようにそもそも間違っている。

リベラルには無意識の偏見説を、意識によって偏見を乗り越えられると捉えている人は多い。これが間違っていることはエッセイでヒースが説明している。システム2(理性、意識)によってシステム1(無意識)の欠点を排除できるとするリベラルの誤った考え方は、リベラルの道徳主義的な正しさの押しつけにつながり、それに対する反動が起こってる最中である。これはリベラルの二重過程説へのおかしな理解から生じている。

ヒースの言うように、理性は無意識の失敗を補完するものであり、生活のすべてを理性や意識だけによっておくれるわけではない(ヒースは全てをストループ課題にしてると面白い言い方をしてる。ストループ課題はネットで調べてください[見れば分かる])。リベラルの理性主義や意識中心主義は頭のおかしい試みとしか言いようがない。

意識に訴えかけることでどんな差別もなくせる…というリベラルの考え方にはなんの根拠もない。ましてや、その訴えが男女の性別を否定するような常識に反するものなら、当然に受け入れられる訳がない。それでも受け入れられたいなら、ちゃんと議論して納得してもらうしかない。だが、残念ながら駄目なリベラルはそれさえやる気ない。駄目すぎて付ける薬がない。

日本も含めて、二重過程説を否定する人はたまにいるが、大抵その二重過程説への理解は間違っている。他方で、その間違った理解にはリベラルによる間違った考え方が反映されてる可能性も高い。二重過程説には理性や意識によって差別や偏見をなくせるという意味合いは含まれていない。

二重過程説を巡る現代の問題とは、本当は理性の問題というよりもナッジ(デザイン)の問題なのだが、それは別の機会に論じよう。


  1. 自分は経済学がそんなに科学的だとは思っていない。より正確に言うと、経済学が他の社会科学と比べて特に科学的だとは思えない。つまり、経済学も含めて社会科学の全体が科学としては問題含みだ。データを扱っているから科学的だろ!とするのは甘くて、データ分析にもその独自の前提があり、その前提が現実と合ってなければその分析には意味があまりない。例えば、経済学者は異業種間の移動(転職)が容易だと想定しがちだが、それは全く現実的ではない。AIのような技術によって職業に対する需要と供給は変化する。需要のない職業からある職業にすぐに転職できるなら失業はないかもしれないが、もちろんこの想定は現実的ではない(必要な能力はそんな簡単には身に付けられない)。