大規模言語モデルに潜むアナロジー構造から今のAIを考える

前に書いたブログ記事で、自分はAIには科学的な興味は失ったと書いた覚えがある。実際に、今でもニューラルネットワークを用いた今のAIが認知モデルに相応しいとは思ってない。時々見かける、あまりにも素朴に今のAIこそが認知モデルだ!と信じてる学者がいても、どこが?少しは冷静にものを見ろよ!ぐらいにしか思えなくなっている 1

しかし、そんなAIへの科学的な冷めた視点はあるネット記事を読むことですっかり醒めてしまった。それはWIREDのネット記事「それでもやはり、AIは思考しているのか」である。

この記事の著者は認知科学に詳しい人なので、私のような昔ながらの認知科学好きには面白すぎて夢中で読んでしまった。その記事の前半で描かれている今の生成AIへの凄さと限界の説明はとてもよく書かれている。

だが、私のような認知科学オタクが衝撃を受けたのは記事の後半だった。そこでは「ゲーデル・エッシャー・バッハ」で有名なダグラス・ホフスタッターに関連づけて大規模言語モデルについて論じられていた。(最近は新しい論文も読んでもつまらないというのに)、近年でこんなに興奮して読んだ文章なんてあっただろうか?

アナロジー(類推)とは何か?

この記事を読んでから、ホフスタッターがアナロジーについて書いた文献としてデネットが勧めていた中で、唯一翻訳のある「メタマジックゲーム」は既に手元にあったので、そのアナロジーの章もとりあえず読み返してみた。確かにそこに出てくる例は記事で説明されているものと似ている。

古典的な例を挙げるなら、「パリ」という単語ベクトルから「フランス」を引き、「イタリア」を足すと、ほかのベクトルのなかで最も近いものは「ローマ」になる。

それでもやはり、AIは思考しているのか? | WIRED.jp」より

「メタマジックゲーム」に出てくるのは「ファーストレディー」の例で、イギリスには大統領がいないけど、イギリスのファーストレディーという言葉を理解できるのか?という話だ。これは上に引用した多次元ベクトルの話に見事に当てはまる。つまり…

  • 「パリ」-「フランス」+「イタリア」=「ローマ」
  • 「ファーストレディー」-「アメリカ」+「イギリス」= ??

一応、少し古いが手元にある認知心理学事典のアナロジーの項目からも引用しておこう(どっちにせよ新しいめぼしい文献も大したのはない)。

知識を多次元空間として表現し, アナロジーをその多次元空間のある部分空間から他の部分空間への写像としてモデル化した。彼らによれば、「馬とシマウマの関係は、犬と何の関係に等しいか」 というアナロジー問題に対して、被験者は、馬に対するシマウマの位置関係と同じ関係を犬に対してもっているもの(たとえば、キツネ) を答えるということを見いだした。

M.W.アイゼンク編「認知心理学事典」p.2 アナロジーの項目より

つまり、二つの対象(ベースとターゲット)の間にある構造的な類似性に対応関係を見つけるのがアナロジー(類推)だ。アナロジーについては心理学的な研究の蓄積(最も有名なのはガン治療の例)があって、本当はそれについても書きたかったのだが、準備に時間がかかっていつまで経っても記事を書けそうにないので、拙速でもいいからともかく書いてみたい。

コネクショニズムにおける二つの意味論

ホフスタッターのアナロジー論がどう現在のAIとどう関係するか!を論ずる前に、まずはこの方面(ニューラルネットワーク論)では有名ですぐに思いつきやすいポール・チャーチランドの哲学について語りたい。

チャーチランドの状態空間意味論

チャーチランドについてはもっとちゃんと語るためにきちんと準備したかったが、これもきりがないので私の大雑把な説明で済まします(ちゃんと知りたい人はちゃんとした文献を見て下さい)。

今の主流のAIの基盤であるニューラルネットワークは、(WIREDの記事にもあるように)多次元ベクトル空間として理解することができる。現在のおしゃべり人工知能である生成AIの源となるモデルは、大規模言語モデルと呼ばれている。大規模言語モデルではベクトルの単位は基本的に語であるが、対して(これまたニューラルネットワークを用いた)チャーチランドの状態空間意味論(近年は領域描写意味論とも呼ぶ)は、ベクトルの単位は感覚である。

