人の心の普遍性という原理を超える認知科学の方向性を考える

近年の心理学では、実験結果が再現されない再現性問題が論じられようになってすでに長い。再現性問題にはいくつかの原因があるが、その一つにWEIRD問題がある。WEIRDとは、西洋の,教育を受けた,工業化された,豊かな,民主主義社会の…の頭文字を取ったもので、心理学の研究対象(被験者)がそうした人たちに偏っているせいで、研究成果をWEIRDな人々以外に一般化できない問題である。これについては以前にここで記事を書いたので、詳しくはそれを見てください。

こうした問題を背景として、古典的な認知科学に潜む隠された前提を暴き、新しい枠組みを提示してこれからを展望する興味深い論文(プレプリントの草稿)を読んだ。その論文の内容を大雑把に私の解説付きで紹介してみたい。

Ivan Kroupin, Helen E. Davis and Joseph Henrich "Beyond Newton"
https://psyarxiv.com/a4qx3/

ヘンリックら「ニュートンを超えて」を読む

この論文の著者の一人のヘンリックは、もともとは文化進化の研究で有名な研究者であり、近年はWEIRD問題を提示したことでも知られている。この論文では、WEIRD問題が起こった背景には、古典的な認知科学が持っていた隠された前提があると指摘している。

私達はニュートン原理と呼ぶにふさわしい歴史的な傾向を提示する。つまり、認知科学に固有の主要な研究対象は心の普遍的な特性であるという原理だ。認知科学のこのような原理の元には、普遍性の強調や特定の領域に限定されない一般的な[心的]処理と安定的に発達する特徴を見つけ出す立証が伴っている。ということは、当然ながら文化的な変異は周辺に追いやられる、なぜなら変異は人の普遍的な特性にはなれないからだ。

Ivan Kroupin, Helen E. Davis and Joseph Henrich "Beyond Newton"preprint p.6より

ニュートンが世界の普遍的な法則を見つけ出したように、認知科学(特に心理学)も物理学と同じように普遍的な法則を見つけ出すべきだという隠された前提がある。これは(20世紀半ばの)認知科学の登場と深い関わりのある前提であり、これによって当時の心理学の主流であった行動主義に対抗して勃興していった(本当は行動主義との関連はもう少し複雑だがそれは省略)。

1990年代に入ると、相対主義的な構築主義に対抗する形で(モジュール論的な正統派)進化心理学が勃興してくるが、それは心の普遍性を探求する認知科学の試みを背景にして現れている(ただし、同時期に認知科学ではコネクショニズムの流行りがあり事情はもう少しややこしい。なので、心の普遍性を追求する場合は[論文中でも]古典的認知科学と呼んでいる)。

しかし、その心の普遍性を探る古典的な認知科学は、再現性問題やWEIRD問題に代表されるように、危機に晒されつつある。

認知科学の境界問題をどう解くか?

認知科学に固有な主要問題の境界には根底的な緊張がある。電子と違って、人間を同じ一つの対象であるとは言えない事実にそれは基づいている。つまりは、科学的な一般化が及ぶべき人間性の範囲がどれくらいか?を決める必要がある。

Ivan Kroupin, Helen E. Davis and Joseph Henrich "Beyond Newton"preprint p.14より

研究の対象となっている人々が、西洋の豊かな人たち(いわゆるWEIRD)に偏っているせいで、その成果を他の文化の人たちにそのまま適用することが困難になっている。そこには認知が現れる文化的な環境への注目が欠けていることが伴っており、実験成果を実験室外へと一般化して解釈することの難しさともつながっている。

古典的な認知科学が前提とする心の普遍性を求めるニュートン原理に問題があるとして、じゃあそれを単純に放棄すればいいのだろうか?それでは、進化心理学以前の(なんでもありな)相対主義的な構築主義に逆戻りするだけであり、なんの問題の解決にもなっていない。

結局のところ、ニュートン原理の楔を単に退けてしまうと、[認知科学の]境界問題への解答を失うことにしかならない[…略…]。言い換えると、単にニュートン原理を退けることは、長続きしないであろうニュートン原理への固執と比べても、よっぽど持続しそうにない。

