なぜ陰謀論を信じるのか?の説明を説明する

最近相次いでラジオで、なぜ陰謀論を信じるのか?を学者が説明するのを聞いた。その説明がどのくらい説得的か?は色々だった。だが、それらを聞いていて何より感じたのは、これは単一の要因で説明できるような代物ではない…という強い感覚だった。

なぜ陰謀論を信じるか?のラジオで聞いた説明を順不同で挙げると、心理学者による認知バイアス政治学者による動機づけられた推論説宮台真司による権威主義的パーソナリティ説、があった1

このうち、認知バイアスと動機づけられた推論は人の一般的特性による説明宮台真司による説明は人の類型的特性による説明で、世の中で聞く説明にはこのどちらかに当てはまるものが多い。

動機づけられた推論について

この中で私が最も感心したのは、動機づけられた推論説だ。このブログでも前に注で動機づけられた認知として触れたのと同じ現象だか、(認知バイアスに比べて有名ではないので)知ってる事自体に驚いた(ただし、これに言及してる翻訳書は最近出てた)。

動機づけられた推論(motivated reasoning)とは、動機が推論に影響を与える現象だ。例えば、動画でスポーツの審判をさせると、同じ場面を見ていても自分のひいきするチームを有利な判定を下しがちになる。これは意図的にそうしてる訳ではない(本人は公正なつもり)なのが重要だ。

陰謀論を信じる心性を説明するには、認知バイアス説よりも動機づけられた推論説の方がよくできてる。なぜなら、単にすべての人に当てはまる認知バイアスより、その人の動機や欲求によって説明する方が、陰謀論を信じる人と信じない人の両者がいる事をうまく説明できるからだ(ただし元々の動機までは説明できない)。

個人の性格による説明

陰謀論を信じる人と信じない人の両者がいる事を説明できる点では、権威主義的パーソナリティ説は悪くない。ただ、これはナチス支持者を調査したフロムらによる研究が元なので、古い感は拭えない。しかし、目の付け所は悪くない。

おそらく現代でこれに当たる説明は、性格のビッグファイブの援用だろう。ビッグファイブはあのケンブリッジアナリティカにも用いられた心理学理論で、まさにフェイク(嘘)を信じ込ませるのに利用された。なぜもっと取り上げる人がいないのか?よく分からない。

とはいえ、人の一般的特性であれ類型的特性であれ、今だけでなく普遍的に人に当てはまることが前提なので、なぜ現在に陰謀論がこんなにも影響があるのか?には答えられていない2

フィルターバブルの影響

人の特性だけでは説明できないなら、その環境や社会にも説明を求めることになる。そんな説明の代表の一つがフィルターバブル説だ。

しかし、フィルターバブルは陰謀論を信じる維持をする役割は果たすが、そもそも陰謀論を信じるきっかけにはならない(なぜならきっかけはまだ情報がフィルタリングされる前だからだ)。

それから、ネットで異なる見解に触れてると意見が穏健になるとする人もいるが、これは根拠がない。まず、意見が中間的3なのは穏健のせいか?無関心のせいか?区別がつかない。なにより、集団分極化現象によって、反対の見解に触れることで、かえって元の見解を強めることが知られている。

メディアの限定効果説について

これもまた宮台真司がラジオで挙げていたのが、メディアの限定効果説だ4。メディアの影響を直接受けるとする弾丸効果説に対して、周りの人の評価を介してメディアは影響するとするのが、限定効果説だ。確かに、これは現代における個々人が別々にコンテンツに触れる状況に対応していて、(つまり誤りが他人に指摘されにくいので)納得できる所はある

ただこれも、たまに聞く最近自分の年配の親がYouTubeを見てネトウヨ化したという話があるが、結局は息子や娘のそれは間違っているとする意見を聞かなかったりする。弾丸効果説がそのままでは正しくないとしても、限定効果説がどう成り立っているのか?もよく分からない。

とりあえず終わり

他にも、なぜ陰謀論を信じるのか?の説明はあるかもしれないが、ラジオで聞いたのを含めて思いつく説明はだいたい書いてみた。

はっきり言えるのは、単一で説明できるこれだ!という説はなさそうなことだ。別の決定的な説明がある可能性もあるが、それよりも考えられるのは、いくつかの要因が重なっていることだ。

しかし、現代においてそうした知識が複数の分野にわたる説明をするのは難しい。各専門分野が専門分化されており、それらを正しく知るのも大変だが5、ましてやそれらをどう組み合わせるべきか?はもっと難しい。


