いい加減に認知科学以外の話もしてみたい気もするが、とりあえず区切りのいい所までは書いてしまおう。

私が学生だった二十世紀末でも認知科学なんて一時的ブームで終わる!と言われていたし、二十一世紀に入っても脳科学ブームの中で認知科学なんて科学じゃない!とか言われたりもしていた。そういった言葉は二十一世紀における欧米での世間的または学問的な認知科学関連のブームの多さを考えたら見当外れなのだが、それは日本の特殊事情とも関わりを持っているがそれは以前にもブログ記事で触れたことがある。とりあえず認知科学が非科学的でも終わってもいなかったと認めるとしても、現在の状態と未来はどうだろうか。

認知科学はこれからもこれまでのような重要性を持ち続けられるのかは私にはよく分からない。しかし、これまでのブームが二十世紀までの遺産を受け継いでいたことを考えると、新しいネタがこれからも出続けられるのかは正直怪しい。そもそも認知科学の創始分野でさえどんどん研究の独立性が高くなってきている。人類学と言語学はすでに触れたが、人工知能も(まだ汎用人工知能も目指されてはいるが)もはや人間並みの知能を目指すことは共通の目的とはなっているわけではなく工学としてのすっかり独立している。神経科学は脳イメージング研究のブーム以降は認知科学に対して知識がないどころか関心さえない研究者が目立つようになった。心理学は認知科学での科学性の望みの綱ではあるが、最近は再現性問題によって素朴に新しい発見を目指すみたいには行かなくなってる気もする。実は、今や認知科学で騒いでいるのは主に哲学者が目立ってはいる。ただ、これも以前とは様子が違う。

認知科学における哲学の様子については、既にデネットとの関係で触れている。ここでは別の側面から語ると、最近認知科学(特に4E認知)で活躍する哲学者は必ずしも科学的知識がある訳ではなく、嫌味な言い方をすると学者としての生命を保つための論文作成装置にしているだけな疑いを持ってしまう。現象学者が認知科学に参加するのに異存はないが、メルロ=ポンティのように科学的成果を用いて哲学的分析をしてくれるなら大歓迎なのだが、そうではなくて文献学者としてのメルロ=ポンティ学者が(思弁的に)身体化(4E認知)論を論じるというようなことも多いように感じる。この傾向は別に現象学者に限った話ではなく、身体化論を論じる哲学者にはよく見られる傾向だ。それでも身体化論に批判的な哲学者は議論が生産的なぶん問題は少ないのだが、身体化を擁護するタイプの哲学者は同じようなもっもらしいだけの話の繰り返しで発見があまりない。結局評価できるのはA.クラークのような昔から活躍している学者か批判的な議論をしている学者だけだが、それだけでは学者や論文の全体における割合は少ない。個人的に面白いと思っている論文もあるとはいえ、正直これだと先が思いやられる。

この先、認知科学が無くなることはないにしても、学際的領域としての重要性は下がってしまうのでは…と懸念してしまう。ただし、固有の領域としての認知科学によりも認知科学が起こした科学革命の方に惹かれた自分としては、それでも構わないと思う。むしろ、必要に応じて任意の学際的領域が立ち上がる状態の方がどう考えても好ましい。認知科学がそうした事例の歴史上における理想的ケースとして伝えられていくだけでも私としては十分に満足だ。

じゃあ、私の考える認知科学の起こした科学革命とは何だったのかをまた書かないといけない。この話は認知科学だけの話じゃ終わらないはずなので書くのは面倒だな。そのうち気が向いたら書くかも…

前回計算論に軽く触れたので、今度は今話題の予測符号化についての哲学的な話でもしようかと思ったけれど、まだ現在進行中なことも含めてまだ決心がつかない。予測符号化(または自由エネルギー原理)の科学的な側面については日本語でも書籍の出版や学術誌の特集などによって触れられるようになりつつあるが、哲学的な側面となるといつになったら日本語で読めるようになるのかよく分からない。たとえそれが出たとしても身体化(4E認知)論に偏った議論の紹介にしかならないのではと心配している。それをきちんとした記事にするか軽い独り言にするかもまだ迷っているので、今回は別の話をする。