チャーチランドの状態空間意味論では、感覚を学習して分類するモデル(今風に言うなら識別モデル)が想定されている。チャーチランドの時代(二十世紀末)はまだちゃちなモデルでしかなかったが、今やニューラルネットワークによる識別モデルは高度なものになっている。チャーチランドの出す例は色や顔だが、今なら写真から名前が分かる植物図鑑のアプリがある。 ただし、植物図鑑のような単語レベルのラベリングならうまくいってるが、もっと複雑な文レベルのラベリングだと現在でもなかなか難しい(これは後で述べる理由とも関わりがある)。

チャーチランド的な識別モデルとは画像へのラベリングと言えるが、もちろん識別モデルがあるなら生成モデルもある。これは言葉から画像や映像を生み出すAIであり、その成果は広く知られるようになっている。しかし、こちらの方はWIREDの記事にもあるように、物理法則を理解できないなどフィジカルな要素に弱い。

一般的に、AGI(汎用人工知能)として期待が寄せられがちなのは大規模言語モデルの方であり、画像や映像の生成AIの方ではない。これは今のところそもそものモデルの構造(例えば単なる頻度として以上には物が下に落ちるが分からない)に由来すると思うので、今のままでは解決は難しいと思う(ただし、拡散モデルによってノイズに強くなったように、将来的に解決策が見つかる可能性がないとは言い切れない)。

チャーチランドについてはまだまだ語ると切りがないのでここで済ます。どうせ、ここではチャーチランドはホフスタッターの理論との対照のために説明してるだけだ。

ホフスタッターのアナロジー的な意味論

アナロジーについては既に説明した。WIREDの記事にもあるように、現在のおしゃべりAIの基盤となる大規模言語モデルの多次元ベクトル空間にはアナロジー構造が潜んでいる。既に例を出したアナロジーの事例はシンプルだが、(文脈を含んだ)もっと複雑なアナロジーがあるのは確実だ(おそらくそれはTransformerによって実現している)。

大規模言語モデルによる生成AIの特徴は次のようにまとめることができる。知識や事実に基づかないハルシネーション(幻覚)を起こす点では信頼性は低めと言わざるをえない(前にも説明したように、その原因は大規模言語モデルが統計モデルであるせいだ)。

しかし、大規模言語モデルの生成AIが文法的に正しいもっともらしい文を次々と生み出せる流暢性はとても高い。この高い流暢性が可能なのはなぜか?は不思議に思っていた。おそらくそれは、大規模言語モデルの高次元ベクトル空間に潜むアナロジー構造にあるのではないか?とにらんでいる。そのアナロジー構造に言葉の文法と意味が同時に反映されているようだ。

大規模言語モデルによる生成AIはただの確率的オウムと揶揄されたりする(私は前に連想ゲームだと言ったことがある)。これは仕組みの理解としては間違っていないけれど、しかしそのオウムの内側にはアナロジー構造を持った複雑なモデルがあると考えると、揶揄としては甘いところがある。これでは動物なんて条件づけされた機械でしかない…といってる人と変わりがない。

もちろん、研究が十分に進んでない段階で確定的なことは言えるわけもなく、あくまで推測を多く含む。だが、大規模言語モデルの流暢性の秘密がアナロジー構造にあるのでは?と気づかせてくれたWIREDの記事には感謝しかない。

ただし、この記事を最後まで読むと、ホフスタッターがこのAIの成果をあまり喜んでいないことが分かる。創造性の秘密が明らかになったことで失望してるとさえあり、そこで記事は終わっている。悲しい終わり方であるが、私自身はこの失望を共有していない。なぜなら、人間の創造性がAIによって解明され尽くした…とはあまり思ってないからだ。

コネクショニズム的な二つの意味論を位置づける

当初この記事のテーマを書く上で、言語哲学や心の哲学における意味論と結びつけて解説したいという計画を立てていた。これも過大な計画であることにだんだん気づき、このままではいつまで経っても記事を書けないことが分かり始めた。しょうがないので見切り発車でこの記事を書いてるが、少しだけ初心を貫いてみたい。