  1. 認知的不協和理論による説明も聞いた覚えがある。認知的不協和理論では、例えば、作業をした後にもらった報酬が少ないと、その作業は楽しかった(役に立った)とすることで、心の不協和を直すとされる。だが、どう不協和を直すと陰謀論を信じるようになるのか?イマイチよく分からない

  2. もう一つ思いついた説明に、存在脅威管理理論もある。だが、単なる不安ではなく死の脅威を感じたときだけに現れる現象というのは、説明としてとても使いにくい。現代の人々に日々死の脅威を感じてる人が多くいるとでも?もしそういう研究結果が出たなら、この説明は採用します(それまでは保留)

  3. ここはあえて中立的とは書かない。両極端の真ん中が中立とするのは完全な幻想だ。両極端がズレれば、真ん中は簡単に移動する。だいたい、事実と嘘の中間が中立的だと思ってるとしたら、その人はむしろどうかしてる。客観的な証拠に基づいて事実を確定する方が、中立的のはずだ

  4. ただし、私は最近のメディア研究についてはあまり知らない。だから、この説が現在、どれくらい検証されているか?もよく分からない

  5. 私はネットで日本語で認知科学について調べているときに、他分野の学者の論文を読むこともよくある。単なる知識のひけらかしは論外としても、それおかしくない?という記述は幾度か見たことがある。学者とされてる人でも、そんな人はいる。本文では触れなかったが、知性が低いから陰謀論を信じる訳ではない。実際に賢い人が陰謀論を信じる現実もある。賢い人はもっともらしく情報を組み合わせるのが得意なので、かえって陰謀論を信じて続けるようだ(その場合は、事実に反してるのは論外としても、情報の選択や重み付けがおかしい場合がよくある)

トランプ問題とプラットフォーム問題は分けなきゃ駄目でしょ!

以前、このブログで人工知能の偏り問題についての記事を書いたことがある。

そこではAIの偏りの原因を因果(回帰分析)とサンプリング(データセット)の二つに分けて論じた。最近、データセットの偏りによって生じるAIの問題を論じた記事があがっていた。

この前の人工知能ブームには、ブームに乗って適当なことを書くミーハーが沢山出てきたくせに、いざこういう問題が表面化するとマトモに語れる人が日本にはろくにいないのに気づかざるをえない。頭痛くなってくる!

トランプのアカウント停止問題を考える

実は似たことが、この前のトランプのtwitterアカウント停止問題の際にも起こっている。それは、トランプ問題とプラットフォーム問題が安易にごっちゃに語られていることである。

私はこのブログでも、プラットフォームにAI的なアルゴリズムが使われていることを示唆したことがある程度には知識がある。そして、前からネット上で謎のtwitterアカウントの停止問題は聞いていたので、二つの問題が一緒にされがちなのはマズいと思うようになった。

トランプのアカウント停止問題へのよくある勘違い

まず、トランプのアカウント停止問題についてよくある勘違いに触れておく。

表現の自由が問題なのか?

一つ目はこれは表現の自由の問題だという主張。表現の自由は政府による規制が本来の問題なので、今回の民間企業の決定とは分けて話すべきだ。

例えば、雑誌でどんな記事を載せるか?はその雑誌の編集の問題であって、特定の記事が載らないからと言ってある雑誌を非難するのはおかしい。なぜなら別の雑誌にその記事が掲載されればいいだけだからだ。

雑誌とプラットフォームは違うというかもしれないが、その違いを日本で明確に論じているのを私は見たことがない。そして、私がこれから論じたいのは、そのプラットフォームとは何か?の問題だ。

メルケルの発言はヨーロッパ的な発想

もう一つはトランプのアカウント停止問題へのメルケルの発言だ。これは表現の自由についてのアメリカとヨーロッパでの考え方の違いが分かっていないと誤解する。

ヨーロッパ方式とアメリカ方式の違いは、許される表現の基準が行政を介して決まるか?民間で決まるか?の違いにある。どちらが正しいとはそう簡単には言い難い。

アメリカ方式の問題は見えているので、ヨーロッパ方式だけを扱う。手短に批判すると、ヨーロッパ方式はナチス礼賛は駄目だけどイスラム批判は良い…といった恣意的な基準が設けられており、未だにたまにそこで揉める。ヨーロッパ方式は別に必ずしも褒められる方式ではない。

トランプ問題とプラットフォーム問題は分けよう

ここで主張したいことはただ一つ、アカウント停止のトランプ問題とプラットフォーム問題は分けて論ずるべきだ!ということだ。これら二つの問題はごっちゃにされがちだが、安易に一緒にすると問題の本質を見逃す。

私が愛読してるブログに、その辺りの問題を示唆してる、日本語で読める数少ない記事がある。

Twitter、Facebookが大統領を黙らせ、ユーザーを不安にさせる理由

ダートマス大学教授の ブレンダン・ナイアン氏も、トランプ氏への永久停止は正しい判断だとしても、プラットフォームが行使するパワーには不安を覚えるとし、ツイートでこう述べている。

「[https://kaztaira.wordpress.com/2021/01/12/twitter_facebook_locked_out_president/: title]」より

トランプ問題とプラットフォーム問題はどう違うのか?

