ブログに書く記事のアイデアはあるのだが、ともかくきちんとした文章を書くのが面倒くさい。だから、ここにアイデアの概要だけを書いてスッキリさせるつもり。

前々から準備しているのは「素人による素人のための教養としての機械学習講座」で、アイデアだけはできてるので大雑把に書いてしまう。記事の大きな流れは、(非)線形分離からサンプリングへと言う流れで、アルゴリズムの話をゼロにして考え方だけを提示するのがミソだ。アルゴリズムの話をするならヘッブ則から始めればいいのだが、この先は深めると切りがないしそれを説明した書籍だっていくらでもある。普通の人はニューラルネットワークの考え方だけ分かれば十分だ。すると、世間で問題になっている人工知能の問題を理解するという点では、線形分離から識別モデルを理解して、そこからサンプリングによってデータからパターンを学ぶ事の意味を知ればそれで十分だ。現実にはその程度だって理解されていないのだ。

私が記事を書く気を失った理由の一つは、好都合な学術記事がネットで見つかったせいもある。それは「google:講座 機械学習超入門 全6回 間下以大」であるが、特に第二回で線形分離と関わりのある識別モデルについて、最後の第六回でデータのサンプリングの偏りによる問題にも触れられていて、ちゃんと知りたい人はこれを読むのがお薦め。線形分離というのはパーセプトロンの限界として知られているが、ニューラルネットワークはデータを分類するためのパターンを見出すのだ…ということを理解するのに線形分離の例は都合がいい。現代のニューラルネットワーク非線形な複雑なパターンを見つけ出せるようになったことさえ理解できれば十分。ここまでで識別モデルを理解できたら、次は統計学の出番だ。

ニューラルネットワークがデータからパターンを学ぶことが分かれば、その学習されたパターンが本当に見出すべきパターンと一致しているのかが問題になる。そこで母集団とそこからのデータのサンプリングの考え方が使える。

母集団にそもそもパターンがない場合に機械学習を使うバカらしさは脇においても、母集団にパターンがあるとしても得られたデータから学習されたパターンと一致するとは限らない。最近よく出される例では、黒人の写真をゴリラだと識別した例があるが、これは母集団(全ての人種を含む)と学習データ(白人ばっかり)とでパターンが一致してなかったことの典型例だ。学習データの量が多くてもサンプリングの偏りの問題は全くの別の問題であり、これは統計学を知っていれば分かることだ。何でも学習機械に大量のデータから学習させれば何とかなるんでしょ…という安易な考えは駄目なのだ。

この内容を本当に素人でも理解できるように書くのは一言で面倒なので、多分やらない。ただ、ここのところ個人的にずっと考え続けている現代の情報環境についての話とも関連しているので、やっぱり人工知能についてこの程度は理解していてほしいというはある。

自由エネルギー原理についての私的注釈(ただし解説ではない)

自由エネルギー原理は神経科学者や哲学者や心理学者などの様々な分野の学者によって議論されている注目の理論だ。日本でも紹介され始めて研究が進みつつある。ただそれらを見ていると自由エネルギー原理についての議論がいかに曖昧かが十分に理解されていないように感じる。実際には自由エネルギー原理は必ずしも明確な科学理論とは言い切れず、その解釈も様々である。そこで注意すべき点をここでは幾つか示すつもりだ。

自由エネルギー原理は理論についての理論だ

自由エネルギー原理とはフリストンによって提示された脳に関する理論であり、脳に関する統一的な理論だと言われる。初期の頃は予測符号化と強く結びついていたが、強化学習などとも結びついてより射程の広い理論となっている。さて、ここで最初に問題にしたいのは自由エネルギー原理と予測符号化との関係だ。予測符号化とは感覚運動について説明する数理的な科学理論である。自由エネルギー原理にも数理的な説明が出てきて、予測符号化と同等な科学理論であるとも思えてしまう。実はここに誤解がある。予測符号化は得られたデータを直接に説明する科学理論なのに対して、自由エネルギー原理は予測符号化の持つ特徴を抽象的に理論化した理論だ。つまり、予測符号化は一次理論なのに対して、自由エネルギー原理は理論についての理論、つまり二次理論(メタ理論)である。まずここが理解できないと誤解が生じる。

ただし、自由エネルギー原理の話の際にはたいてい予測符号化(またはベイズ1)が出てくるので、どこまでこれらを区別すべきか(されているか)はよく分からないところもある。

自由エネルギー原理には両立できない幾つかの解釈がある

私自身はRick GrushやHohwyによる予測符号化(予測誤差最小化)の説明が数理的にも明確で好きなので個人的にはこっちで勉強してもらいたいが、ただ彼らはデカルト懐疑主義を受け入れている研究者として一部の学者には悪名高い。私からすると懐疑主義を敵対視する典型である身体化ラディカリストの方がよっぽど問題があると思うが、そこには突っ込まない。ここで示したいのは、自由エネルギー原理にはHohwyに代表される表象主義的な解釈からAndy Clarkに代表される身体化解釈までいろいろあって、それらを統合する解釈があるとは言えない(少なくとも合意があるとは言えない)ことだ。特に日本では科学者による自由エネルギー原理の紹介が多く、その辺りの哲学的問題にはぞんざいなことも多い。しかし、HohwyがAndy Clarkの身体化解釈をケチョンケチョンにぶっ叩いている講演映像を見れば、そんなぞんざいな扱いは甘いとしか言いようがない。

