書評「この本を盗む者は」

  • 当初はアマゾン向けのレビューとして書いたが、長い上に内容がこれなのでこっちに掲載に変更

この本を盗む者は

深緑野分のアイデアは素晴らしいけれど、それが小説としては十分に活かされていない勿体無い作品

「ベルリンは晴れているか」で一般に広く知られるようになった深緑野分が、その次に出した新作。ある街に巨大書庫を作った一族の子孫である主人公の少女が、その書庫から本を盗むと発動される防犯装置を巡る不思議な事件に巻き込まれる物語

この作品は既に多くの人に褒められてるので、そこは最小限に。才能のある作家である深緑野分の優れたアイデアと文章が活かされた小説であり、そこは否定しない。ただ、ちょっとばかり褒められすぎ感が私には拭えない

この作品への不満点

この小説は、小説の中で別の小説のテキストを引用するような、フィクション内フィクション(やメタフィクション)の技法が活かされた、セルバンテスからイタノ・カルヴィーノに続く系譜を感じさせる。そこはさすが本好きの作者だが、その視点から見ると中途半端感がなくもない

一番困ったのは、小説内の小説のテキストによるパスティーシュとも呼べるジャンル模倣の出来が章によって差があることだ。例えば、固ゆで玉子の章のテキストより寂しい街の章のテキストの方がよっぽどハードボイルドっぽいことだ。この時点でテキストのジャンル模倣がうまくいっていない

もう一つは蒸気の章で、あえてジャンル名をつけるならスチームパンクかもしれないが、もちろんそんなジャンルの小説はあまり一般的ではない。模倣先のジャンルがないといけない…とは思わないが、それまでの章がマジックリアリズムにハードボイルドと小説読みにはお馴染みのジャンルの模倣だったので、一貫性が突然になくなるのは少し違和感がある

文体のジャンル模倣がいまいちうまくいってないことで、小説読み的なテキストへの愛がうまく表現されてないことにつながり、この小説の「本についての本」という側面があまり活きてない結果になっている。しかし、本当に違和感が最大になるのは、これらの小説のテキストの作者が明らかになったときだ

ネタバレしないように最小限だけ書くと、これらの小説内小説を書いた作者は実は本を読まない人物だとされる。本を読まない人が物語を書くことはあっても、マジックリアリズムやハードボイルドのような高度なジャンル的な模倣をするのはいくらなんでも不自然。この設定は色んな意味で萎えた

最後にはメタフィクション的な要素も出てくるのだが、既にテキスト的な技法が物語の中でうまく活かせてないのが分かっているので、全くのれない。この作者は本好きの小説読みのはずではないのか?

メディアに注目して作品を読む

この作品を読んで思ったのは、深緑野分は本当は小説好きというより物語好きなのかもしれない…という疑惑だ。だが、それは私がそれまで読んできた深緑野分の作品から感じた印象とは違う。もし作者がむしろ物語好きなら、長大なファンタジーを素直に書く方が欲求を満たせるはずだ。にしては、この作品の構想は凝りすぎてる

この作品を読んで感じた最大の感想は、深緑野分という作者が本当は小説好きなのか?物語好きなのか?分からなくなったことだ。もちろん、小説好きと物語好きは両立しうるが、その場合は書く作品はもっとシンプルなエンターテインメントになりそうだが、深緑野分はそうではない

小説好きはテキストというメディアをめでるが、物語好きはテキストであれ映像であれメディアに依存せずに物語をめでる。映画好きも映像そのものをめでる点で、小説好きと同じくメディアそのものを愛する

メディアへの態度の違いは私にとっては重要であり、深緑野分がどっちなのか?私は個人的には知りたい

どの研究成果に再現性がないのか?なんてよく分からんわ

心理学で実験的な研究が再現できない問題が話題になってから何年も経つ。私は現在の事情は把握しきれてないが、どうも教科書をかなり書き換えないといけない?と思わせるほどの、激しい動きになってるようだ1。最近草稿が出た再現性問題を扱った論文は、こんな書き出しで始まっている。

The 2010s were considered psychology’s decade of “crisis” (Giner-Sorolla, 2019;Hughes, 2018), “revolution” (Spellman, 2015; Vazire, 2018), or “renaissance” (Nelson et al., 2018) depending on one’s perspective.