Ivan Kroupin, Helen E. Davis and Joseph Henrich "Beyond Newton"preprint p.15より

法則の成り立つ境界はどこにあるのか?という疑問に対して、心の普遍性を前提とするニュートン原理はもっともシンプルな解答を与える。では、その原理には問題が生じたから単に放棄すればいいのか?それだと、今度は境界問題を無視することになり、(説明を放棄する)相対主義的な構築主義(論文中では解釈学的な手法と呼んでいる)に戻ることでしかなく、科学的な研究プログラムとしては後退としか言いようがない。

ニュートン原理に代わる枠組みを提示する

論文の著者たちは、こころの普遍性を前提とするニュートン原理に代わる別の新しい枠組みを提案している。その新しい枠組みは主に二つの要素から成り立っている。それは文化進化(Cultural evolution)と接合の原理(The principle of articulation)だ。

この論文の著者の一人のヘンリックは、文化進化の研究で有名なので、文化進化を持ち出すは理解できる。文化進化とは、人の振る舞いや信念のような文化が人から人へと伝えられては生き残っていく過程を指しており、生物学的な進化とのアナロジーで成り立っている。

ただし、著者たちは文化進化では境界問題への解答としては不十分だと感じており、著名な文化進化の研究者の割には論文中の説明はあっさりしている。むしろこの論文の肝は、次の接合の原理にある。

認知的特徴を局所的な環境と結びつける接合の原理

著者たちがニュートン原理に代わって本当に提示したいのは接合の原理(The principle of articulation)である、これこそが、文化進化だけでは解けない境界問題を解くとされている。では、接合の原理とは何か?

接合の原理(The principle of articulation)とは、認知科学に固有な主要問題は認知的特徴と(文化的)環境との間を結びつけることであるとすることだ。

Ivan Kroupin, Helen E. Davis and Joseph Henrich "Beyond Newton"preprint p.22より

articulationはjointと同じような意味らしいので結合の原理と訳してもいいが、ここでは勿体ぶってこう訳した。認知的特徴は系統発生と個体発生を通してその環境の中に現れる。進化的適応の環境(environment of evolutionary adaptedness;EEA)において現れる場合は、進化心理学の対象となる。対して、接合の環境(environment of articulation;EOA)はそれとは異なる。ヴィゴツキーは認知的特徴のローカルな環境との関係を強調したが、それとアイデアは似ている。

論文中では、普遍的な接合と局所的な接合に分けて説明されているが、私には正直なところ普遍的な接合と進化的適応との違いがあまり良く分からないので、ここはごまかします。どっちせよ、ここで重要なのは圧倒的に局所的な接合(Locally-articulated features)なので、こっちだけを扱います。

接合の原理を具体例で説明する

論文では具体的な例として流動性知性を出しているが、ここでは簡単に説明するためにフリン効果を挙げます。フリン効果とは、世代を経ると共に知能テストの点数が上がることだ。これは単純に教育の効果だと説明されることもあり、これだと教育によって知性が上がったと解釈できてしまう。というよりも、人々が学校的な環境にだんだんと適応していった結果として、テストを受けるという文化に馴染んでいったと考える方が自然だ。この場合、子供だけでなく家庭も学校文化に合うように変化していったと言える。テストの点数が単に普遍的に知性を表してると考えるとは、点数の低かった昔の子供は知性が低いとすることになるが、これは私には馬鹿らしい考え方(はっきりいうとただの偏見)でしかない。テストという文化に馴染むことと知性の問題は同じではない。

論文ではもっと早い段階で実行機能の例が出ているが、その説明は略されてて分かりにくいので、ここではマシュマロテストの例で説明します。マシュマロテストとは、子供が目の前に出されたマシュマロを指示通りに食べるのを我慢できるのか?調べる方法であり、これによって自己をコントロールする実行機能が測れるとされていた。しかし、最近ではマシュマロテストは家庭環境(貧富)によって影響されることが分かってきた。つまり、貧しい家庭環境では我慢せずに早く食べることが子供にとって適応的(食べれるうちに食べておくべき)なのだ。

