アーキテクチャに埋め込まれる人工知能についての二つの記事を紹介

以前にもした、アーキテクチャに埋め込まれる人工知能の問題について、関連した記事がほぼ同時に出たので紹介します。

まずは海外のもの。知識や用語はこちらのほうが正確。

次は日本のもの。AIと統計(のアルゴリズム)をごっちゃにしたりと、そりゃそれらの境界は曖昧だろうけど~と不満もあるけど、問題意識は一緒。

AIが意識を持つだの人間に逆襲するだのと言った今のところ非現実的なSF話と違って、これは現実的な問題。もちろんAIには有用なところも多いけど、他方でこれも深刻な問題。しかも単なる人工知能の問題を超えて、データのプライバシー問題だの情報接触の蛸壺化だの、現代のいろんな問題と結びついて、情報生態系についての大きな問題圏をなしている 1。もうちょっと興味を持たれてもいいと思う。


  1. 最近つくづくテレビの報道が偏っているのに改めて気づいてゲンナリしたが、情報生態系の問題というのは何もインターネットだけの問題ではない。

最近は、認知科学における表象主義についても相変わらず考えながら、統計学の勉強も未だに続けている。ここに書くようなアイデアもないではないが、面倒なのと勿体ぶってるのとでやる気がしない。最近よく読んでいる論文類はキンドルに入れておいてあって、そのお薦めでも紹介でもしようかとも思ったが、下手に紹介すると読む気が失せるような気がするので勿体無いのでやらない。ただ今は海外の博士論文っぽいのがネットに上がっていてその中に素晴らしいものがたまにあるのには驚いている(冗談抜きでそれが愛読書と一時的になっている)。

最近統計学を勉強していて気づいたことがあって、それが認知科学にも似た状況があるような気がしたので、それについて書いてみようかなと思う。

統計の話

そういえば、最近勉強している統計学だと、頻度主義(frequentism)とベイズ主義との対立について云々はよく語られてはいるけれど、学者によってその用語や整理が微妙に違っていて困ってしまう。最もあからさまな間違いだと、フィッシャーを安易に頻度主義に分類することだけれど、これは日本の学者だけかと思ったら欧米の学者でもやっているのを見かけた。これは頻度主義統計を意味しているのだろうけど、頻度主義は元々は確率論の用語なのだが、この辺りで混乱がある。その立場の分かりにくくさを脇に置いても、フィッシャーは明らかに確率論としての頻度主義を批判している。よく批判されるフィッシャーの有意性検定そのものは確率論の頻度主義とは関係ない。これは確率論の用語を統計学に転用した結果に起こった混乱でしかない。私が見た最近の英語の文献だと、統計の話題では頻度主義という言葉を使うよりも、代わりに古典的(classical)統計とか正統派(orthodox)統計とかの言い方をよく見かける。もう日本でもネイマン-ピアソン流の統計学を頻度主義と呼ぶのはやめて、古典的統計とかに言い換えた方がいいと思う。

統計の呼び方の問題は単なる前置きで、それよりも勉強しているうちに思ったのは、今や統計学の研究状況が相当に変化したのに統計の全体を理解する枠組みが未だに二十世紀前半からの頻度主義とベイズ主義の対立を超えていないことだ。それは頻度主義を古典的統計と言い換えても(誤解を防ぐ以外は)それほど問題は変わらない。せいぜい二十世紀まではこの対立する立場の他にフィッシャー派を含むこともあったが、二十一世紀に入ってからだとたまに尤度主義が加わることもあるが、どちらもそこまで普及している立場とは言い難い。もともと統計における頻度主義とベイズ主義の対立には、確率における客観的確率と主観的確率の対立と重ね合わされている側面があったが、二十世紀後半になってベイズ統計の研究が発展して、ベイズの定理を用いているからと言って必ずしも常に主観的確率を採用しているとは言い切れなくなってしまった(例えば客観ベイズや経験ベイズ)。いい加減にこの辺りを整理してもらわないと統計の全体像を理解しづらいし、頻度主義とベイズ主義を単なる優越でしか見ない勘違いもいつまで経っても絶えない(ベイズ統計さえあれば古典的統計はいらない…なんてことはありえない)。