2010年代は、人によっては「危機」とか「革命」とか「ルネサンス」とも称される、心理学の十年となった。

"Replicability, Robustness, and Reproducibility in Psychological Science"p.4より

革命とかルネサンスと呼ばれるには、心理学の先が明るいとは必ずしも言えない気がするが、言いたいことはなんとなく分かる。

それにしても、こうした再現性危機のせいで、いささかこのブログの記事も書きにくい2。最近もツイッターで、ある心理学研究が再現性がないのにある企業で採用されてるのに怒っているツイートを見た。私も事情を知らなかったのでそれを見て驚いた。だが、日本の有名な心理学雑誌のサイトでもその研究が紹介されてるのにも怒っていたので、必ずしも私が無知という訳でもないらしい。

追試が失敗した研究でも引用され続けてる

次に引用する最近の論文は、心理学だけでなく経済学やNature/Scienceも含めた学術誌に載った研究の再現性を確かめた追試がされた成果について調べた論文だ。

RESULTS Nonreplicable publications are cited more even after the replication study is published

結果 再現性を調べた研究が出版された後でも、再現性のない研究は多く引用され続けている

Marta Serra-Garcia and Uri Gneezy "Nonreplicable publications are cited more than replicable ones"p.1of7より

具体的な内容は論文を読んでもらうとして、再現性のない研究が参照され続けるのは、別に日本だけの問題でもないのだ。ちなみに、否定的な引用のせいで引用数が増えてるのではないことは、この論文の中で触れられている。

再現性のない論文が引用され続ける理由

Why are papers that failed to replicate cited more? A possible answer is that the review team may face a trade-off. Although they expect some results to be less robust than others, as shown in the predictions of experts, they are willing to accept this lower expected reliability of the results in some cases. As a result, when the paper is more interesting, the review team may apply lower standards regarding its reproducibility.

なぜ再現性に失敗した論文が引用され続けるのか?ありそうな答えは、レビュアーたちが取引すべき交換条件に面している可能性だ。レビュアーは(専門家の予測に見られるように)他の研究よりも確かでない結果だと思ってるにしても、レビュアーは時には確かさが低いと思われる結果でも受け入れようとすることがある。つまり、その論文が他より興味深くて面白いのなら、レビュアーは再現性について低い基準を採用することもあるのだ。

Marta Serra-Garcia and Uri Gneezy "Nonreplicable publications are cited more than replicable ones"p.4of7より

まぁ、確かだけどつまらない研究と不確実だけど面白い研究があったら、面白い方を取りたくなる気持ちは分からなくもない。

ただし、採用そのものでなく引用を調べてるのだから、レビュアーの心性でなく著者の心性を見るべきでは?という突っ込みはしたくなる。レビュアーが引用先の確かさをわざわざ確認してる…とはあまり思えない。むしろ、単に著者が追試の存在を知らないだけの可能性も高い気がする。

フェイクニュースについての研究でも、フェイクニュースそのものの広がりやすさに比べて、訂正記事はなかなか読まれないという成果を聞いたことがある。これはフェイクニュースの面白さ(訂正記事のつまらなさ)に由来するのだろうが、おそらく学術的な研究でも似たことは起こりやすいのだと思う。そうした辺りを調べるメタサイエンス(科学についての科学)…みたいのが本格的に必要とされてるのかもしれない。

  • 追記(2021/06/10) ここで取り上げた論文の紹介がされてます

  1. 最近は、(特に社会心理学の)古典的研究までかなり疑われるようになっている。ただ、例えば疑われているスタンフォード監獄実験なんてそもそもの再現自体が不可能だったのだから、単なる再現性問題の域を既に超えている。もとから心理学には神話が多かった(例えば狼に育てられた少年)のに、それが更に厳しく刈り取られることになりそうだ。私は心理学の目的そのものを書き換えた方がいいと思うが、その話は別の機会にする

  2. とはいえ、もともとこのブログは実験や調査を行なったオリジナル論文を紹介することはあまりない。現実には、私自身はレビュー論文を読むことの方が明らかに多い。その理由は簡単で、オリジナル論文を読んでもその領域の知識がないと内容を評価できない、と思ってるからだ。例えば支持政党が違うと脳の働きが違う…みたいな論文を読まされてそれをどう評価しろと?これは00年代にありがちだった極端な例だが、どっちみち単独の研究を簡単に一般化できる訳ない…とは個人的には前から思っていた。なので、再現性問題は私には比較的に受け入れやすかったのだが、それがここまで大ごとになるとは流石に思っていなかった。

日本はネトウヨもリベラルも前提の少ない一般化できる議論ができない

私は日本に跋扈するいわゆるネトウヨなんて馬鹿にしてるし、ネットでたまに見かけるネトウヨ的な発言も私には簡単に反論を思いつくことが多い。今の日本は、以前よりはネトウヨに反抗しやすくなり、状況は少しは良くなると思っていた。しかし、思ったより状況が良くなってない気がする。最近、その原因は日本のリベラルな論者にあると考えるようになった。

日本では、ネトウヨ的な発言にリベラルな論者が反論するときに、リベラルな価値観を当たり前の前提としてそれを振りかざすだけなことが多いことに気づき始めた。ラジオのある有名パーソナリティーがリベラルな価値観を当たり前の前提として発言していることには前から違和感があったが、どうもその傾向は日本のリベラルな論者に多く見られる傾向じゃないか?と思い始めた。

もしリベラルな価値観を本気で広げたいなら、リベラルな価値観を共有しない異なる価値観の人たちにも通じるように発言すべきのはずだが、日本のリベラルな論者はそれを怠っていると考えるようになってきた。

