さっぱりリベラリズムではない現代的リベラルの二つの源泉
現代においてリベラルと呼ばれる立場や人々に、私はよく理解できないところが多くある。マイノリティの権利と称して極端な考えを他人に押し付けようとしたり、被害者(とされる人)の主観を絶対視したりと、あまり正気に見えない。私はロールズを始めとする政治哲学を個人的に勉強していてまあまあ詳しいと思うし、左翼と近代主義の区別ができない日本のネトウヨなんて馬鹿にしている。そんな私でも現代にリベラルと呼ばれるものが、私が理解しているリベラリズムと違っているとしか思えなくて、長らく困惑していた。
現代的リベラルの源としての文化左翼―ローティ―
そんな訳の分からないリベラルは日本の特殊事情だろ!…と思おうともしたが、アメリカでも似た事情があるらしいのでそうとも言い切れない。私はそうした立場や人達を(正統派リベラリズムと区別して)現代的リベラルとここで呼ぶことにするが、それはポストモダン左翼と呼んでもいい。最近はそれはアイデンティティ政治として批判されているが、それは1990年代に文化左翼としてローティに批判されていた思想と同じだ。
改良主義は否定されている。改良主義的左翼にとっては,改良の道徳的責任の条件として,みずからがアイデンティファイする対象一ここではアメリカという国家一が要求されるであろう。これは個人の自尊心と同じかもしれない。しかし,端からアメリカという「システム」の転覆を狙うラディカルにとって,そんなものは微塵も必要ないのだ。「議会で多数派を」などと叫ぶのは,幼稚な子供の所業である。ローティによれば,「差異の政治」「多文化主義」そして「文化系研究」は, まさしくこの「システム」転覆のための道具である。
「学界内左翼は固く信じている。この手の思考様式を転覆するためには,我々はアメリカ人たちに他者性を認識することを教えなくてはならないと。この目的のために,左翼主義者たちは,女性史,黒人史,ゲイ研究,スペイン系アメリカ人研究,そして移民研究などの学問領域を統合することに力を尽くしてきた。」(AOC,79)渡辺幹雄「左翼を健全化する R・ローティの見る現代アメリカ左翼事情(1)」p.615-6より
ここで引用を止めると誤解しか与えない(マイノリティの権利を否定するのか!)ので、次の引用と必ずセットで読んでほしい。
以上の考察から総合的に明らかであると思われるのは,「差異の政治」一文化的差異に眼をつぶるのではなくそれを固持しようとする政治一が,「現実政治」の場面で具体的なイニシアティヴをとれる可能性は低い,ということである。なぜなら,「国政レヴェルの選挙で多数を勝ち取ることができるのは,仲間である(commonality)というレトリックだけだからである」。「もしも文化系左翼がその昨今の戦略一お互いの差異に頓着するのを止めさせるのではなく,お互いをその差異において尊ぶことを求める一に執着するのなら,それは国家レヴェルの政治において仲間意識(a sense of commonality)を創造する新たな方法を発見しなくてはならないだろう」(AOC,101)。
渡辺幹雄「左翼を健全化する R・ローティの見る現代アメリカ左翼事情(1)」p.220より
つまり、本気でマイノリティの権利を実現したいなら、より多くの国民にその必要性を理解してもらって政治で多数派を取るしかない。しかし、マイノリティを理解しないとされる人たちを無闇に敵対視するアイデンティティ政治(差異の政治)は、何も変えることのできない政治的な効力のない自己満足でしかない。なぜこんな不毛な考え方が現代的リベラルとして広まったのか?ずっと疑問だった。
引用した論文では後編でデリダやフーコーが取り上げられているが、これは現代的リベラルの直接的な源泉として理解するのは難しい。ここではもうちょっと関連性がより直接的で強い源泉を二つ取り上げたい。
一つ目の現代的リベラルの源泉―ラクラウ&ムフ―
ラクラウ=ムフの議論が前提しているのは、アイデンティティが階級や経済的土台によって決定されるとする本質主義を放棄し、むしろ主体がある言説内でどのような位置を占めるか、あるいは社会におけるどのような諸要素と節合されるかによって偶発的に決定されるという、アイデンティテイの非本質主義的理解である。このために導入されるのが 「言説理論discourse theory」であり、ラクラウ=ムフはイデオロギー的諸要素の意味や社会的行為者のアイデンテイティがア・プリオリに決定されているのではなく、つねにすでに未決定な状態、もしくは不完全な状態であることを示したのである。
「境界効果」の産出〔……〕はかくして、明確かつ所与の分離のうえに、また、最終的に獲得された参照枠組みのなかに、基礎を置くことをやめるのである。この枠組みの産出、そして、相互に敵対的に対決するようになるであろう諸アイデンティティの構成が、いまや第一の政治問題となる。(Laclauand Mouffe 2001 [1985) : 134=2000: 212-13)