他にも読み書き能力や数える能力の例もあるが、人類学的な事例を説明するのは私には重荷なのでここではやめておきます。どっちにせよ、人の認知的特徴をその人のいるローカルな環境との関係で見ることの重要性は示せたのではないかと思う。

これからの研究の方向性を展望する…そして反省会

最後に論文では、ニュートン原理を超えるため必要なこれからの研究の方向性を提示している。文化的環境を調べることで境界問題を解こう!とかWEIRDではない人々の認知発達を調べよう!とかWEIRDな人々の認知的特徴が局所的な環境どう結びついているのか?とか、総合すると文化的環境とは何か?を重視しよう!と主張している。

ちなみに、論文の途中に自由エネルギー原理やベイズ脳の話も出てきて、これらは接合の原理と両立はするがその方向への研究は進んでいないとしている。

最後に反省会

実は、この記事を書くためにここで挙げた論文を再読していたのだが、その時に論文の欠点に気づいて、あらためて記事を書くか?を迷ってしまった。

その欠点とは、文化進化と接合の原理がつながっていない疑惑だ。記事の中でマシュマロテストの例を出したが、これは論文を読んでいて思いついた説明だ。マシュマロテストによる説明だと、家庭環境への適応という接合の原理が成り立つが、これは受け継がれた文化と考えるのは無理がある(学校文化の場合は必ずしもそうでもない)。文化進化はそれ自体としては興味深いと思うが、文化進化を取り上げるのはこの論文の文脈に合っているのか?疑問に思ってしまった。

生物学的な進化の場合は、遺伝子淘汰と適応主義は(多少の例外はあったとしても)だいたい結びついている。淘汰の単位が遺伝子であることと適応してない個体はその遺伝子と共にいなくなる(死ぬ)ので、矛盾をあまり感じない。しかし、文化進化の場合は、淘汰の単位もいまいち分かりにくいし、適応してない個体がまるまるいなくなる訳でもない。つまり、文化進化の結果としての適応と接合の原理の結果として適応が必ずしも一致していな気がする。要するに、生物学的な進化と違って適応へと至る道すじが一つではない(人からの伝達か試行による学習か)。

とは言っても、構築主義進化心理学か?みたいな問題のある二項対立に戻る気は一切起きない。それに、接合の原理にはアイデアとしては魅力がある。とはいえ、具体的な研究の方向性が見えるとは言いがたい。色々と疑問はあれど、今年読んだ中ではもっとも面白い論文だったから十分に満足だ。

追記(9/20)

コメント欄への書き込みがうまくいかない(だからコメント欄のやり取りは基本しない)ので、id:katsuya_440 さんのコメントにここで答えます。

まず、記事では無視した普遍的な接合と進化的適応との違いに関わる場合は、私にはよく理解できません(原典を読んでくれ)。ただ、コメントを読んだ感じでは、ジーン(遺伝子)とミームの違いがついてない気もします。私は用語としてのミームは好きではない(学術的にもあまり使われない)ので使いませんが、そう説明すると分かりやすく気がします。ジーンによる適応とミームによる適応は別物です。これは文化進化の前提となる二重継承説でもあります。

あと、記事では触れませんでしたが、遺伝子と文化の共進化もありえます(よく出る例は乳糖分解遺伝子)。しかし、それは特殊な例であり、文化進化や接合の原理とはこれまた別物です。

遺伝子を介した適応(系統発生)と、伝達や学習を介した適応(個体発生)は、基本的に別の過程であり、重なることはあっても稀だと思います。

日本に増えた「頼まれもしないのに権力の犬」を考える

最近ある有名な批評家が、マイナンバー制度に反対する奴は左翼だ!的な発言をしていることに驚いた。マイナンバー制度に反対してる奴がみんな左翼だとなんで分かるのか?謎でしかない。お前は全ての反対者の属性が読める超能力者なの?と疑問しかない。

政府の政策に反対するのは左翼なのか?

しかし、政府の政策に反対する奴らは左翼だ!と言う(ネトウヨ的な)発言はネットでよく見かけるが、これは端的に間違っている。政権には政治的な右か左かに関わらずつけるので、政権への態度は政治的な左右の定義とは無関連だ。

政権とその反対者で政治的な左右が逆だからと言う人もいうるが、そもそも左翼政権を左が批判したり、右翼政権を右を叩いたりするのはありうる(そしてやってもいい)ことなので、やはりおかしい。そもそもの政治的な左右の理解が間違っていて、お話にならない。

謎左翼観はどこから広まったのか?

