前回は認知科学的な研究における専門領域への細分化についてつい長く語ってしまったが、もともとは今の自分が認知科学のどこに関心を持っているかを書くつもりだった。といっても、私ももちろん個々の具体的な研究テーマについても(素人があるがゆえに)それなりは幅広く知っているし、それはそれで好きなのだけれど、自分がもともと問題意識を持っていたのは認知科学の基礎の部分だったりする。

私が認知科学を好きになった学生時代、当時でさえ認知科学なんていっときのブームだと言われていたりもした。私は臨床心理学を学ぶために心理学科に入ったのだが、入学してそう経たないうちに幻滅して離れたのだが、かといって当時でさえ日本の心理学では行動主義が跋扈していてそれこそが科学的だとされていたのだが、それにもあまり興味が持てなかった。細かい経過が実は色々とあるのだがそこを端折ると、ともかく認知科学を見つけてその科学性と議論の面白さにすっかり惹かれてしまった。その中で認知科学は科学的だと納得したい気持ちが強まってきた。

一応は素人として調べれることは自分で調べて(内容は省略するが)個人的にはそれなりに納得の気持ちに落ち着き、そのせいもあって一時は認知科学の話から離れていた時期もあった。その後気が向いてまた認知科学に近づいてみたら、いつの間にか計算論が見直されていることに気づいた。その後比較的最近に人工知能の勉強もし直して、改めて疑問が生まれてしまった。認知(脳)の計算モデルとしてふさわしい基準って何なのだろう?

まずは認知のベイジアンモデルについては、シンプルな理論の場合はまだいいが、複雑なモデルになるとそれが本当に頭の中で起こっているのかどうも私にはよくわからなくなってくる。ニューラルネットワークは元々は認知モデルとして盛んに議論されていた時期もあったが、今のように独自に高度な発展を遂げたニューラルネットワークを見てしまうと、そもそもニューラルネットワークが脳のモデルとしてどこまでふさわしいのかよく分からないし、昔起こった議論の意義さえ疑わしく思えてしまう。

自分は計算論には好意的な人間だったが、最近はそれをどこまで認めるべきなのかさっぱり分からなくなってしまった。今更こんな疑問を抱いたって、いい加減に構ってられないからモヤモヤしてすっかり困っている。

あまり確信の持てない軽めの思いつきの話はこれまではだいたいはてなハイクに書いてきたのだが、はてなハイクが無くなるということでもう書く気が起きない。いつの頃からかブログの方は比較的きちんとした記事を出すことになってしまっていたが、かといってツイッターのようなSNSは嫌いで書く気もしないし、どうせこのブログは相当な過疎地になってしまったようなのでこっちで適当な一人言も書くことにした。面倒なので怪しめの独り言はタイトルをつけないで出すので、まぁ区別はつくだろう。

はてなハイクの時と同じで適当な独り言のときは必ずしも認知科学や哲学に限らず気ままに好きなテーマで書くつもりだが、最初なのでまずは認知科学関連の話から。最近の認知科学は二十年近く前に私が好きなった認知科学とはかなり姿が異なってしまい、今でも自分が認知科学を好きなのかもうよく分からない。

哲学者デネットが最近翻訳された本で自分のことを素人だと言っていたが、お前が素人なのか〜と突っこみたくもなるが、現在の激しい専門分化を考えるとそう言いたくなるのも仕方がないかもしれない。黎明期の認知科学を知っているデネットのような人からすれば、プロなど誰もいないまさに素人だらけで始まった中で自分の好きな話題について自由に幅広く議論できた記憶があるのだ。しかし、今のような細分化されたテーマでなく、それを超えて大きな話をしていた時代は過ぎ去り、そうした細分化されたテーマを超えた話をしていた学者もほとんど亡くなってしまい、デネットはその数少ない生き残りになってしまった感は拭えない。

かといってたまにいる専門分化の否定論も間違いで、そりゃあ学問の進んでいなかったルネサンス時代ならまだしも、各専門分野の中ですごく賢い研究者が切磋琢磨している現在において、安易に壮大な話をするやつはただの無知でしかない可能性のほうがよっぽど高い。とはいえ、分野やテーマを超えた議論をする人がいなくなってしまうのも寂しい。私は認知科学における既存の研究テーマを超えた大きな理論に惹かれた面もあるので残念と言ったら残念だが、学問の進歩という点では仕方がないと言われれば仕方がない。

