近年の植物学の界隈で話題の植物の知性についての研究を、様々な研究者へのインタビューを交えて紹介した科学ノンフィクション。
現在、植物の知性については激しい論争がある。著者はジャーナリストとして第三者的な視点から立場から幅広い立場の研究者から話を聞いてこの本をまとめている。研究そのものだけでなく、研究者自身の見解も紹介されていて、そこが興味深い。論争を呼ぶ植物の知性というテーマに対して、内容的にバランスをとって書かれている。このテーマに興味を持ったならまずこの本から読めばいい。
原題は「軽い食者 どのように植物の知性の知られざる世界が地上の生命への新しい理解を示しているのか」だが、副題が内容をそのまま表している。植物の心の研究が話題なのは噂で知っていたが、まだ直接にはそのテーマの本を読んでなかった。そこでたまたまこの本を手に取ったが、それは正解だった。(過去のベストセラー「植物の神秘生活」以来のせいか)植物の知性は論争を呼ぶテーマなので心配してたが、この著作はそれについて異なる立場の学者から話を聞いており、内容も中立たろうとしている。
ある林で木が毛虫に葉を食われた時に、あわや周りの全ての木も毛虫にやられてしまう事態となった。それがなぜかしばらくすると毛虫が死に始めた。調べてみると、まだ毛虫の到達してない木が葉に毛虫に毒となる成分を作っていた。どうも空中を漂う化学物質によって、 毛虫にやられた木が他の木に毛虫の到来を知らしたらしいと結論づけられた。植物がコミュニケーションをとっている??
これは序の口であり、他にも植物の賢さを示唆する色んな研究成果とその研究者が紹介されている。その中には、草が水音を聞いてそちらに根を伸ばしているとか、周りの木を見てそれらに似た姿に見た目を変える擬態を行なう木とか、植物が感覚してるという過激な見解の学者もいる。とはいえ、この点では学者の間でも見解は分かれている。
とはいえ、植物が感覚してるというのは極端な解釈である。その元となる研究はきちんとした実験や観察に基づくものであり、再現性を問うことができる。植物に感覚があるか?は別にしても、植物に知性があるかのような研究成果が次々と現れているのは事実だ。
この著作の良いところは、研究成果の紹介だけでなく、それに対する研究者の様々な見解をできる限りそのままに紹介してるところだ。著者は元々は環境ジャーナリストだが、最新の研究成果を読むうちに関心が深まり、植物の知性を研究する様々な学者の元を訪れることになる。結果として著者が第三者のジャーナリストであることが利点となっている(学者が著者の場合はそうもいかないだろう)。
この本は全体的に良くできてると思うが、著者がジャーナリストであることの欠点が少しだが見え隠れしなくもない。例えば、第九章の適者生存の説明を見ると、自己の利益は考慮されないのが適者生存に反してるかのように書いた後に、適者生存とは遺伝子淘汰だと書かれていて、著者自身の説明には進化論の理解に揺れがある。現代進化論では、遺伝子の利益のためであり自己の利益は関係ない(逆にこの本にある科学者の言葉にはこのタイプの勘違いはないので、その点では信頼できる)。
それとも関連するかもしれないが、著者自身はジェーン・ベネットやエマヌエーレ・コッチャの名を出しており、現代思想系の自然哲学が好きな匂いがする。対して、話を聞いた科学者から出てくる名はシェルドレイクやベルタランフィ(あえて言うとカウンターカルチャー時代の新科学)が出てきて、影響を受けた思想家の違いが垣間見られるのも面白い。
植物の知性について分かりやすく書かれていて、少しでも興味があるならお勧めだ。出てくる科学者の立場も幅広くバランスよく紹介してくれるされている。もっと深い話を知りたいなら、これを出発点にして他の本に進めばいい。
本書に出てくる科学者の言葉から
植物の知性とは何か?
まずはじめに、植物の知性といったときの知性とは何を意味しているのか?を示した、代表的な研究者の言葉を聞こう(ページ数は全てゾーイ・シュランガー「記憶するチューリップ、譲り合うヒマワリ」)。
アンソニーはこう言う。「あらゆるものは知性を持つ。でも見ることができないではないか、と言う人々は、学問的な意味での知性について話している。彼らはIQや人間の知性がそれなのだという前提に立っている。彼らは長いあいだそう考えてきた。あの学問的な知性は、生き残りには関係ない。わたしが話しているのは、学問的な知性のことじゃない。生物の知性だ。それでも、わたしが何度言ってもまるで広まらない。 おかしなことだ。 植物だけのものでもない。地球上のすべての生物が知的に行動している。シマウマがライオンから逃げるのは、知的なふるまいだろうか? もちろんそうだ。 そうやって生き残っているんだから。シマウマは難なく状況を見て取る。 では、昆虫が葉をかじり、植物が昆虫を遠ざけるために自然の殺虫剤を合成するというのは知的だろうか? やはり同じことだ。植物は脅威から走って逃げはしないが、生き残る手段をとっている。それなのに、多くの人はこのふたつをつなげて考えることはないんだ」 p.287より
アンソニー・トレワヴァスは昔から植物の知性を調べている古参の研究者だ。学問的な知性という言い方は分かりにくいが、これはお勉強の知性と訳す方がいいかもしれない。生物の知性とは、テストで測れる知性というより普段の振る舞いの中にある知性のことである。
植物に意識がある?