こうした謎左翼観はネットでよく見かける。自分は、こんなの馬鹿なネトウヨが無教養で言ってるだけだろ?程度に思っていたが、著名な批評家まで似た発言をしているのには驚いた。問題は私が思っていたより深刻なようだ。

なぜこのような謎左翼観が広まったのだろうか?正確なことは私には分からないし、それは誰かに調べてもらうしかない。ただ私に分かるのは、それが(ネットのサブカルチャーとも言える)反権力嫌いから来ていることだけだ。

反権力と反-反権力との不毛な戦い

おそらく正義感ぶりっ子の反権力野郎を嫌うことから、反-反権力が生まれてそこから謎左翼観が醸成されたのだろう。ただその反-反権力も、最近はすっかりただの「頼まれもしないのに権力の犬」と化してしまっている。

私は反-反権力そのものを否定するつもりはない。はっきり言って、反権力と反-反権力同士でちゃんと議論してもらえるならそれはそれはで悪くない。しかし、現実は互いに敵対してるだけでまともな議論など起こらない不毛な状態でしかない。

この問題にはまた後で触れるとして、その前に確認しておきたいことがある。

「頼まれもしないのに権力の犬」に意義はあるのか?

冒頭で挙げたある有名な批評家に呆れたのは、彼がマイナ制度を反対意見に反論なり直接に擁護してたならまだ救いようがあったのだが、どうもただ反対者を敵対視してたことには違和感しか感じなかった。正直、こういうのは近年よく見かける。

ある時期から反-反権力がただの「頼まれもしないのに権力の犬」になってしまって久しい。しかし、直接の利益もないのに下々が政権を擁護することに意義があるのだろうか?それは政治の仕組みを見ることではっきりする。

政治家は説明責任を果たすのが仕事だ

政治家にとって説明をすることは仕事の一部である(いわゆるアカウンタビリティ)。国民の側から出てきた政策の批判に対して、下々の側からの擁護が出てくるのは自由である。しかし、どんなに国民の中から政策の擁護が出てこようと、それはあくまでただの推測に過ぎない1。正規の説明は政治家がするしかないのだ。

政策への反対意見に対して答えるのは政治家の仕事であり、下々の勝手な擁護は参照意見でしかない。国民による政策や政権への反対は、政治家による説明につながる、政治の仕組みとして重要な要素である。しかし、国民からの政策の擁護は、国民の中での議論には寄与しえても、政治の仕組みとしてはあまり重要ではない。

政策や政権に納得してもらうための説明は(特に与党の)政治家の仕事であり、国民の中での擁護は参考程度しか役に立たない。むしろ、政策への反対意見は政策の問題点を見つけ出して、願わくばそれを修正可能な点で貴重である

政策に反対意見を言うのは、本当は野党やマスコミの役割でもある。今や日本ではそれはあまり期待できなくなったのだから、反対意見を言う国民の重要性はますます上がっている。

反権力と反-反権力に共通の問題点

さて、それでは反権力には全て意義があるのだろうか?反権力の中には反権力が自己目的化した自己満足なものもあるのも事実であり、その点では反-反権力の側の反発も理解できなくもない。しかし、反-反権力もそれ自体が自己目的化してることが多く、同じ穴の狢でしかない。

反権力であれ反-反権力であれ、議論に寄与する限りで意義がある。しかし、困ったことに日本には不毛な敵対視が多い。その理由のひとつは、冒頭で挙げた例のように、発言の内容に反応するのではなく、発言者の属性に反応することが多いのが大きな原因である。

発言内容への批判と発言主体への批判(非難)は分けろ!