この辺りの哲学的理論については論じる準備はなくもないが、長くなるのでここではしない。簡単にだけ示すと、私が支持するのはダイナミカルな表象主義 2で、これなら身体化論者の批判もほぼ回避できる(反表象主義だけは無理)し、高知認知も説明にある程度含められるかもしれない(自由エネルギー原理は高次認知を無視しがち)。

Active inferenceの数理的な説明

自由エネルギー原理を理解する上で最もネックとなるのはActive inferenceだ。これこそ予測符号化にはそのままの形では含まれていない点で、自由エネルギー原理のオリジナルとも言える。しかし、それを理解するとなると曖昧な説明が多い。Active inferencを行動選択だとする人もいるが、それだと単なる行動出力と同じになってしまう。

これまたHohwyによる説明が数理的には分かりやすくて、Active inferenceとはデータのサンプリングをすることであり、すると行動は新たなデータを得るための手段でしかなくなる。ここで詳しくは説明しないが、自由エネルギー原理の前提となるベイズ統計(ベイズモデリング)にとってはサンプリングは重要であり、これがなければ内的モデルを収束させることができない。Active inferenceに過剰な意味を読み込むのはあまりしないほうが良い。

自由エネルギー原理はオートポイエーシスな理論なのか

予測符号化には含まれていない自由エネルギー原理にオリジナルな要素として、比較的最近付け加わったのはオートポイエーシスだ。オートポイエーシスはヴァレラらによって提示された概念であり、生物の持つシステム的な特徴である。オートポイエーシスそのものの説明はここではしないが、自由エネルギー原理がオートポイエーシスを取り入れるために持ち出されるのはマルコフブランケットである。ここで数理的な説明に幻惑されて自由エネルギー原理がオートポイエーシスを証明していると思うのは早計だ。マルコフブランケットとはベイジアンネットワークの一種であり、それ自体は因果推論などに用いられるのが本来の用途である。オートポイエーシスの特徴の一つは生物としての境界にあるが、マルコフブランケットそのものに境界を定義できる仕組みがあるわけではなく、説明で持ち出される境界は外から付けられたものであり、別に自律的に境界が生じるわけではない。この辺りの議論はあまり本気で受け取りすぎない方がいいように思われる。

付録 Computational enactivist under the free energy principleを批判する

最近発表された論文「google:Computational enactivist under the free energy principle」をたまたま読んで、その基本的な部分で残念に思った。詳しい内容は実際に読んでもらうとして、とりあえずの問題の部分だけを最後におまけで指摘します。

この論文では自由エネルギー原理にある計算主義的解釈とエナクティズム的解釈とは、それぞれ別の側面に光を当てただけだと論じている。そもそも自由エネルギー原理に計算主義でない解釈があるかがよく分からないし、私が読んだことあるエナクティズムの自由エネルギー原理論文ではむしろ表象主義を批判するためにそれがただの計算であることを強調していたが、ここはお目こぼしをしよう。実際に反計算主義者はいなくもない(ただし彼らが自由エネルギー原理をどう考えているかははっきりしない)。

しかし、この論文の本当に頭を抱える部分はそこではない。もっともおかしなところは、エナクティズムについての議論がオートポイエーシスの議論と等価にされていることだ。エナクティズムを有名にした古典的な著作「身体化された心」を読んでもオートポイエーシスには触れておらず、他の論文を含めてもエナクティズムとオートポイエーシスとの関係はよく分からない。そこで参考文献を見ると、不思議なことにそこで参照されているのはヴァレラとマトゥラーナとの共著のオートポイエーシス本だけであり、「身体化された心」は参考文献表にはない。この時点でこの著者はどうかしてる(なぜ査読を通った?)のだが、このエナクティズムの古典を読んでいない影響はもう一つ見られる。

この論文では、エナクティズムの自由エネルギー原理についての解釈の特徴として自己組織化を挙げている。そこから自由エネルギー原理が計算主義とエナクティズムを両立させていると結論している。しかし、これは初めから結論ありきの勝手な定義である。「身体化された心」では認知科学の研究を古典的計算主義(認知主義)とコネクショニズムと身体化論に三分類して論じている。そして自己組織化はコネクショニズムが持っている特徴であるが、もちろんコネクショニズムは広い意味での計算主義である。要するに、自己組織化と広い意味での計算主義が両立するのは初めから当たり前のことで議論するまでもない。

つまり、この論文はエナクティズムについてのそもそもの前提が間違っているので議論そのものに意義がない。たとえ有名な学術雑誌でもこんなのが採用されることはあるので気をつけたほうが良い。


HohwyがAndy Clarkを批判する講演動画(英語)