以前、認知科学の創始分野の一つである人類学が二十一世紀になって認知科学での位置づけが怪しくなった話をしたことがある。私は有名な認知人類学者ハッチンスの本を原書で読んだことがあるのでその事態は残念だが、今回はその話ではない。これは誰かが指摘していることではなく私の勝手な印象だが、実は言語学も人類学の二の舞を踏みつつあるのではないかと懸念している。言語学認知科学の創始分野の一つに挙げられるが、以前に比べると認知科学的な議論に参加している言語学者が目立たなくなっている気がしている。チョムスキーは未だにたまに共著論文を出したりもしているが、全般的に見ると言語学者は専門的な言語学の中に閉じつつあって、以前にはよくあった学際的な議論は少なくなっているように感じる。もちろん専門分化は言語学に限った話ではないが、専門分化が先行している点では人類学とは事情が違う。

なぜこんな事態になったのか。もちろん、そもそも認知科学の生物学化は原因のひとつだろう。ここにはチョムスキーによるミニマリストプログラムの動向が関わりを持っている。まず主流の生成文法ミニマリストへの転向によって、認知言語学による生成文法批判の位置づけが分かりにくくなったのがある。ミニマリストの大きな長所は言語進化を扱えるようになったことだが、認知言語学は言語進化の議論にうまくついていけなくなった感が拭えない。ミニマリストは専門の言語学者を置いてけぼりにしてまでむしろ生物学化の事態に適応してしまった点では感心するしかない。

二十一世紀になって大きな話題になった生成文法の話題にピダハン論争があって、詳しくは書籍が出てるのでそっちを読んでほしいが、結論だけ述べると「埋め込みがなくても再帰性は否定されない」が正しいと思う。もう少し小さな話題としては文脈主義論争もあったが、(ピンカーの本でも軽く触れられていたとはいえ)思った程には話題にならなかった気がする。あとこれは私の勝手な見解だが、法則を見つけようとする生成文法よりも、制約に基づく理論や構文文法の方が言語を記述するという点では優れている気もしている。言語学で対立と思われていたことの多くが今でも意義のある対立なのか私にはもうよく分からない。

生成文法であれ認知言語学であれなんであれ、以前は言語学者が分野やテーマを横断した学際的な理論を展開していたが、前にも指摘したようにそういうことが平気で出来る時代はもしかしたら過ぎ去ったのかもしれない。そういう中で認知科学の現在がどうなっているかを語る予定だったが、すでに長くなっているのでそれは別の機会に…

前回は認知科学的な研究における専門領域への細分化についてつい長く語ってしまったが、もともとは今の自分が認知科学のどこに関心を持っているかを書くつもりだった。といっても、私ももちろん個々の具体的な研究テーマについても(素人があるがゆえに)それなりは幅広く知っているし、それはそれで好きなのだけれど、自分がもともと問題意識を持っていたのは認知科学の基礎の部分だったりする。

私が認知科学を好きになった学生時代、当時でさえ認知科学なんていっときのブームだと言われていたりもした。私は臨床心理学を学ぶために心理学科に入ったのだが、入学してそう経たないうちに幻滅して離れたのだが、かといって当時でさえ日本の心理学では行動主義が跋扈していてそれこそが科学的だとされていたのだが、それにもあまり興味が持てなかった。細かい経過が実は色々とあるのだがそこを端折ると、ともかく認知科学を見つけてその科学性と議論の面白さにすっかり惹かれてしまった。その中で認知科学は科学的だと納得したい気持ちが強まってきた。

一応は素人として調べれることは自分で調べて(内容は省略するが)個人的にはそれなりに納得の気持ちに落ち着き、そのせいもあって一時は認知科学の話から離れていた時期もあった。その後気が向いてまた認知科学に近づいてみたら、いつの間にか計算論が見直されていることに気づいた。その後比較的最近に人工知能の勉強もし直して、改めて疑問が生まれてしまった。認知(脳)の計算モデルとしてふさわしい基準って何なのだろう?

まずは認知のベイジアンモデルについては、シンプルな理論の場合はまだいいが、複雑なモデルになるとそれが本当に頭の中で起こっているのかどうも私にはよくわからなくなってくる。ニューラルネットワークは元々は認知モデルとして盛んに議論されていた時期もあったが、今のように独自に高度な発展を遂げたニューラルネットワークを見てしまうと、そもそもニューラルネットワークが脳のモデルとしてどこまでふさわしいのかよく分からないし、昔起こった議論の意義さえ疑わしく思えてしまう。

自分は計算論には好意的な人間だったが、最近はそれをどこまで認めるべきなのかさっぱり分からなくなってしまった。今更こんな疑問を抱いたって、いい加減に構ってられないからモヤモヤしてすっかり困っている。