ネトウヨの決まり文句に「アベガ〜」がある。これは何でもかんでも安倍批判にするな!という皮肉である。それを言うなら、ネトウヨ側はなんでもすぐに「サヨクガ〜」と言ってるから、結局は同じ穴の狢でしかない。

「アベガ〜」も「サヨクガ〜」も、問題は(発言や政策の)内容ではなく、(発言者や政治家)の人格や属性を主に挙げてる点では、議論の発展にはなんの役にも立たないのは同じだ。

要するに問題は、反権力か反-反権力か?ではなくて、内容に注目して議論をできているか?である。日本はすぐに主体や属性をあげつらう傾向が強く、相手を敵対視することが自己目的化してることが多いのは残念でしかない。

スノビズム大国な日本は健在だ

昔(ヘーゲル学者の)コジェーブが日本の特徴をスノビズムだとしたことがある。

ヘーゲルにとって否定性は歴史を動かす力だが、(民主主義が勝利して)歴史が終わった後にはどうなるのだろうか?それに対して、否定性がなくなった動物的な生と否定性が形式化されたスノビズムをコジェーブは挙げている。コジェーブの期待した歴史の終わりは来なかったが、(軽い気持ちでしただけの)日本への指摘はそれほど的を外してない。

他人を否定することが自己目的化した日本の言論状態は、私にはスノビズムにしか見えない。その点では、反権力も反-反権力も違いがないように見える。そして、人が承認を求める動物である限り、その闘争は終わることはないだろう。2


  1. もしかしたら、俺は政治家から直接話を聞いた…という人が出てくるかもしれないが、なんでそれをこちらが信用できるのか?教えてほしい。政治家は正式な場で自ら説明するべきだ
  2. 本文では全体的にネトウヨの悪口が多めなので、駄目なリベラル(クソリベ)の悪口も書こうとしたが、既に記事が長いのでここでアイデアだけ書く。リベラルぶりっ子の駄目なところは、自分のお気に入りの弱者の味方ごっこが自己目的化してることである。お気に入りの弱者が細分化したままでバラバラなので、力が分散して現実に与える影響がほぼない。お気に入りの弱者に反対するとされる人たちを勝手に敵対視するので味方は一定以上には増えない。フェミニズムなら、男も味方にできるようにやり方を工夫すればいいのに、それをやる気がある人が少ない(男vs女のアイデンティティ政治!)。同性婚も、それを結婚制度とは別にするのは差別だ!と騒ぐ奴らはかえって邪魔(困ってる人にとってはそれ以前の問題)。なら、むしろ結婚制度は男女差別の源だから、相手の性別に関わらず家族が作れる一般化されたパートナーシップ制の方がまだいい(無理そうだが)。LGBT問題についても、LGB問題とT問題を分けられない人はお話にならない。例えばトイレ問題で騒いでるのは日本ぐらい。こんなの表面的に問題を起こさなそうな方に勝手に入ればいいだけだ。女装した変態男が女子トイレに入るから!と言う奴らには、そもそもトランスの人がこの世に全くいなくても変態男が女子トイレには入りうるのだから、それはトランス問題とは無関係だ!で終わり(トイレ問題で騒ぐ奴らがただの馬鹿)。トランス問題は賛成反対の両側に真っ当な議論ができない人だらけなので、不毛感が漂う。全般的に言えるのは、リベラルぶりっ子は(弱者の味方ごっこに伴う)敵対視が自己目的化してるのでいつまで経っても影響力が持てない。こうして力が分散した結果として、元から権力を持っている既存勢力が好き勝手をできるようになるだけだ。リベラル勢力は、もっとリアリズム(力の論理)を学んで戦略的に振る舞わない限り何も変わらない。

ChatGPTをめぐる議論を少し考えてみた

最近ChatGPTが大きな話題だが、私もその成果は驚きを持って見ている。ただその一方で、ツイッターを見ていると、ただのユーザーの感想でしかないことが大層な意見みたいに言われているのを見るのにはウンザリしている。私もChatGPTについてそこまで詳しく訳ではないので大したことは言えないが、自分に言える範囲のことは言っておいた方が良い気がしてきた。

ChatGPTを大雑把に説明する

まずChatGPTについて説明する。

このブログでは以前に、GPTのことを語同士の高度な連想ゲームだと形容した覚えがあるが、これは次の言葉を予測する学習機械だとする一般的な説明と同じだ。別の説明をすれば、GPTとは文法と意味を含みこんだ巨大な辞書であり、この辞書だけから文をいくらでも生成できる。

ただし、この辞書から生成される文章にはそのままでは(学習データを反映した)差別やバイアスが含まれている。なので、強化学習という手法を使って、出して良い文章の方向づけをする。強化学習は教師つき学習と比べると違いが分かりやすい。教師つきは答えを知っている教師が採点をする(教育)のに対して、強化学習は結果の良し悪しだけを伝えるが、これは子供や犬のしつけに近い。つまり、GPTという辞書を持った者をしつけたのがChatGPTなのだ。

ChatGPTは意味が分からないのか?