  1. ただしベイズ脳の定義は必ずしも一致していないのでここではこれ以上は取り上げない

  2. ちなみにこれは私のオリジナルではなくMark Bickardなどの先行者がいる。

最近、政治理論(哲学)の世界で政治的リアリズムが流行っているという日本語の論文を幾つか読んでそれぞれに面白かったのだが、その一方で当の政治的リアリズムそのものにはあまりピンとこない。なぜなら、ロールズの政治的リベラリズムと違って、政治的リアリズムは政治的という形容詞とリアリズという名詞の間に意味的な違いが少なくてただの同義反復に思えてしまうことだ。旧来のリアリズムとの違いはどうもはっきりしない。

政治的リアリズムはロールズを批判するが、それは正義論の前期ロールズであって、政治的リベラリズムの後期ロールズはまともに理解していない。でもこれってコミュタリアリズムそっくりだ。コミュタリアンのサンデルが後期ロールズを理解していなくてローティに馬鹿にされていたが、残念ながら同じことが政治的リアリズムにも言えてしまう。政治的リアリズムが正義論以降の政治理論に主流となってしまった応用倫理学を批判するのは分かるが、コミュタリアンとの関係はよく分からない。

私論二つのリアリズム(政治理論)

私なりにリアリズムをあえて分類すると、力のリアリズムと卓越的リアリズムに分けられる。力のリアリズムとは国際関係論によく見られる国家(アクター)間の力のむき出しの闘争を均衡させることこそが大事だとする見方だ。闘技的デモクラシー論などもこちらに近い思想だ。卓越的リアリズムとは道徳主義を批判して卓越した徳を持った者による活動が秩序をもたらすとする見方で、君主論マキャベリからマックス・ウェーバーまでの伝統がある。力のリアリズムの例としてホッブスを挙げようとしたが、ホッブスには混乱を収める卓越した支配者を求めている側面もあるので、簡単には一方には分類できなそう。国際関係論以外で力のリアリズムにはっきりと分類できる古典はニーチェぐらいかな?

現代に一般的にリアリズムで含意されるのは力のリアリズムの方だ。しかし哲学的には卓越的リアリズムの系譜は強くて、すでに上げた君主論ウェーバーのような古典以後も、レオ・シュトラウスからコミュタリアンへの徳倫理の流れにも道徳主義批判が受け継がれている。優れた徳を持ったものは通俗的な道徳には拘束されないのだ!

制度論的リアリズムを求めて

実は、多くのリアリストがこぞって無視している有名なリアリストがいる。それはカール・シュミットだ。シュミットの決断主義はその道徳主義批判も含めて卓越主義的だ。しかし、ナチス学者ともされるカール・シュミットを現存の大多数のリアリストは無視する。後期ロールズへの無理解であれカール・シュミットの無視であれ、現実から目を背けているのは当のリアリスト自身に私には思える。

カール・シュミットのリアリスティックな決断主義は前期までで、後期には新しい顔を見せることはあまり知られていない。後期シュミットは過去のヨーロッパの国際秩序の背景にヨーロッパ公法の存在を見い出し、それが変質しつつある状態を分析していた。カール・シュミットは後半生に入ってリアリストとして新たな側面を見せ始めたが、実はこれはロールズの政治的リベラリズムへの転回と共通点を持つ。それは制度論への注目だ。

政治思想におけるリアリズムの共通点は力の重視だ。ただその力の力点が、アクター全体に見る均衡論か特定のアクターに見る卓越論かで違いがあるだけだ。後者は卓越した徳を持つべきだという喚起にとどまっており、そもそも徳倫理が学問的に成立することが優れた徳の促進につながっているとも思えない(むしろ逆?)。前者は政治をむき出しの力の闘争として見てるだけで、その力の働きの背景への分析は薄い。

カール・シュミットは国際秩序の背景にヨーロッパ公法を見出している点で制度論的だ。後期ロールズの場合は、重なり合う合意についてそんなの存在しないと批判する人がよくいるが、そうではなくて人々の意見の闘争の中に重なり合う合意(立憲主義)を見出さざるをえないと言ってるだけだ。そこには前期ロールズ形式主義はすでになく、現実の政治的活動の中から立憲主義を成立させるしかないとする冷めた制度論の視点がある。後期ロールズを理解できない人は後期オークショットを読むことをおすすめします。なんでも政治で解決できるという思い上がりこそがオークショットによる批判の重点だ。

アルチュセールは今や世界的に見てもさっぱり理解されてないが、晩年のマキャベリ論は優れた論考だ。リアリストに好まれる君主論と共和主義者に好まれるディスコルシとを統合的な視点からみようという論考なのだが、ここにも背景を見ようとする制度論を私は見出してしまう。私はリアリストだと声高に叫ぶリアリストぶりっ子ではなく、現実を冷徹に見る視点にこそ私は本当のリアリストを感じる。そういう本物のリアリストは歴史的に見ても稀にしかいない。

政治的リアリストについての日本語論文は幾つかネットでも手に入るが、この記事に関連したものだと「google:方法論かエートスか?政治理論におけるリアリズムとは何か)」がある。要するに、私自身は方法論にもエートスにもどちらにも冷たいということだ。