相変わらずブログに書くようなことはなくはないのだが、単に面倒なのもあるが、そもそも私自身が読んで感心するブログ記事そのものが今やあまりなくて、そのせいで自分からブログ記事を書こうとする気が起きない。ネットで見かける間違った内容や無益な話も多く見かけるが、あまりに多すぎていちいち対処する気も起きない。あとははてなブログ自体が気にいらなくて、ネット上に他に適切な媒体を探したが、どれも良くても一長一短でこれだ!というところがない。とりあえずブログとホームページの中間みたいなサイトだけは作ったので、お暇な人はどうぞ(→蒼龍のタワゴト 出張所へ)

最近調べているテーマとしては…ポピュリズムの話、人文学の危機の話、エビデンスベースの話とかがあるが、まだ勉強中なところもある。その中ですでに調べる気も失せて、記事として書く気も失ったポピュリズムの話について少しだけ書こう。

最近になってポピュリズムについて調べ始めた直接のきっかけは、れいわ新撰組への注目によって話題になった左派ポピュリズムについて知ったのが原因だ。調べるうちに、日本の一部の論者が含意するような(左派)ポピュリズムへのネガティブな言及はただのイメージ論でしかなくて間違っているのは分かった。始めはそこをメインにして書こうともしたが、ネットにはそこに触れている記事はなくもないので、その時点でやる気は相当失われた。つまり、ポピュリズムはその中身を別にすれば反エリート主義や少数者支配への反発の現れであり、そのこと自体を軽視するべきではない。ただ、左派ポピュリズムを知らしめたラクラウやムフからすれば、右派ポピュリズムと違って左派ポピュリズムにはより肯定的な意義があることになる。左派ポピュリズムを非現実的な政策を主張する者とする評価は一面的な評価に過ぎない。左派ポピュリズムであれ反知性主義であれ、日本の論者には元々の議論を確認することなく単なるイメージで言葉を使う奴が多い。これでは、ネットにはびこる思い込みの激しい無知な奴らとの違いがあまりない。

ポピュリズムについて調べたのはこれが初めてではなく、以前にも似たことは調べたことがある。それはトランプ政権が大きな話題になってしばらく経ってから、あるトランプ大統領についての記事で西部シュトラウス派(google:西海岸シュトラウス派)について知ったときだ。シュトラウス派とは、政治哲学者レオ・シュトラウスの影響を受けた学者の集団である。ブッシュJr.大統領時代にネオコンというのが話題になった頃があるが、ネオコンは東部シュトラウス派(東海岸シュトラウス派)とされている。ネオコンは世界中に民主主義を普及させることがアメリカの安全につながるとしていた。現在はそれへの反発が起こっていると言える。西部シュトラウス派は直接にトランプを支持しているわけではないが、トランプ現象に同情的な理論を展開している。

それまでのネオリベ政策によってアメリカで格差が広がってしまったが、リベラルも保守も主流の中道派はそこに切り込むことはできないでいた。大統領候補だったヒラリー・クリントンはまさにセレブであり、高慢ちきなエリートにしか見られなかった。かといって、共和党の側は市場主義的なネオリベラリズム(新自由主義)が主流に行き渡っていて、こっちも似たりよったりだ。トランプでであれサンダースであれ格差を広げるネオリベ状態を容認する左右の中道に対する反発として支持されているのだ。実際には西部シュトラウス派はリンカーンを取り上げて論じているが、東部シュトラウス派(ネオコン)のエリート主義に対して、西部シュトラウス派は民衆(多数派) 1による反エリート主義(というより反エスタブリッシュメントや反セレブ)を少数者支配に対する反抗として擁護している。 2

左派ポピュリズム論であれ西部シュトラウス派であれ、ポピュリズムの持つ反エリート主義を肯定的に指摘する点で一致している。自らの立場や見解を堅固に主張する人が多い中で、現象を冷静にに分析する視点はとても貴重なものとなっていると思う。


  1. トランプ支持者は本当の多数派じゃないのでは?という懸念はここでは無視する。多分、ポピュリズム的な側面だけでは現在の現象を論じるには片手落ちなのかもしれない。とりあえず、ここでは議論の紹介に徹する。

  2. トランプ自身が金持ちで金持ちの味方じゃん!という意見も正しいと思うが、ここでは政策や政権の具体的中身には触れない。ここで問題にしているのはトランプ現象に対する現象としての議論であり、その具体的な中身の評価は含んでいない。私の印象ではトランプ政権は内政的にはよく分からないが、外政的には評価すべき点も多い。それと比較すると、オバマ政権の外交政策はとても褒められるものだったとは言えない。