これまで見てきたように、コネクショニズム的な意味論は大きく二つに分けることができる。それはチャーチランドな意味論ホフスタッター的な意味論だ。

色んな意味論を地図の中に置いてみる

ChatGPTが出てきた当時に、その大規模言語モデルを解説する上でよく比較として出されたのは推論主義だ。哲学者ブランダムによって有名になった推論主義だが、その特徴は言語の中で閉じた意味論なことだ。(真理条件意味論と違って)確かに言語に閉じた点では大規模言語モデルと推論主義は似ている。しかし、推論主義が論理性を前提にしてるのに対して、大規模言語モデルはその前提がない(だから大規模言語モデルは論理的な推論はあまり得意ではない)。当時からChatGPTの話題に推論主義を引き合いに出す論文を読んでて、言われてる程には似てないのでは?と思っていた2

推論主義は、真理条件意味論に対しては概念役割意味論や証明論的意味論と同種に分類される。あくまで外界を参照して意味を定めるような真理条件意味論とは異なり、概念役割意味論は語同士の関係(または証明のような連なり) によって意味が定まる。

ここでは言語哲学的な意味論を真理条件意味論と概念役割意味論の二つに大きく分けてみよう。こう考えると、感覚と結びついたチャーチランド的な意味論は真理条件意味論と、言語の中で閉じたホフスタッター的な意味論は概念役割意味論と同じ側にある。 とはいえ、論理を基盤にした(言語哲学で主流の)意味論と人工神経網を基盤にした意味論とで特徴は異なる。大規模言語モデルの欠点の一つに構成性(又は合成性) があまりないことが挙げられるが、それも論理を前提にしてないのが原因であろう。

意味論 論理 人工神経網
外界 真理条件意味論 チャーチランド型
言語内 概念役割意味論 ホフスタッター型

意味論を二つの軸で分類することができる。一つ目はもちろん論理に基づくか?人工神経網によるか?の軸だ。もう一つの軸は、外界(感覚)を参照するか?言語の中で閉じてるか?だ。現在の生成AIは二つ目の軸を無理矢理に一つに混ぜているが、部分的には成功してなくもないけれど、そんな簡単には混じり合ってないと感じる。

ホフスタッターの失望を共有しない

ここでやっとWIREDの記事の終わりでのホフスタッターの失意にたどり着く。ホフスタッターは今のAIの到達によって人の創造性の秘密が損なわれたと感じてるようだ。しかし、それはホフスタッターのアナロジー論が言語の中で閉じたものだからであり、実際のアナロジーは外界に開かれたもののはずだ。

例えば良く出る例として、ベンゼン環の発見は夢の中に出たウロボロス(尾を噛む蛇)にあるとされるが、こんなのは元々の言語の中にあるアナロジーにはなかったはずだ。新しいアナロジーを生み出す力は今のところ人間にしかないように見える。

こうしたアナロジーを生み出す力は、二つ目の軸である感覚に基づく軸と言語に閉じた軸の組み合わせにあるが、これらはあくまで異なる構造を持つので安易にはくっつけられない。この問題がそんな簡単には解決するとは私は思っていない。

私は今の世の中にある人工知能に対する過大評価や安易な楽観が大嫌いだ。そういう人達はたいてい認知科学への知識や興味も薄いので、話も薄っぺらい。その中でWIREDの記事は素晴らしいが、あのホフスタッターが失望してるのには驚いた。

しかし、既に説明した理由で私はホフスタッターの失望を共有していない。大規模言語モデルはアナロジー構造を持ってるかもしれないが、それはまだ外界(感覚)には開かれてはいない。私が本当に懸念してるのはホフスタッターとは異なる方向だ。

おまけで、今どきのAI論に少しだけ愚痴を言う

むしろ心配してるのは、人がAIに対する優位性を自ら手放してしまうことだ。もし人がAIのようになってしまうなら、そもそもの人間自体がいらないと結論づけられる。AIを過大評価してる人は、自らの価値をも下げてる(AIが凄くてもお前が偉い訳ではない)のに気づいてない点でただの馬鹿だと思ってる(なら優秀なAIの代わりにお前がいらない)。

ただし、AIへの過大評価と同じぐらい過小評価も間違っている。その点では今、もっとも聞くに値するAI論はSF作家のドクトロウによるものである。彼の逆ケンタウロス論の要約は以下のリンクから読めるのでお勧めだ。

とはいえ、人工知能に対する大騒ぎは今回が始めてではないのを知っているので、そこまで気に病んではいない。必要なのはきちんとした議論をすることであり、かつ正しい知識や事実に基づいて論じられるべきだ。