認知主義の話

統計学についてのこうした状況に気づいた頃に、たまたま認知科学における認知主義についての話を見かけて、認知科学にも旧態依然とした図式への固執はあるなぁ〜と気づいた。認知主義というのは二十世紀末における古典的人工知能や古典的認知科学への批判でよく用いられたもので、最近だと身体化論のラディカル派(4E認知)の学者にこの言葉を使うことをよく見かける。しかし、認知主義批判なるものは二十世紀まではまだしも二十一世紀世紀に入ってから研究状況が変化して、いわゆる認知主義者がどこにいるのかもはや怪しくなってしましい、単なる一方的な悪口とかしてしまった感じがする。認知主義に関わる問題は二つあって、まずこの言葉が二十世紀には当てはまっていた古臭い図式に由来すること、そして認知主義という言葉がだんだん意味が広くかつ曖昧になってしまったことだ。

私の理解では、もともとの認知主義には二つの側面があって、1つ目は心を思考や統語的な要素によって説明しようとする傾向であり、もう一つは心が頭の中にあるとする内在主義的な傾向である。前者に注目した場合は、コネクショニズムは認知主義的でないことになり、これが認知主義の狭い意味だろう。それに対して後者は、ギブソン生態学的アプローチやブルックスの古典的人工知能批判(サブサンプションアーキテクチャ)に由来する反表象主義の立場による批判に由来し、それが最近のラディカルなエナクティストにまで至っている。前者のような立場はもはや主流ではなく、(限定的な形ならともかく)少なくとも極端にその立場に立っている人が今やいるとはとうてい思えない。後者は極端な身体化論者が批判しがちな点ではなるが、そのじつその人たちが提示する考え方はもう一方の極端に至っていることが多い。

表象主義の話

この形の認知主義を理解するには表象と言う概念を理解する必要があるが、これまた意味が多義的で曖昧なので議論が混乱する源となっている。本当はこのテーマで記事にしようかとも思ったが、面倒なのでここであっさりと説明する。哲学の世界で知られている表象でローティ「哲学と自然の科学」における認識論的な意味がある。これは表象を世界の正確な写しと捉えることへの批判が含意されている。しかし、認知科学で用いられる表象はこれとはちょっと違う。表象を思考の言語のようなものとして捉えると、既に上げた認知主義の狭い意味に一致する。もう一方は表象を知覚的表象と捉えることで、これはギブソンの批判に由来する。表象には他にもイメージ的な表象や目的意味論的な表象もあるが、ここではこれ以上は突っ込まない。重要なのは、現在の反表象主義は思考的表象も知覚的表象もどちらも否定しているように見えることだ(ただし必ずしもはっきり表明しているわけではない)。反表象主義の中で最も極端な立場は心的計算をも否定する反計算主義だが、こうなるとただの反認知科学と違いがない。そこまで行かなくても、計算の持つ意味合いをできるだけ小さく抑えようとしている気配は大きい。

反表象主義を採用する理由に、世界の中で身体を持った心のダイナミズムを理解しようとする動機がある。ただ注意すべきは、ダイナミズムを理解することと表象を認めることは相反する事態ではないということだ。表向きは論争にならないが実は身体化論には二種類の立場があって、一方は反表象派だが、もう一つは(分かりやすく命名すると)イメージ派(またはシュミレーション派)と呼べる。イメージ派は少なくとも知覚的表象は認めているが、単なる思考的表象と違って世界へのダイナミックな対応は可能である。この話は説明し始めると大変なので端折るが、私は個人的に反表象主義のことをダイナミックな行動主義と呼んでいるが、別にそれだけが身体性やダイナミズムを扱える唯一の立場ではない。

書評 ダグラス・マレー「西洋の自死 移民・アイデンティティ・イスラム」

書評 ダグラス・マレー「西洋の自死 移民・アイデンティティイスラム

西洋の自死: 移民・アイデンティティ・イスラム

リベラルぶりっ子なエリートによる安易な移民政策がいかにヨーロッパの文化と社会を壊したのかを描いた大作

ヨーロッパの移民大量受け入れの歴史を描きながら、それがヨーロッパの社会にいかなる影響を与えたかを論じた、ジャーナリストによる大作の翻訳。タイトルからは西洋批判の本にも思えるが、そうでは全くない(原題は「ヨーロッパの不可思議な死」)。チラっと中身を見ただけだと移民排斥の本にも見えるが、そういう視野の狭い著作ではない。なぜヨーロッパが大量の移民を受け入れるようになったのか、その結果としてヨーロッパの社会が如何に変質していったのかを、ジャーナリストならではの取材を始めとした事実に基づいて描き出した本だ。特に本の後半では、ヨーロッパにおける思想と文化の衰退を描いており、そういう視点からも興味深い。これらが日本にどれくらい当てはまるかはこれからの課題だが、ともかく最近のヨーロッパ社会の現状について知るにはうってつけの著作。