もともと予定していた話をする前に長くなってしまったのでおしまい。次回以降も気が向いたら出します。

書評 O.A.ハサウェイ&S.J.シャピーロ「逆転の大戦争史」

逆転の大戦争史

法学者が戦争の違法性を巡る歴史を描いた読みやすい一般書

本書は原題は「国際主義者たち」で副題は「いかにして法外な戦争へのラディカルな計画が世界を形成したのか」だ。国際主義とは力の均衡を謳うリアリズムと対になる交際関係論の用語で、世界中の国家の協調を主張する考え方だ。著者らは基本的に国際主義を擁護する立場だが、その部分は最後に主張されるだけで、本文の大部分は戦争の合法/違法を巡る歴史について読みやすく書かれている。全体としては、国際関係論 (国際法)についての一般書として読む価値はあるが、やはりこのテーマに興味のある人以外にもお勧めできるかは微妙(知識ゼロだと流石にきつい)というところだろうか。本に対する評価が厳しい私でもこれが良書であることは認めざるを得ない。

この本は全体の流れとしては、第一部が近代ヨーロッパ成立期の旧世界秩序・第二部で世界大戦期の移行期・第三部が戦後の新世界秩序となっており、大きく歴史的な流れに沿って構成されている。先に各部についての私の評価を述べると、第一部は本書の白眉、第二部はいいところも悪いところも半々、第三部は各章の話は興味深いがまとまりに欠ける…といったところだろうか。全体としては、厳密な歴史書にありがちな事実の淡々とした記述でもなく、事実や知識に無頓着の評論家や雑な学者が書きがちな大味な歴史観披露とも異なり、文献に基づきながらもその時代の傾向を適切に示したバランスの取れた著作となっている。

一般的に、交際関係論はウェストファリア条約から語られることが多い。しかしこの本の特徴は、近代ヨーロッパの作り上げた旧世界秩序をウェストファリア条約より前の法学者グロティウスにまで遡って論じていることで、そのことで旧世界秩序の隠された目的を明らかにしていることだ。一般的には平和主義者とされていたグロティウスを、その若き頃の文書にまで立ち返ってその本意を明らかにする第一部はこの著作の白眉と言って構わない。旧世界秩序において、いかに戦争が合法化され、それがどのような目的で為されたのかを見事に描いていており、読んでいて感心することしきりであった。この部分だけのためでもこの著作は読む価値はあるかもしれない。

この著作のもう一つの特徴は、それまで注目されることのなかったパリ不戦条約に注目することで、旧世界秩序と新世界秩序との闘争から新世界秩序の成立へと向かう過程を描いていることだ。特に第二部の前半は明治維新から世界大戦期に至る国際的な日本の動きを描いており、日本で生きる人なら興味を持って読みやすい。大きな特色としては、欧米では第二次世界大戦に突入する日本は否定的に描かれがちだけれど、この本では旧世界秩序に学んだ日本がその後の新世界秩序への動きに抗するという図式で書かれており、当時の日本に理解を示した描かれ方をしている。ただし、そうした理解ある態度は日本と同じ枢軸国であるドイツには示されず、第二部後半における世界大戦期のドイツを生きた著名な法学者カール・シュミットについての論述はナチスに協力した御用学者という旧態依然とした描かれ方をしている。その結果、世界を都合よく分割した連合国が(侵略)戦争を違法化する新世界秩序を形成しようとしたという視点が(気づいているにも関わらず)弱くなってしまっているのは否めない。そしてその視点が欠けているせいで、なぜ世界大戦の終戦後に連合国側が植民地を手放すポストコロニアル時代がやってきたのかが見えにくくなっているのはこの本の大きな欠点だと思われる。

第三部は第二次世界大戦が終わった後の、戦争が違法化された新世界秩序がどのような世界か?が描かれている。小国家の増大やその結果としての失敗国家の発生など各章の話自体は興味深いのだが、いかんせん第三部全体にまとまりがあまりない。その理由はすでに述べた理由もあるしそもそもまだ歴史的に近すぎて客観化できないせいもあるだろうが、いくら紙数の問題もあるだろうが東西冷戦にほとんど触れていないのはいくらなんでも不自然に感じる。とはいえ、個々の章の話題は面白いのでそれは勝手な無い物ねだりかもしれない。最後は国際主義賛美で終わるが、そうした思想的主張はほぼここだけで抑えらているのも好感が持てる。

国際関係(国際法)の歴史についての一般向け書籍としてバランスの取れた読みやすい本となっている。本文において思想的偏見はかなり抑えらているので、国際主義への賛否に関わりなくお勧めできる。

逆転の大戦争史

逆転の大戦争史