ここで「第一の政治問題」と言われているものこそ、階級的紐帯から解放され、社会内に浮遊したアイデンティティを固定化するべく繰り広げられるヘゲモニー闘争なのである。 ラクラウ=ムフによれば、社会内の諸要素のアイデンティティは階級によってア・プリオリに決定されるのではなく、節合実践を通じた他の諸要素との関係において、偶発的に重層決定されるものである。
ここで論じられているのは、現在にアイデンティティ政治と呼ばれているものそのものである。アイデンティティ政治は最近はさんざん批判されている(引用したローティ論でもされてる)ので、ここではこれ以上は詳しく扱わない。ただし、私自身は批判すべきはアイデンティティ政治よりも差異の政治と呼ばれるべきだと思う。
アイデンティティ政治は現代に人々をバラバラにしている状態の原因ではあるが、アイデンティティ政治を全面否定するのは危険なことだ。始めてある問題や不満(例えば同性婚)を持ったときに、当初は共感してくれる人がほとんどいない可能性がある。その時にその問題に注目してもらう過程で、何かしらのアイデンティティを軸にするのがいけないとは言えない。駄目なのはとりあえずの仲間探しの手段でしかなかったアイデンティティ政治が、細かく敵と味方を分ける差異の政治に変換してしまった時だ。差異の政治に陥ってしまうと、それ以上に味方が増えないので政治的な影響が持てなくて何も変わらない。こんなのはやってる感だけのただの自己満足だ。
ただし、当のラクラウ&ムフはその後に左派ポピュリズムに向かっていったが、それは差異の政治だけの政治的無力からの展開としては正しいとしか言いようがない(味方を増やすがゆえのポピュリズムであり、安易に批判する奴は分かってない)。なのに、いまさら差異の政治だけが一般に広がってしまったのはSNSの影響が大きいのかもしれない(正確にはスマホの普及によるSNSの大衆化)。これについては私は憶測しか言えないので、ここではこれ以上は触れない1。
二つ目の現代的リベラルの源泉―ドゥオーキン―
以前に、アメリカでトランプがまだ大統領だった頃に、最高裁判事に右寄りの人を指名したことがあった。その時にもここにブログ記事を書いたが、その後もアメリカの司法審査制を理解した上での説明を日本では見ることがあまりなかった(学者は何やってるの?)。
比較的に最近になって、アメリカのリベラルの失敗は司法依存にある!というネット記事を見てナルホドと思った。現代的リベラルの奇妙さ(なぜ政治的影響を持てないのに差異の政治を続けるのか?)の源はそこにあったと気づいたので、それをここで軽く説明したい。
以上のように、ドゥオーキンは、自らの構想するリベラリズムは市場経済と代表民主制という二つの制度の下では実現されないと結論づける。その理由は、生まれつきのハンディ・キャップなどによりたまたま「少数者」といわれるグループに属する人々は、自らの選択の及ばない事由により、種々の不利益扱いを受けるからなのである。
[…略…]
「もし[少数派の]諸権利が裁判所によって認められたなら、これらの諸権利は、議会によって実効あるものとされたことがなくまた将来されることがないであろうにもかかわらず、実効性あるものとなるのである。
[…略…]
少数者がこのようにして獲得し得る能力は…立法的諸決定に対する司法審査というシステムの下で、最大となるであろう。」
ここまでくると、なぜドゥオーキンがその法理論において道徳的権利という権利概念を設けたのかは、もはや明白というよりほかはない。かれは、代表民主制下においても少数派はその主張を充分に展開することができないという認識に立ったために、少数派の主張をその政治的機能において十全に展開せしめ得るには、外的選好の圧力から免れたそれとは別のチャンスを設けなければならなかったのである。かれはそのチャンスを司法過程に求めたのであるが、そこでもし、権利は議会の制定法により創設されるもの以外ではあり得ないとする実証主義的理論構成をとったのでは、その制定に自らの意見を反映させることのできなかった少数派の救済の場のして機能し得ないことは言うまでもない。旗手俊彦「ドゥオーキン権利論の社会哲学」p.779-80より
司法審査とは、最高裁で立法された法律を超えて違憲性を判断するアメリカの仕組みであり、独立した機関である憲法裁判所と違って個々の裁判の中で憲法に反しているか?が判定される。ドゥオーキンは司法審査によって司法が政治的な立法に対する強い力を発揮することができ、それによってマイノリティ(少数派)の権利を守ることができるとしている。アメリカのリベラルなあり方は(政治ではなく)司法によって可能になっていたとも言える。しかし、その希望はトランプ元大統領の最高裁判事の指名によって打ち破られた。
アメリカの現代的リベラルがマイノリティの権利を叫ぶだけのアイデンティティ政治を平気でやってこれたのは、政治的に多数を取らなくとも司法審査によってそれが実現可能だったからだ。だが、それはアメリカのリベラルの怠慢であり、現に中絶問題を見れば分かるようにそのやり方は今や通用しなくなっている2。