日本ではリベラルな評論家が移民を受け入れるのは当然とばかりの主張をして、欧米における移民排斥を叫ぶ右傾化を懸念する意見はよく聞かれる。しかし、何の議論もなく移民を受け入れるのは当たり前だとする見解には前から疑問を感じていた。そこでこの本を手に取ると、ヨーロッパにおいて移民問題がいかに深刻なのか、そしてそうした移民政策が国民の意見を反映することなくリベラルぶりっ子なエリートに先導されていたことが描かれていて驚いてしまう。こうした議論は下手をすると移民排斥や差別主義と区別が付きにくくなるので、著者はその辺りをとても丁寧に論じている。この著作の前半を中心に全般を覆うヨーロッパの移民問題についての叙述は読んで確かめてもらうとして、以下ではこの著作のもう一つの側面に注目したい。

もしこの著作が移民問題についてだけ論じていたら、たとえ丁寧に事実に基づいて書かれていたとしても、単なる移民排斥についての著作だと勘違いされたかもしれない。しかし、この著作の後半は移民問題がヨーロッパの文化や価値観と結びつけて論じられており、これが単なる移民排斥の本では決してないことをはっきり物語っている。

移民についての文化的問題は大きく二つ挙げることができる。それは移民のヨーロッパ的な価値観への同化の失敗と、ヨーロッパの思想的退廃や移民への罪悪感である。前者は、差別意識を持った人々を差別せずに受け入れることの矛盾から成り立っており、経済成長やグローバル化を理由に移民を受け入れることばかりを考えてしまい、移民がヨーロッパの文化や価値観に適応できるかどうかを考えてこなかった結果として、文化的に同化できなかった移民による犯罪が絶えなくなってしまったことが指摘できる。ヨーロッパが移民を拒絶せずに受け入れきた理由はもう一つあり、ヨーロッパが長らく続けてきた植民地主義への罪悪感からリベラルに見られたいエリートが移民を拒否できなかったせいでもある。さらに、インテリたちが限りのない脱構築ゲームにはまり込んでしまい、ヨーロッパが思想的にも文化的にも積極的なものを何も提示できない退廃状態に陥ってしまい、その結果としてテロを推し進めるような過激思想に対する免疫がない若者が生まれた。そして、そうした退廃的な文化は移民に人権や寛容さを教えることもありえず、結局は同化は失敗を約束されている。この辺りの著作の指摘はとても深い。

この著作は異文化や異宗教との共存を否定していると安易に誤解されそうだが、そうではなく寛容に反するほどの異なる価値観が移民とともに移入してくることの危険性を訴えているのだ。そしてそれが、リベラルぶりっ子をしたいだけの現実を見ないエリートによって主導されてきたのだ。

ヨーロッパの今を知りたければこれは必読の本だが、数少ない欠点は本が分厚くて読むのが大変なことだろう。特に日本では実感がない話なので余計に読みにくいかもしれない。私自身も全体を流し読みした後に後半を中心に読み直して、やっとこの著作の意義が理解できるようになった。あまり無理して全てを通読しようとせずに、事実や歴史に興味のある人は前半を中心に、思想や文化に興味があるなら後半を中心にと、必要に応じて読んでもいいかもしれない。

日本では本当は大して知識もないのにヨーロッパについてもっともらしく語る評論家もいるが、ここはやはり優れた当事者の話を聞くべきだろう。正直、この本での話が日本にどの程度あて当てはまるのかは未知数だが、あまりにも議論が無さすぎるのも事実だ。現在のヨーロッパの実情を知りたいなら、せめてこの本や既に翻訳されているEUについての本ぐらいは読んでおくべきだろう。

西洋の自死: 移民・アイデンティティ・イスラム

西洋の自死: 移民・アイデンティティ・イスラム