なのに、SNSを見てると思い込みが激しくて他人の話を全く聞いてない書き込みばっかりでウンザリしてくる。そんなのSNSの特殊な事情だろ!と思えたら良いのだが、(マスメディアを含む)他のメディアを見てると、最近はそう思えなくなってきた3


  1. 今のAIの主流であるニューラルネットワークが認知モデルに相応しいか?は議論すると大変なので省略する。例えば大規模言語モデルは基本的に多言語対応だが、もちろん人間は母国語を持っておりバイリンガルでさえ少ない。大規模言語モデルが多言語が可能なのは、内部で自動的に各言語(プログラミング言語や数学を含む)毎に大雑把にまとまりができるからだと思うが、そんなの人間の脳にあるわけない(そもそもその能力がない。そんな能力があるなら、皆すらすら翻訳や通訳ができてるはずだ)。
  2. 他にも、大規模言語モデルと推論主義の共通点として用法の重視も挙げられるが、私には用法という言葉の意味が曖昧模糊としていて分かりにくい(特に語用論的な要素の扱いが怪しい)ので、ここでは取り上げない。似た問題としては、文脈という言葉もAIにおいてと会話においてとで意味合いに違いがあるのに雑に使われているのを見るのがすごく嫌だ。AIでの文脈は文字通りに文(周りの文字)しか見てないが、会話における文脈は環境や社会まで含んだ広いものにもなっている。もちろん現存のAIがそんな広い文脈まで分かってるはずがない。
  3. 私は今でもラジオはよく聴いてるが、正直なところラジオ番組は全般的につまらなくなってる。ポッドキャストの方がまだ面白いものがあるが、聞いてたポッドキャストが次々と終わる経験もしてるので楽観はしてない。ネット上の情報の質も前より下がってると感じる(生成AIの影響もあるのかもしれないがよく分からない)。質の低下はオールドメディアかネットメディアかに関わらず感じる。価値のあるものが欲しいなら金を払え!ということかもしれない(私的なものならそれでいい)が、公共性の高いものまでそうなってしまったらおしまいだ。

書評 ゾーイ・シュランガー「記憶するチューリップ、譲り合うヒマワリ」

記憶するチューリップ、譲りあうヒマワリ: 植物行動学

近年の植物学の界隈で話題の植物の知性についての研究を、様々な研究者へのインタビューを交えて紹介した科学ノンフィクション。

現在、植物の知性については激しい論争がある。著者はジャーナリストとして第三者的な視点から立場から幅広い立場の研究者から話を聞いてこの本をまとめている。研究そのものだけでなく、研究者自身の見解も紹介されていて、そこが興味深い。論争を呼ぶ植物の知性というテーマに対して、内容的にバランスをとって書かれている。このテーマに興味を持ったならまずこの本から読めばいい。

原題は「軽い食者 どのように植物の知性の知られざる世界が地上の生命への新しい理解を示しているのか」だが、副題が内容をそのまま表している。植物の心の研究が話題なのは噂で知っていたが、まだ直接にはそのテーマの本を読んでなかった。そこでたまたまこの本を手に取ったが、それは正解だった。(過去のベストセラー「植物の神秘生活」以来のせいか)植物の知性は論争を呼ぶテーマなので心配してたが、この著作はそれについて異なる立場の学者から話を聞いており、内容も中立たろうとしている。

ある林で木が毛虫に葉を食われた時に、あわや周りの全ての木も毛虫にやられてしまう事態となった。それがなぜかしばらくすると毛虫が死に始めた。調べてみると、まだ毛虫の到達してない木が葉に毛虫に毒となる成分を作っていた。どうも空中を漂う化学物質によって、 毛虫にやられた木が他の木に毛虫の到来を知らしたらしいと結論づけられた。植物がコミュニケーションをとっている??

これは序の口であり、他にも植物の賢さを示唆する色んな研究成果とその研究者が紹介されている。その中には、草が水音を聞いてそちらに根を伸ばしているとか、周りの木を見てそれらに似た姿に見た目を変える擬態を行なう木とか、植物が感覚してるという過激な見解の学者もいる。とはいえ、この点では学者の間でも見解は分かれている。

とはいえ、植物が感覚してるというのは極端な解釈である。その元となる研究はきちんとした実験や観察に基づくものであり、再現性を問うことができる。植物に感覚があるか?は別にしても、植物に知性があるかのような研究成果が次々と現れているのは事実だ。