そうした植物の知性については、研究者の間でも幅広い見解がある。まずは極端な見解から聞いていこう。
このとき、バルスカは植物学者のあいだで有名だった。あるいは見かたによっては、悪名高かった。植物神経生物学協会の創設メンバーであったことや、植物に麻酔をかけることは可能だと発見した実験によって。もし植物が意識を失えるというなら、植物には意識があるのではないか? 「意識は、最初の細胞とともに始まったきわめて基礎的な現象だとわたしは考える」と、バルスカは確信を持って言う。それに、意識とはつまり状況に対処し、自分の世話をする能力ではないか。「あなたに意識がなかったら、環境を意識することもなく、行動もできない。あなたは終わりだ。もし誰かが世話をしてくれたら生きることはできるが、ひとりでは生き残れない」。麻酔をかけられた植物は無意識になるが、その変化こそ核心なのだ、と彼は言う。
ではまたしても、誰にそれがわかるのかが問題になる。バルスカは自分の脇の何もない空間を指し示した。「あなたは自分の友人についてさえ、意識があると確実に言うことはできない。それを証明する方法はなく、推測の域を出ない。唯一、証拠の代わりになるのが麻酔だ。他人に意識があることをたしかに証明する方法はそれしかない」。わたしは一応、友人に麻酔をかけるところを想像してみた。
p.196より
これは植物に意識があるのでは?という過激な見解だが、悪名高いとあるように広く受け入れられているとは言いがたい。対して、次はもっと穏健な見解を聞こう。
行為主体としての植物
こうした立場により、サルタンは誤解されるのを警戒するようになった。 最初は、わたしの取材を拒否した。 「植物の知性」論者たちとひと括りにされるのなら、この本で取りあげられることを望まないと。 植物学に関するこうした種類のジャーナリズムはこれまでのところ、微妙な意味合いを読み取ることも、人間の固定概念を超えた思考もあまり示していない。また彼女にとって、学問の世界での死活問題だった。わたしがこれまでに話を聞いた多くの植物学者と同じく、アメリカ国立科学財団の助成金を二〇年ぶりに狙うようなつもりはなくても、学術雑誌の読者との闘いは続いている。この分野では論争が「激化している」と彼女は言う。攻撃を受けているという感覚もある。 わたしは彼女に興味を抱いているのは微妙な意味合いであって、植物に脳があるとか、人間のように考える能力があると主張しているのでないことは理解していると伝えた。 行為主体性はこの場合、すべての生命により基礎的に備わっているもののことであり、それがわたしには魅力的なのだ、と。
p.260より
ここで行為主体性と訳されているのは、agencyの訳と思われる。agentといった場合、その振る舞いに注目してその内面には触れない意味合いが強い。その点では、植物に意識や感覚能力を認める学者とは見解が異なり、そんな奴らと一緒にしてほしくない!という含意も感じる。
植物も動物と同じように研究する
植物の振る舞いを見ることには、次のような見解がある。
アルバータ大学のJC・ケーヒルは、根が活発に食料を漁るという主張でよく知られている。「漁る」というのはあえて選ばれた言葉であり、意図的な、方向づけられたふるまいであることを示している。「ふるまい」もまた、彼が可能なかぎり使うのを好む用語だ。それは、仕事や評判を失う心配をせずにそれを使える「地位を確保している」ことも意味している。「動物行動学にはとてもよい理論があり」、植物学者は植物の生活に関する問いに答えるためにそれを参考にすべきだ、と彼は言う。植物もまた、動物に典型的に見られる行動原理の多くを持っているのだから。たとえば、ケーヒルは二〇一九年に山尾との共著の論文で、葉の葉脈を傷つけることで植物にストレスを与えると、食料を漁るさいに判断を誤ることを発見している。 栄養豊富な土壌へさらに根を伸ばすのではなく、栄養の少ない土壌と豊富な土壌へ均等に根を分配するのだ。 非効率的だし、植物らしくない。 しばらくして、おそらくいくぶん傷が治ってくると、その植物は感覚を取り戻すようで、ふたたび根を伸ばすうえで優位な決定を行うようになる。 「それは人間の心理学ともよく似ている」と彼は言う。たとえば空腹など、ストレスにさらされた人がよくない判断を下すことを示す証拠はたくさんある。
ここではケーニヒの妻は動物行動学者だということを指摘しておこう。コリーン・キャサディ・セントクレアは生物学教授で、クーガーやコヨーテ、 クマを研究している。 夫妻はいくつかの論文を共著で発表しており、また夕食の席でアイデアをいわば他家受粉させていることは想像にかたくない。「わたしはいま、植物や人間、人間以外の動物で、進化への誘因が異なるという見かたをやめる必要があると思っている。どれもその点は同じだ」とケーヒルは言う。「植物と人間が似ているというわけではない。ただどちらも、同じものの結果なんだ。自然選択はどの分類群かなど気にしない」