ブログに書く記事のアイデアはあるのだが、ともかくきちんとした文章を書くのが面倒くさい。だから、ここにアイデアの概要だけを書いてスッキリさせるつもり。

前々から準備しているのは「素人による素人のための教養としての機械学習講座」で、アイデアだけはできてるので大雑把に書いてしまう。記事の大きな流れは、(非)線形分離からサンプリングへと言う流れで、アルゴリズムの話をゼロにして考え方だけを提示するのがミソだ。アルゴリズムの話をするならヘッブ則から始めればいいのだが、この先は深めると切りがないしそれを説明した書籍だっていくらでもある。普通の人はニューラルネットワークの考え方だけ分かれば十分だ。すると、世間で問題になっている人工知能の問題を理解するという点では、線形分離から識別モデルを理解して、そこからサンプリングによってデータからパターンを学ぶ事の意味を知ればそれで十分だ。現実にはその程度だって理解されていないのだ。

私が記事を書く気を失った理由の一つは、好都合な学術記事がネットで見つかったせいもある。それは「google:講座 機械学習超入門 全6回 間下以大」であるが、特に第二回で線形分離と関わりのある識別モデルについて、最後の第六回でデータのサンプリングの偏りによる問題にも触れられていて、ちゃんと知りたい人はこれを読むのがお薦め。線形分離というのはパーセプトロンの限界として知られているが、ニューラルネットワークはデータを分類するためのパターンを見出すのだ…ということを理解するのに線形分離の例は都合がいい。現代のニューラルネットワーク非線形な複雑なパターンを見つけ出せるようになったことさえ理解できれば十分。ここまでで識別モデルを理解できたら、次は統計学の出番だ。

ニューラルネットワークがデータからパターンを学ぶことが分かれば、その学習されたパターンが本当に見出すべきパターンと一致しているのかが問題になる。そこで母集団とそこからのデータのサンプリングの考え方が使える。

母集団にそもそもパターンがない場合に機械学習を使うバカらしさは脇においても、母集団にパターンがあるとしても得られたデータから学習されたパターンと一致するとは限らない。最近よく出される例では、黒人の写真をゴリラだと識別した例があるが、これは母集団(全ての人種を含む)と学習データ(白人ばっかり)とでパターンが一致してなかったことの典型例だ。学習データの量が多くてもサンプリングの偏りの問題は全くの別の問題であり、これは統計学を知っていれば分かることだ。何でも学習機械に大量のデータから学習させれば何とかなるんでしょ…という安易な考えは駄目なのだ。

この内容を本当に素人でも理解できるように書くのは一言で面倒なので、多分やらない。ただ、ここのところ個人的にずっと考え続けている現代の情報環境についての話とも関連しているので、やっぱり人工知能についてこの程度は理解していてほしいというはある。

自由エネルギー原理についての私的注釈(ただし解説ではない)

自由エネルギー原理は神経科学者や哲学者や心理学者などの様々な分野の学者によって議論されている注目の理論だ。日本でも紹介され始めて研究が進みつつある。ただそれらを見ていると自由エネルギー原理についての議論がいかに曖昧かが十分に理解されていないように感じる。実際には自由エネルギー原理は必ずしも明確な科学理論とは言い切れず、その解釈も様々である。そこで注意すべき点をここでは幾つか示すつもりだ。

自由エネルギー原理は理論についての理論だ

自由エネルギー原理とはフリストンによって提示された脳に関する理論であり、脳に関する統一的な理論だと言われる。初期の頃は予測符号化と強く結びついていたが、強化学習などとも結びついてより射程の広い理論となっている。さて、ここで最初に問題にしたいのは自由エネルギー原理と予測符号化との関係だ。予測符号化とは感覚運動について説明する数理的な科学理論である。自由エネルギー原理にも数理的な説明が出てきて、予測符号化と同等な科学理論であるとも思えてしまう。実はここに誤解がある。予測符号化は得られたデータを直接に説明する科学理論なのに対して、自由エネルギー原理は予測符号化の持つ特徴を抽象的に理論化した理論だ。つまり、予測符号化は一次理論なのに対して、自由エネルギー原理は理論についての理論、つまり二次理論(メタ理論)である。まずここが理解できないと誤解が生じる。

ただし、自由エネルギー原理の話の際にはたいてい予測符号化(またはベイズ1)が出てくるので、どこまでこれらを区別すべきか(されているか)はよく分からないところもある。

自由エネルギー原理には両立できない幾つかの解釈がある

私自身はRick GrushやHohwyによる予測符号化(予測誤差最小化)の説明が数理的にも明確で好きなので個人的にはこっちで勉強してもらいたいが、ただ彼らはデカルト懐疑主義を受け入れている研究者として一部の学者には悪名高い。私からすると懐疑主義を敵対視する典型である身体化ラディカリストの方がよっぽど問題があると思うが、そこには突っ込まない。ここで示したいのは、自由エネルギー原理にはHohwyに代表される表象主義的な解釈からAndy Clarkに代表される身体化解釈までいろいろあって、それらを統合する解釈があるとは言えない(少なくとも合意があるとは言えない)ことだ。特に日本では科学者による自由エネルギー原理の紹介が多く、その辺りの哲学的問題にはぞんざいなことも多い。しかし、HohwyがAndy Clarkの身体化解釈をケチョンケチョンにぶっ叩いている講演映像を見れば、そんなぞんざいな扱いは甘いとしか言いようがない。