この著作の良いところは、研究成果の紹介だけでなく、それに対する研究者の様々な見解をできる限りそのままに紹介してるところだ。著者は元々は環境ジャーナリストだが、最新の研究成果を読むうちに関心が深まり、植物の知性を研究する様々な学者の元を訪れることになる。結果として著者が第三者のジャーナリストであることが利点となっている(学者が著者の場合はそうもいかないだろう)。

この本は全体的に良くできてると思うが、著者がジャーナリストであることの欠点が少しだが見え隠れしなくもない。例えば、第九章の適者生存の説明を見ると、自己の利益は考慮されないのが適者生存に反してるかのように書いた後に、適者生存とは遺伝子淘汰だと書かれていて、著者自身の説明には進化論の理解に揺れがある。現代進化論では、遺伝子の利益のためであり自己の利益は関係ない(逆にこの本にある科学者の言葉にはこのタイプの勘違いはないので、その点では信頼できる)。

それとも関連するかもしれないが、著者自身はジェーン・ベネットやエマヌエーレ・コッチャの名を出しており、現代思想系の自然哲学が好きな匂いがする。対して、話を聞いた科学者から出てくる名はシェルドレイクやベルタランフィ(あえて言うとカウンターカルチャー時代の新科学)が出てきて、影響を受けた思想家の違いが垣間見られるのも面白い。

植物の知性について分かりやすく書かれていて、少しでも興味があるならお勧めだ。出てくる科学者の立場も幅広くバランスよく紹介してくれるされている。もっと深い話を知りたいなら、これを出発点にして他の本に進めばいい。


本書に出てくる科学者の言葉から

植物の知性とは何か?

まずはじめに、植物の知性といったときの知性とは何を意味しているのか?を示した、代表的な研究者の言葉を聞こう(ページ数は全てゾーイ・シュランガー「記憶するチューリップ、譲り合うヒマワリ」)。

アンソニーはこう言う。「あらゆるものは知性を持つ。でも見ることができないではないか、と言う人々は、学問的な意味での知性について話している。彼らはIQや人間の知性がそれなのだという前提に立っている。彼らは長いあいだそう考えてきた。あの学問的な知性は、生き残りには関係ない。わたしが話しているのは、学問的な知性のことじゃない。生物の知性だ。それでも、わたしが何度言ってもまるで広まらない。 おかしなことだ。 植物だけのものでもない。地球上のすべての生物が知的に行動している。シマウマがライオンから逃げるのは、知的なふるまいだろうか? もちろんそうだ。 そうやって生き残っているんだから。シマウマは難なく状況を見て取る。 では、昆虫が葉をかじり、植物が昆虫を遠ざけるために自然の殺虫剤を合成するというのは知的だろうか? やはり同じことだ。植物は脅威から走って逃げはしないが、生き残る手段をとっている。それなのに、多くの人はこのふたつをつなげて考えることはないんだ」 p.287より

アンソニー・トレワヴァスは昔から植物の知性を調べている古参の研究者だ。学問的な知性という言い方は分かりにくいが、これはお勉強の知性と訳す方がいいかもしれない。生物の知性とは、テストで測れる知性というより普段の振る舞いの中にある知性のことである。

植物に意識がある?

そうした植物の知性については、研究者の間でも幅広い見解がある。まずは極端な見解から聞いていこう。

このとき、バルスカは植物学者のあいだで有名だった。あるいは見かたによっては、悪名高かった。植物神経生物学協会の創設メンバーであったことや、植物に麻酔をかけることは可能だと発見した実験によって。もし植物が意識を失えるというなら、植物には意識があるのではないか? 「意識は、最初の細胞とともに始まったきわめて基礎的な現象だとわたしは考える」と、バルスカは確信を持って言う。それに、意識とはつまり状況に対処し、自分の世話をする能力ではないか。「あなたに意識がなかったら、環境を意識することもなく、行動もできない。あなたは終わりだ。もし誰かが世話をしてくれたら生きることはできるが、ひとりでは生き残れない」。麻酔をかけられた植物は無意識になるが、その変化こそ核心なのだ、と彼は言う。
ではまたしても、誰にそれがわかるのかが問題になる。バルスカは自分の脇の何もない空間を指し示した。「あなたは自分の友人についてさえ、意識があると確実に言うことはできない。それを証明する方法はなく、推測の域を出ない。唯一、証拠の代わりになるのが麻酔だ。他人に意識があることをたしかに証明する方法はそれしかない」。わたしは一応、友人に麻酔をかけるところを想像してみた。
p.196より