まず大きな違いは、アカウント停止が意図的かつ人為的であるかどうか?だ。トランプのアカウント停止は意図的になされたもので、その責任の所在がはっきりしている。対して、プラットフォーム問題の場合は、そのアカウントの多くが(AI的な)アルゴリズム1で勝手に管理されるので、責任の所在がはっきりしない。

もう一つの違いは、トランプ問題はアカウントが停止された事情が人々の目に見えていることだ。トランプのアカウント停止の理由は問えば答えられるはずだし、そこに潜む問題も直接に議論することができる。しかし、プラットフォームで日常的に行われているアルゴリズム的なアカウント停止は、その理由はよく分からないし、プラットフォーマー側でさえ答えることも難しい。

たまに、政治的なつぶやきをしたからアカウント停止された?と疑われることもある。そのくせ、なんでヘイトを垂れ流すアカウントが停止されないのか?疑問だらけなこともよくある。背景が目に見えるトランプのアカウント停止なんて、こんな日々行われているアカウント停止に比べれば、全然かわいいものに思える。

プラットフォーム問題とは何か?

プラットフォームは民間企業なので、どんなアカウント停止をしようが自由だ!という意見もなくもない。しかし、これは必ずしも間違ってはいないが、プラットフォーム問題を甘く見てる感は拭えない。

メディア問題としてのプラットフォーム

これは既に表現の自由問題で触れた、雑誌の例と比較すると分かりやすい。ある雑誌に自分の書いた記事が採用されなかったとしても、別の雑誌に応募したり、何なら自分で雑誌を作ってもいい。プラットフォームにこれと同じことが言えるのか?

雑誌と違って、プラットフォームがそんなに簡単に作れて乱立する訳がない。その点ではむしろ、雑誌を発行する出版社の方が近いかもしれない。雑誌がコンテンツの集まりだとしたら、出版社はそのコンテンツをメディアに載せて配る役割を果たす。こっちの方がプラットフォームのイメージにむしろ近い。

つまり、コンテンツの層とメディアの層はきちんと分けるべきなのだ2。コンテンツを配るメディアを司る装置として、以前なら新聞やテレビのようなマスメディアが優勢だったが、今やプラットフォームが多大な影響力を持っている。

おわり

多大な影響力を持ったプラットフォームが、責任の所在も曖昧なままに、偏りをも含みうるアルゴリズムで、理由も分からないままにアカウントを管理する…という状況をもっと本気で考えてほしい。

上にリンクしたのは、ケンブリッジアナリティカを告発したワイリーの本の書評だ。ケンブリッジアナリティカは意図的に情報を操作した3が、プラットフォーマーは意図せずに似た操作を行ないうるのだ。

トランプのアカウント停止という目に付きやすい分かりやすい問題に目を眩ませてはいけない。本当の深い問題はその奥にある。


  1. アルゴリズムがAI的かどうか?は二次的な問題で重要ではない。だいたい、あるアルゴリズムがAI的かどうか?の基準そのものが必ずしも明確な訳ではない。

  2. ただし、マスメディア時代はメディア管理とコンテンツ制作が結びついていて、その違いは明瞭ではなかった。たまに、(今と違って)昔のニュース番組は中立的で良かった!という人を見るが、昔は少数のマスメディアが多大な影響を握っていただけであり、それが中立的だったとするのは単なる幻想でしかない(ジャーナリスト論を勉強してね)。ただ、プラットフォームの中には特定のコンテンツと結びついてるのもあるので、そこはややこしい。コンテンツ層とメディア層の間にエディット層も加えた方がいいのかもしれない

  3. ただし、ケンブリッジアナリティカの選挙への影響力が過大評価されているという指摘もある。確かに、トランプの支持層を考えるとその指摘も分からなくもない。一部の過激化が目立ちやすいせいで、ネットの影響力が過大評価されてる気配がなくもない。でも逆に言えば、今でさえこれなのだから、この先どうなるのか?もう少し考えてほしい