p.249より
これは植物行動学なるものの勧めのように見える。植物に動物や人の既存の研究分野を当てはめる試みは他の科学者にも見られる。
植物は心理学的に研究できる
人間の場合は、神経学的メカニズムではなく、行動からの推論によって心を研究することができるが、カーバンもやはり同じように行動パターンを探している。「わたしは心理学の数十年に及ぶ知見や方法が大好きで、植物に使えないかと思っているんだ。駄目な場合はあるが、それはしかたない」 だが、彼は心理学研究の分野で必ずうまくいきそうな方法をひとつ見つけた。ふるまいを研究するさい、ふたつの過程に分けて分析する方法だ。第一の過程では判断、つまり情報そのものの知覚が行われる。第二の過程は意思決定てあり、行動ごとのコストや利益を比較し、最善のものが選ばれる。これは植物にぴったりだ、と彼は言う。捕食者の脅威を比較し、それに対する行動を起こす―たとえば葉を苦くしたり、タバコの場合であれば、化学物質を使って害虫の捕食者を呼び寄せる―さいの個体による違いは、それぞれの性格を強く表している。脅威をどれほど過酷だと判断するか、どのような反応を選ぶかによって、植物個体の行動の幅についてたくさんのことがわかる。
p. 91より
進化が神経系を発展させたなら、それは植物にもあるのでは?
『植物と動物の進化をよりよく理解するための神経系の定義の拡張」と題する論文で、リナスと、サラマンカ大学の同僚セルヒオ・ミゲル・トメはおよそこう主張している。 神経系を動物のみが持ちうるものと定義し、ほかの生物にも異なる形態で現れうる生理的なシステムであると認めないことには意味がない、と。神経系を系統的に、つまり進化系統樹のある部分にのみ存在するものと定義することは、さまざまな生物が同じような困難に対処するためによく似たシステムを進化させる、収斂進化という強い力を無視している。 進化において、それはつねに起こっていることだ。古典的な例は翼だ。飛行の能力は鳥とコウモリ、昆虫でべつべつに進化し、よく似た結果を生みだしている。目もそのひとつだ。目のレンズは数度、べつべつに進化した。
神経系を収斂進化の一例とみなすのは合理的なことだ、とリナスとミゲル・トメは言う。自然に多様な神経系が存在するなら、植物が持っているものは明らかにそのひとつだ。アヒルのように歩き、アヒルのように鳴いているものがいたら、それはたぶんアヒルだろう。 では植物が持っているものを神経系と呼んでもいいのではないだろうか。
p.119より
植物は情報処理をしている
植物に対して行動学(エソロジー)、心理学、神経科学を当てはめる見解が出てきたとなれば、もちろん認知科学への当てはめもある(認知科学には動物行動学・心理学・神経科学とを学際的に結びつけられる地点にある)。
最近では、植物の行為主体性に関する理論を構築している。 ギルロイはわたしに向かってすぐに、厳密に植物学的な行為主体性であって、思考や感覚という意味での意図を表しているのではないと言い添えた。 わたしがうなずくと、彼はさらに言った。「植物は、動物の行動について想定されているのと同じ時間の枠組みで、情報処理に関して動物とかなりよく似たことをしている。彼らは周囲の世界について、とてもこみいった計算をしている。もし人間がそうした種類の情報処理をして、植物がしているようなアウトプットを行ったら、信じがたいほどすごいことだよ」。植物は自分がいる環境で生活を成り立たせている。それはギルロイにとって、植物の行為主体性の証だ。それでも、証明は機構への理解ではなく、推論によって行われている。「もしその計算を可能にする機構を本気で調べようとしても、ああ、それは脳のなかのニューロンで行われているんだ、と述べるような贅沢は許されない」とギルロイは言う。「問題は、情報の処理がどこで行われているかだ」。ギルロイの研究によって、ようやくそれは可視化されてきた。「だがいまのところは、どんなふうに動いているのかはわかっていない」。観察と理解はしばしば遠く離れたところから始まる場合があるのだ。
p.110より
擬人化と機械論の間に
本書には始めの方に、植物の知性の研究が軽視されるようになった原因として、過去のベストセラー「植物の神秘生活」を挙げている。現在の植物の知性研究は、その影響からどう逃れるか?の営みとも言える。
既に示したように、研究者の中には植物に感覚能力や意識を認めようとする学者といるが、お世辞にも広くは受け入れられていない。一方に「植物の神秘生活」から続く擬人化(極端になると神秘主義)があり、他方には厳密な科学を気取る機械論(または還元主義)がある。現在は(認知科学もこれまでやってきた)これらの中間領域を探る試みの最中とも言える1。