この辺りの哲学的理論については論じる準備はなくもないが、長くなるのでここではしない。簡単にだけ示すと、私が支持するのはダイナミカルな表象主義 2で、これなら身体化論者の批判もほぼ回避できる(反表象主義だけは無理)し、高知認知も説明にある程度含められるかもしれない(自由エネルギー原理は高次認知を無視しがち)。

Active inferenceの数理的な説明

自由エネルギー原理を理解する上で最もネックとなるのはActive inferenceだ。これこそ予測符号化にはそのままの形では含まれていない点で、自由エネルギー原理のオリジナルとも言える。しかし、それを理解するとなると曖昧な説明が多い。Active inferencを行動選択だとする人もいるが、それだと単なる行動出力と同じになってしまう。

これまたHohwyによる説明が数理的には分かりやすくて、Active inferenceとはデータのサンプリングをすることであり、すると行動は新たなデータを得るための手段でしかなくなる。ここで詳しくは説明しないが、自由エネルギー原理の前提となるベイズ統計(ベイズモデリング)にとってはサンプリングは重要であり、これがなければ内的モデルを収束させることができない。Active inferenceに過剰な意味を読み込むのはあまりしないほうが良い。

自由エネルギー原理はオートポイエーシスな理論なのか

予測符号化には含まれていない自由エネルギー原理にオリジナルな要素として、比較的最近付け加わったのはオートポイエーシスだ。オートポイエーシスはヴァレラらによって提示された概念であり、生物の持つシステム的な特徴である。オートポイエーシスそのものの説明はここではしないが、自由エネルギー原理がオートポイエーシスを取り入れるために持ち出されるのはマルコフブランケットである。ここで数理的な説明に幻惑されて自由エネルギー原理がオートポイエーシスを証明していると思うのは早計だ。マルコフブランケットとはベイジアンネットワークの一種であり、それ自体は因果推論などに用いられるのが本来の用途である。オートポイエーシスの特徴の一つは生物としての境界にあるが、マルコフブランケットそのものに境界を定義できる仕組みがあるわけではなく、説明で持ち出される境界は外から付けられたものであり、別に自律的に境界が生じるわけではない。この辺りの議論はあまり本気で受け取りすぎない方がいいように思われる。

付録 Computational enactivist under the free energy principleを批判する

最近発表された論文「google:Computational enactivist under the free energy principle」をたまたま読んで、その基本的な部分で残念に思った。詳しい内容は実際に読んでもらうとして、とりあえずの問題の部分だけを最後におまけで指摘します。

この論文では自由エネルギー原理にある計算主義的解釈とエナクティズム的解釈とは、それぞれ別の側面に光を当てただけだと論じている。そもそも自由エネルギー原理に計算主義でない解釈があるかがよく分からないし、私が読んだことあるエナクティズムの自由エネルギー原理論文ではむしろ表象主義を批判するためにそれがただの計算であることを強調していたが、ここはお目こぼしをしよう。実際に反計算主義者はいなくもない(ただし彼らが自由エネルギー原理をどう考えているかははっきりしない)。

しかし、この論文の本当に頭を抱える部分はそこではない。もっともおかしなところは、エナクティズムについての議論がオートポイエーシスの議論と等価にされていることだ。エナクティズムを有名にした古典的な著作「身体化された心」を読んでもオートポイエーシスには触れておらず、他の論文を含めてもエナクティズムとオートポイエーシスとの関係はよく分からない。そこで参考文献を見ると、不思議なことにそこで参照されているのはヴァレラとマトゥラーナとの共著のオートポイエーシス本だけであり、「身体化された心」は参考文献表にはない。この時点でこの著者はどうかしてる(なぜ査読を通った?)のだが、このエナクティズムの古典を読んでいない影響はもう一つ見られる。

この論文では、エナクティズムの自由エネルギー原理についての解釈の特徴として自己組織化を挙げている。そこから自由エネルギー原理が計算主義とエナクティズムを両立させていると結論している。しかし、これは初めから結論ありきの勝手な定義である。「身体化された心」では認知科学の研究を古典的計算主義(認知主義)とコネクショニズムと身体化論に三分類して論じている。そして自己組織化はコネクショニズムが持っている特徴であるが、もちろんコネクショニズムは広い意味での計算主義である。要するに、自己組織化と広い意味での計算主義が両立するのは初めから当たり前のことで議論するまでもない。

つまり、この論文はエナクティズムについてのそもそもの前提が間違っているので議論そのものに意義がない。たとえ有名な学術雑誌でもこんなのが採用されることはあるので気をつけたほうが良い。


HohwyがAndy Clarkを批判する講演動画(英語)


  1. ただしベイズ脳の定義は必ずしも一致していないのでここではこれ以上は取り上げない

  2. ちなみにこれは私のオリジナルではなくMark Bickardなどの先行者がいる。