最新のリバタリアニズム研究を紹介した記事を読む

ピーターさんがnoteに書いている、最新のリバタリアニズム研究を紹介する連続記事は、少し前からここで紹介したいと思っていた。

しかしだんだんと、これらはロールズノージックについてそれなりに知識ないと分からないのでは?と気づいてから、躊躇するようになってきた。このブログの読者に分析哲学が分かる人がどれくらいいるか?分からないが、日本の分析哲学の普及具合を考えると心許ない。

私がロールズの正義論の説明をしようか?とも考えたが、そんなのネットにも沢山あるだろうし、そもそもうまく説明できる自信がない。

しょうがないので、知識がなくとも理解できる部分を私が示して、それで面白いと思ったらがんばって読んでみてください…みたいな紹介にしたい。

快楽主義のパラドックスの引用でストレッチ

これからその部分を紹介するが、その前に本体の議論は知識がないと厳しいが、そこだけなら知識がなくとも読めるところを引用します。

快楽主義を例にしましょう。快楽の増大をあからさまに目的として行動すると、かえって快楽を得られなくなってしまうというパラドックスがあります。かなり単純な人がいたとして、もしその人がただ快楽を得ることを目的にした場合、その人にとってこの世のほとんどの活動(学問、芸術、スポーツなど)は快楽を得る手段であって、本質的には価値のある行為ではなくなるのですが、そうなることでむしろその人は快楽を得ることができなくなります。なぜなら、芸術やスポーツなどの活動というものは、まずその活動そのものを価値あるものとみなして打ち込まなければ最終的に快楽を得ることはできないのです。テニスを楽しむためには、まずテニスが単なる快楽を得る手段ではなくて、価値ある活動であると感じてテニスに入り込む必要があります。

このリバタリアニズム研究者を見よ(part3)」3 ロールズパラドックス より

引用部分は、分析哲学ってこういう議論の仕方をしますよ!というのを手軽に知るのに適切だが、残念ながら、これは本体の議論そのものではない。本文はこの後に、ロールズやパレートに触れているが、ロールズだけでなくパレートも知らないといけないので、私に手軽な説明は無理。

政府が作った制度を理由に自由を縛れるか?

これから紹介するのは、次にリンクする記事の 「2 "Legal convention"(法による慣習)に対する反論」にあたります。

ここでは、自分が所有するものは全部自分のものなので、そこから税金が取られるのは不当だ…と考えると野良リバタリアンの主張への(高尚)リベラルからの反論から始まります。

あるところに、「野良リバタリアン」がいたとします。彼は課税前の所得は自分の物であると主張しているようです。しかし、ネーゲルとマーフィーに言わせれば、課税前の所得は会計上のまやかしであって、課税後の所得が本来の正当な所得だそうです。なぜならば、現行の所得と財の保有パターンは政府とそれを支える税がないと成り立たないため、つまり社会制度のおかげで安全に稼げることができたのだから、所得にたいして自然権は発生しません。したがって、政府が金を勝手に取り上げていると野良リバタリアンが不満を呈しても、そもそも政府が存在しなければ経済活動を円滑に営めないのでそのお金は野良リバタリアンが独力で得たものではないことになるのです。したがって、個人が稼いだお金に対して課税することが正当化されます。

このリバタリアニズム研究者を見よ(part2)」 2 "Legal convention"(法による慣習)に対する反論 より

要するに、野良リバタリアンに対して、「お前の稼いだ財産は、政府が作った制度のおかげで稼げたのだから、政府を維持する政府に税金を払うべきだ」と反論できてしまう。

しかし、この形式の議論は財産権以外の他の権利にも簡単に広げることができる。noteの本文で出てくる例は身体についての権利だ。「お前の身体は、政府の作った制度によって安全に保たれてるのだから、(徴兵などによって)政府のために身体を差し出すべきだ」となる。

ここからは私的な展開も含む

noteではここまでの議論だが、この議論はいくらでも拡張できる。市民は政治に参加すべきだ!とする、シビックヒューマニズムを持ち出す強いタイプの共和主義者が喜ぶ結論も導けそうだ。それどころか、(社会秩序のために)人は政府に仕えるべきだという結論さえ導けうる。

つまり、自由を政府が作った制度を理由にして縛るタイプの議論は、どんな自由に対してもかなり当てはまってしまうので、最終的にはいかなる自由も失われてしまう。

したがって、高尚リベラルの主張する、財産権が真っ先に縛られるべきだ!とする議論は成り立たない。じゃあ、全ての自由が優先されるべきとする(極端な)リバタリアニズムが正しいのか?は、この後の議論となる。

おわりに

詳しくはnoteの記事を読んでもらうとして、結論だけ言うと、現在の政治哲学ではリベラルとリバタリアニズムの間を見出すのを目指しているようだ。もしかしたら、その有力な候補の一つがベーシックインカムなのかもしれない。