これは植物に意識があるのでは?という過激な見解だが、悪名高いとあるように広く受け入れられているとは言いがたい。対して、次はもっと穏健な見解を聞こう。

行為主体としての植物

こうした立場により、サルタンは誤解されるのを警戒するようになった。 最初は、わたしの取材を拒否した。 「植物の知性」論者たちとひと括りにされるのなら、この本で取りあげられることを望まないと。 植物学に関するこうした種類のジャーナリズムはこれまでのところ、微妙な意味合いを読み取ることも、人間の固定概念を超えた思考もあまり示していない。また彼女にとって、学問の世界での死活問題だった。わたしがこれまでに話を聞いた多くの植物学者と同じく、アメリカ国立科学財団の助成金を二〇年ぶりに狙うようなつもりはなくても、学術雑誌の読者との闘いは続いている。この分野では論争が「激化している」と彼女は言う。攻撃を受けているという感覚もある。 わたしは彼女に興味を抱いているのは微妙な意味合いであって、植物に脳があるとか、人間のように考える能力があると主張しているのでないことは理解していると伝えた。 行為主体性はこの場合、すべての生命により基礎的に備わっているもののことであり、それがわたしには魅力的なのだ、と。
p.260より

ここで行為主体性と訳されているのは、agencyの訳と思われる。agentといった場合、その振る舞いに注目してその内面には触れない意味合いが強い。その点では、植物に意識や感覚能力を認める学者とは見解が異なり、そんな奴らと一緒にしてほしくない!という含意も感じる。

植物も動物と同じように研究する

植物の振る舞いを見ることには、次のような見解がある。

アルバータ大学のJC・ケーヒルは、根が活発に食料を漁るという主張でよく知られている。「漁る」というのはあえて選ばれた言葉であり、意図的な、方向づけられたふるまいであることを示している。「ふるまい」もまた、彼が可能なかぎり使うのを好む用語だ。それは、仕事や評判を失う心配をせずにそれを使える「地位を確保している」ことも意味している。「動物行動学にはとてもよい理論があり」、植物学者は植物の生活に関する問いに答えるためにそれを参考にすべきだ、と彼は言う。植物もまた、動物に典型的に見られる行動原理の多くを持っているのだから。たとえば、ケーヒルは二〇一九年に山尾との共著の論文で、葉の葉脈を傷つけることで植物にストレスを与えると、食料を漁るさいに判断を誤ることを発見している。 栄養豊富な土壌へさらに根を伸ばすのではなく、栄養の少ない土壌と豊富な土壌へ均等に根を分配するのだ。 非効率的だし、植物らしくない。 しばらくして、おそらくいくぶん傷が治ってくると、その植物は感覚を取り戻すようで、ふたたび根を伸ばすうえで優位な決定を行うようになる。 「それは人間の心理学ともよく似ている」と彼は言う。たとえば空腹など、ストレスにさらされた人がよくない判断を下すことを示す証拠はたくさんある。
ここではケーニヒの妻は動物行動学者だということを指摘しておこう。コリーン・キャサディ・セントクレアは生物学教授で、クーガーやコヨーテ、 クマを研究している。 夫妻はいくつかの論文を共著で発表しており、また夕食の席でアイデアをいわば他家受粉させていることは想像にかたくない。「わたしはいま、植物や人間、人間以外の動物で、進化への誘因が異なるという見かたをやめる必要があると思っている。どれもその点は同じだ」とケーヒルは言う。「植物と人間が似ているというわけではない。ただどちらも、同じものの結果なんだ。自然選択はどの分類群かなど気にしない」
p.249より

これは植物行動学なるものの勧めのように見える。植物に動物や人の既存の研究分野を当てはめる試みは他の科学者にも見られる。

植物は心理学的に研究できる

人間の場合は、神経学的メカニズムではなく、行動からの推論によって心を研究することができるが、カーバンもやはり同じように行動パターンを探している。「わたしは心理学の数十年に及ぶ知見や方法が大好きで、植物に使えないかと思っているんだ。駄目な場合はあるが、それはしかたない」 だが、彼は心理学研究の分野で必ずうまくいきそうな方法をひとつ見つけた。ふるまいを研究するさい、ふたつの過程に分けて分析する方法だ。第一の過程では判断、つまり情報そのものの知覚が行われる。第二の過程は意思決定てあり、行動ごとのコストや利益を比較し、最善のものが選ばれる。これは植物にぴったりだ、と彼は言う。捕食者の脅威を比較し、それに対する行動を起こす―たとえば葉を苦くしたり、タバコの場合であれば、化学物質を使って害虫の捕食者を呼び寄せる―さいの個体による違いは、それぞれの性格を強く表している。脅威をどれほど過酷だと判断するか、どのような反応を選ぶかによって、植物個体の行動の幅についてたくさんのことがわかる。
p. 91より

進化が神経系を発展させたなら、それは植物にもあるのでは?