自分はロールズを見て、現代的リベラルはリベラリズムではないと思っていたが、実は現代的リベラルはドゥオーキン的な意味ではリベラリズムであると言えなくもない。しかし、リベラリズムを政治的に実現するのを前提としたロールズと違い、ドゥオーキンの権利基底リベラリズムは司法を通して実現できるとしたが、これは最高裁判事に依存した都合の良い想定でしかなかったのだ。
もちろん、日本ではアメリカにおける司法審査に当たる違憲立法審査権が行使されることなど滅多にない(これは司法消極主義と呼ばれる)。たとえ違憲判決が出ても日本では何の実効性もない(最近の同性婚判決を見よ!)。日本では権利基底リベラリズムは成立できる基盤がそもそもない。
差異の政治+権利基底リベラリズムとしての現代的リベラル
現代的リベラルとは「差異の政治+権利基底リベラリズム」の組み合わせであり、その実現はアメリカの特殊事情に依存している。しかし日本では事情が異なるので、日本で差異の政治をやることにはあまり意義がないはずだ。
この前、日本で合理的配慮を求める法律が施行されることに喜んでいたリベラルな人がいた。その喜びは結構だけど、そもそもその法律が通ったのは別に日本のリベラルの力ではない。日本の法律の多くは官僚が作ったものであり、それが良い法案であったとしてもそれは官僚の気まぐれでしかない。日本のリベラルは日本の官僚(行政)に一方的な期待をしているところがあるが、例えば日本の難民対応(人を死なしてる!)を見れば分かるように、日本の行政(官僚)に都合の良い期待をできる根拠はない。
私的領域のことで威張るしかない現代的リベラル
(特に日本では)政治的にも司法的にも行政(官僚)的にも効力を持てない現代的リベラルとは何なのだろうか?日本の現代的リベラルは公的には影響力を及ぼせないが、代わりに私的領域への影響は駆使している。つまり、日本の現代的リベラルとは他人の生活に口を出しているだけなお節介な(自称)風紀委員でしかない。せめてクラスの決まりとして同意してもらう力ぐらいある学級委員ならまだマシだが、それでさえない。公的な力を発揮できないから私的に口を出すしかないのだ。
日本の現代的リベラルが公私の区別に無頓着なのは、例えばルッキズムの理解に表れている。ルッキズムの本質は、見た目とは関係のないこと(能力)を判断するのに見た目が影響してしまう問題にある。しかし、日本ではルッキズムを見た目の判断そのものだと勘違いされていることが多い。見た目の好みは私的な問題であり、例えば就職におけるルッキズム(見た目が能力より重視される3)ような公的な問題とは異なる。
マイノリティの権利を本気で実現したいなら、それを実現可能な形に仕立て上げて人々を説得して政治的に多数派を取らなければならない。しかし、現代的リベラルはそうした努力をする気などなく、人々の私的領域を脅かすことで威張っているだけだ。もちろん私的領域は公的領域と関連していて、時には連携していて切り離すことはできない4。だが、それは例えばマイノリティは自分たちの仲間であると思わせる…といった政治的な努力をしなくて良い言い訳にはならない。
最後に注意しておくが、私がここでやりたかったのはネトウヨのようなリベラル叩きではない。日本のリベラルとされる人たちにも色んな人がいて、その中にはここで指摘したような問題の多い現代的リベラルもいるということだ。むしろ私は日本で正統派リベラリズムがもっと広がるべきだと思っている。そのためにも、害悪なリベラルぶりっ子はきちんと批判されるべきだと思う。
- SNS上などでアイデンティティ政治が戦われているのは、承認欲求の表れかもしれない(その点では陰謀論も似ている)。承認欲求を満たすのが目的であるが故に、政治的影響を持って社会を変えることは別に目指されてはいない(陰謀論もそれが真実か?は信者にとっては重要ではない)。被害者の主観の絶対視(私が思っていることが全て正しい!)は承認欲求の行き着いた先なのだろう。↩
- ただし、アメリカの中絶問題への違憲判決に対しては日本では誤解が多い。これが意味するのは中絶問題は州ごとに決めろ!であって、州ごとの政治的な決定という最後の砦は残されている。アメリカの連邦制がちゃんと理解されていない。↩
- ただし、職業によっては(職業の特性上)見た目が重視されるのは仕方がないことであり、それは問題ではない。重要なのは、本来は見た目と関連のないことの判断に見た目が影響してしまう件にある。ちなみに、見た目の好みの問題はそれ自体に問題がない訳ではない。しかし、それは見た目の好みの多様性の問題であり、ルッキズムとは分けるべきだ。↩
- 日本でケアや贈与や徳倫理が持て囃されるのは、それらが私的領域にありながら公的な影響があることに由来する。ケアや贈与や徳倫理の本質は、民主主義や資本主義といった近代的システムから外れた外側(私的領域)にありながら、それらがなければその近代的システムそのものが立ち行かなくなるというパラドキシカルなところにある。故に、単なる私的努力(ケアや贈与をしましょう!)でも公的機能(ケアは全て国家が担うべき!)でもどちらでも解決はしない(全て市場に任せるのも問題だらけだ)。↩