ChatGPTに対する見解として、意味を理解していないというのを見たことがある。残念ながら、これはそのままで正しいとは言いがたい、なぜなら、GPTとは語同士の関連性を表した辞書なのだが、これは意味のネットワーク説から見た意味なら持っていると言えるからだ。

意味のネットワーク説とは、例えばトマトという言葉が、赤いだの野菜だのサラダだのといった他の言葉と結びついているのであり、それこそが意味だとする考え方だ。だとしたら、GPTとは語同士の関連性を表す辞書(モデル)なのであり、意味のネットワークを含みこんでいると言える。

要するに、ChatGPTが意味を分かっていないと言えるためには、意味のネットワーク説そのものを問題にしないといけない。もちろん、言葉の意味には他の理論もありうるが、少なくともChatGPTが意味を分からないとするのは言い過ぎ(もっと議論が必要)だ。

ChatGPTの出現で生成文法はいらなくなった?

ChatGPTを見て、生成文法はいらないとする意見は何度か見た。これについても、そもそもChatGPTと生成文法は目的が違うから、比較そのものが不毛ではある。これも前に指摘したが GPTは大量の文章データを学習しているが、これは生成文法が前提とする刺激の貧困問題(プラトン問題)を満たしていない。生成文法は現実の人の言語活動を説明するのが目的なので、前提が異なるChatGPTと直接比較しても仕方ない。

そもそも、ニューラルネットワークによる生成文法への批判は、20世紀末に既に起こっていた(が途絶えた)論争であり、今回はその再燃としての側面もある(ただし今のところは専門外も含めた素人の話ばかりが目立ちがち)。生成文法が前提とするモジュール説とそれに反対するコネクショニズムの当時の論争については、以下の文献を参照してください。

中井悟「言語の生得性とモジュール性 」

ChatGPTには知性はあるのか?ないのか?

ChatGPTに対して知性がある!だのない!だのの論争はよく見る。そうした知性の論争を解消するために生み出されたのがチューリングテストである。しかし、近年はチューリングテストに対しては懐疑的な意見が多くなり、他に様々な知性を判断する方法が考え出されている。

ChatGPTは知性あるぜ?側の罠

今回のChatGPT騒ぎを見てても、チャットボットの源となったワイゼンバウムのエライザにおける教訓が生かされてない状態も未だにあって、体の力が抜けてくる。チューリングテストにおける機械側の出力に対しては、人間側の感情移入によって過剰判断が起こりやすいのは知られている。つまり、見た目だけでスゲー知性ある!と騒ぐのではなく、冷静な議論が必要である。

ChatGPTは知性ないぜ!側の罠

ChatGPTに安易に知性を見る意見もよく見たが、ChatGPTに知性はないとする意見も見た。これも残念ながら、簡単には同意できない。

所詮はプログラムでしかない人工知能に知能はない論は、サールの中国語の部屋の議論と同じである。中国語の部屋とは、部屋の中にいる人が中国語を理解できなくとも、与えられたルールに従って答えるだけでも会話が成立するという話だ。これは元々は古典的計算主義への批判として考え出されたが、部屋の中の人の人数を増やせばニューラルネットワークへの批判にもなりうる。

これについては、デネットによるパーソナルレベルとサブパーソナルレベルの区別による批判がある。つまり部屋全体が理解してるという話と部屋の中のユニットが理解してるという話は全く別であり、中の個々のユニットが理解してないことは、部屋(システム)全体が理解していないことを含意しない。結局は、知性ある派も知性ない派も感情移入の能力(感情移入できる?できない?)を逃れられていないことは多い。