『植物と動物の進化をよりよく理解するための神経系の定義の拡張」と題する論文で、リナスと、サラマンカ大学の同僚セルヒオ・ミゲル・トメはおよそこう主張している。 神経系を動物のみが持ちうるものと定義し、ほかの生物にも異なる形態で現れうる生理的なシステムであると認めないことには意味がない、と。神経系を系統的に、つまり進化系統樹のある部分にのみ存在するものと定義することは、さまざまな生物が同じような困難に対処するためによく似たシステムを進化させる、収斂進化という強い力を無視している。 進化において、それはつねに起こっていることだ。古典的な例は翼だ。飛行の能力は鳥とコウモリ、昆虫でべつべつに進化し、よく似た結果を生みだしている。目もそのひとつだ。目のレンズは数度、べつべつに進化した。
神経系を収斂進化の一例とみなすのは合理的なことだ、とリナスとミゲル・トメは言う。自然に多様な神経系が存在するなら、植物が持っているものは明らかにそのひとつだ。アヒルのように歩き、アヒルのように鳴いているものがいたら、それはたぶんアヒルだろう。 では植物が持っているものを神経系と呼んでもいいのではないだろうか。
p.119より

植物は情報処理をしている

植物に対して行動学(エソロジー)、心理学、神経科学を当てはめる見解が出てきたとなれば、もちろん認知科学への当てはめもある(認知科学には動物行動学・心理学・神経科学とを学際的に結びつけられる地点にある)。

最近では、植物の行為主体性に関する理論を構築している。 ギルロイはわたしに向かってすぐに、厳密に植物学的な行為主体性であって、思考や感覚という意味での意図を表しているのではないと言い添えた。 わたしがうなずくと、彼はさらに言った。「植物は、動物の行動について想定されているのと同じ時間の枠組みで、情報処理に関して動物とかなりよく似たことをしている。彼らは周囲の世界について、とてもこみいった計算をしている。もし人間がそうした種類の情報処理をして、植物がしているようなアウトプットを行ったら、信じがたいほどすごいことだよ」。植物は自分がいる環境で生活を成り立たせている。それはギルロイにとって、植物の行為主体性の証だ。それでも、証明は機構への理解ではなく、推論によって行われている。「もしその計算を可能にする機構を本気で調べようとしても、ああ、それは脳のなかのニューロンで行われているんだ、と述べるような贅沢は許されない」とギルロイは言う。「問題は、情報の処理がどこで行われているかだ」。ギルロイの研究によって、ようやくそれは可視化されてきた。「だがいまのところは、どんなふうに動いているのかはわかっていない」。観察と理解はしばしば遠く離れたところから始まる場合があるのだ。
p.110より

擬人化と機械論の間に

本書には始めの方に、植物の知性の研究が軽視されるようになった原因として、過去のベストセラー「植物の神秘生活」を挙げている。現在の植物の知性研究は、その影響からどう逃れるか?の営みとも言える。

既に示したように、研究者の中には植物に感覚能力や意識を認めようとする学者といるが、お世辞にも広くは受け入れられていない。一方に「植物の神秘生活」から続く擬人化(極端になると神秘主義)があり、他方には厳密な科学を気取る機械論(または還元主義)がある。現在は(認知科学もこれまでやってきた)これらの中間領域を探る試みの最中とも言える1


  1. 現代思想系の自然哲学にも、生気論と決定論との間を探っているところはある。その点では本書の著者がそっちを好むのも分からなくもない。ただし実際は、現代自然哲学の人たちは最新の科学的な研究をそんなに参照してはいないので、本当に相性が良いのか?は謎でしかない(私自身は怪しんでいる)。

リベラルにありがちな二重過程説(無意識の偏見)への間違った理解

近年のジョセフ・ヒースのエッセイはどれも面白く、経済学101のサイトですぐに日本語で訳されるのでお薦めします。最近だと特にこれがお勧めだ。

正直、ヒースは主流経済学についてはちょっと真に受けすぎだと思う1が、認知科学進化心理学については知識がちゃんとしてるので、その点でもぜひ読んでほしい。彼に賛同するのであれ反対するのであれ、まずは彼の知識のレベルに達してから始めてほしいと思う。

リンクしたエッセイは彼の過去の著作「啓蒙思想2.0」を最近のポピュリズムと結びつけて論じていて、とても興味深い。詳しくは実際にエッセイを読んでほしいです。

このエッセイの良いところは二重過程説について正しく理解されているところだ。二重過程説は日本も含めて一般に知られつつあるが、この理解には偏りがあることが多い。特にリベラルのされる人たちの間で無意識的な偏見を通して知られているその理解にはかなりの問題がある。結果として、それが近年のリベラルぶりっこの駄目さの原因となっている。

リベラルぶりっこの二重過程説への間違った理解の話をする前に、一応確認しておきたい。たまに二重過程説は再現性の危機によって否定されたとする人がいる。残念ながらそれは正しくない。再現性問題によって否定されたのは二重過程説の中の個別の説であって、二重過程説そのものではない。二重過程説はそれまで別々にあった様々な科学的成果にあった共通性を集めて理論化したのであって、そんなに厳密な理論ではない。大枠としての二重過程説は否定し難く、その個々の説のすべてが否定されるなんてありそうにない。

もう一つややこしい話もしておくと、メルシエ&スペルベル「理性の謎」(未訳)で知られるようになったマイサイドバイアスによって、二重過程説はいらないという人もいる。もちろん、このエッセイを読めば分かるように、ヒース自身は今でも二重過程説を否定していない。マイサイドバイアスは理性を他者への正当化として捉えるのであり、バイアスの排除ではないとしている。しかし、二重過程説を、理性によってバイアス(偏見)を克服できる、と考えるのは次に説明するようにそもそも間違っている。

リベラルには無意識の偏見説を、意識によって偏見を乗り越えられると捉えている人は多い。これが間違っていることはエッセイでヒースが説明している。システム2(理性、意識)によってシステム1(無意識)の欠点を排除できるとするリベラルの誤った考え方は、リベラルの道徳主義的な正しさの押しつけにつながり、それに対する反動が起こってる最中である。これはリベラルの二重過程説へのおかしな理解から生じている。

ヒースの言うように、理性は無意識の失敗を補完するものであり、生活のすべてを理性や意識だけによっておくれるわけではない(ヒースは全てをストループ課題にしてると面白い言い方をしてる。ストループ課題はネットで調べてください[見れば分かる])。リベラルの理性主義や意識中心主義は頭のおかしい試みとしか言いようがない。

意識に訴えかけることでどんな差別もなくせる…というリベラルの考え方にはなんの根拠もない。ましてや、その訴えが男女の性別を否定するような常識に反するものなら、当然に受け入れられる訳がない。それでも受け入れられたいなら、ちゃんと議論して納得してもらうしかない。だが、残念ながら駄目なリベラルはそれさえやる気ない。駄目すぎて付ける薬がない。

日本も含めて、二重過程説を否定する人はたまにいるが、大抵その二重過程説への理解は間違っている。他方で、その間違った理解にはリベラルによる間違った考え方が反映されてる可能性も高い。二重過程説には理性や意識によって差別や偏見をなくせるという意味合いは含まれていない。

二重過程説を巡る現代の問題とは、本当は理性の問題というよりもナッジ(デザイン)の問題なのだが、それは別の機会に論じよう。


  1. 自分は経済学がそんなに科学的だとは思っていない。より正確に言うと、経済学が他の社会科学と比べて特に科学的だとは思えない。つまり、経済学も含めて社会科学の全体が科学としては問題含みだ。データを扱っているから科学的だろ!とするのは甘くて、データ分析にもその独自の前提があり、その前提が現実と合ってなければその分析には意味があまりない。例えば、経済学者は異業種間の移動(転職)が容易だと想定しがちだが、それは全く現実的ではない。AIのような技術によって職業に対する需要と供給は変化する。需要のない職業からある職業にすぐに転職できるなら失業はないかもしれないが、もちろんこの想定は現実的ではない(必要な能力はそんな簡単には身に付けられない)。