日本でネトウヨが跋扈したもう一つの側面

2000年代の終盤に大学の授業で「二大政党制と多党制と、どちらがよいか」で議論をさせたんです。そのとき「いっぱい政党がある意味がわかんない。独裁で正しい意見を実行してくれればそれでいい」と発言する学生がいました。最初はウケ狙いで言っているのかな、と思いながら対応したのですが、話しているうちにどうも素でそう思っているらしいぞと、気づいて驚いたことがあります。

歴史のない社会でどう「公共」を教えるか?與那覇潤インタビュー - 教育図書」より

日本でネトウヨが跋扈するようになった源は、左翼的なものに対する反動的な運動にある。反動的な勢力は基本的に差別主義者ばかりで、その主張される根拠も事実を捻じ曲げたものも多く、第三者的には説得力はない。よって、ネトウヨの跋扈は感情的な理由のせいにされがち(美味しい思いをしてる奴らがいるという思い込み)だ。しかし、反動的な運動は日本でネトウヨが跋扈した原因の片面でしかないと思うようになってきた。

上の引用にあるような、独裁でも別にいいじゃん!みたいな発言の背景に潜む感覚は、今の日本に広がっていると感じる。つまり、特定の価値観を当たり前の前提とした話し方は、日本では通じなくなっている。日本でネトウヨが跋扈する背景には、なんでリベラルじゃないといけないの?という素朴な疑問にあるのだが、日本のリベラルな論者はそうした疑問に真正面から答えることができてないのでは?と感じる。

前提の少ない一般化できる議論ができない日本人

最近だと、普遍的人権に対して権利があるから守られるべきだ!というツイートをみた。これは自然権論を前提にした発言だが、そもそも日本に自然権を信じている人が大多数だとは思えない。私だったら、人権を普遍的に設定するのは権力による恣意的な基準を防ぐためだ!と主張するが、これだと余計な価値的な前提があまりない1

結論としては、日本ではネトウヨかリベラルかそれ以外でもかなり幅広く、できるだけ前提が少ない一般化できる議論を展開できる人がとてつもなく少ないことだ[^1]。なぜ独裁制じゃ駄目なんですか?と聞かれて、ちゃんと答えられるだけの能力の人が日本に増えない限り、日本の状況が良くなる気配さえやってこないと思う2


付録;なぜ独裁制じゃ駄目なの?に少し答える

なぜ独裁制じゃ駄目なの?という疑問に対しては、私だったら「独裁者が常に正しく自分たちのために働いてくれるとでも?それは独裁者の能力や良心に頼りすぎじゃない?甘すぎだわ!」と一蹴しておしまい。

これで終わりはあんまりなので、アルチュセールによるマキャヴェリの歴史の循環理論の説明が分かりやすいので、まるまる引用しておきます3

社会のはじまりにおいては、「偶然が人間のあいだに、ありとあらゆる種類の政体を誕生させた」。人間は最初、獣と同じように、あちこちに散らばっており、数も少なかった。「人類の数が増えだすと、結集して身を守る必要性を感じられるようになった。この最初の目的をよりうまく達成するために、最強の人間、もっとも勇敢な人間が選び出された」。これが「社会への結集の時代」である。すぐさま、人間のあいだに利害対立が生まれるようになる。「こうした害悪を予防するために、人間は法律を作ることに決めた」。これが法(正義)の起源であり、法(正義)は首長の選出を左右するようになった。「もはや最強の者にももっとも勇敢な者にも頼らず、もっとも賢く、もっとも正しい人間に頼るようになった。」これが最初の政体、君主制である(Ⅰ)。

-「哲学・政治著作集〈2〉」p.701-2より

…中略…

ということで、私たちは君主制の誕生に立ち会った。そして、この君主制専制に堕していくことになる。君主の後継者たちは君主がもっていた徳を失い、贅沢におぼれ、軟弱になる。そして、臣下たちに憎しみが生じる。王はこの憎しみを恐れ、恐怖によってそれに応える。専制と横暴である。

マキャヴェリによると、それに続く無秩序は、民衆からでなく、諸侯たちから出てくるという。

諸侯たちが王に対して反乱を起こし、民衆は彼らに続き、王を倒す。そのとき権利を握るのは諸侯たちである。これが貴族制(Ⅱ)であり、貴族制もまた堕落して、寡頭制になる。寡頭制もまた専制的である。君主制と同じプロセスをたどって、権力を握った最初の貴族たちのあとに続く貴族たちが、政体の堕落を引き起こすわけである。彼らは父親たちの徳を忘れ、民衆の憎しみを引き起こして、民衆に対し僭主となる。

民衆はまたしても、新しい主人たちに対して反乱を起こす。万策尽きた結果、残るは「民主制(Ⅲ)」だけである。するとまた、同じプロセスが現れる。初代政府のあとに続く者たちは、先人たちの徳を失い、やりすぎあるいは無策によって、民衆の憎しみを爆発させる。民主制は「放縦」へと堕落する。民衆は反乱を起こし、新しい主人を探す。その彼が王となるだろう。円環が閉じられる。

-「哲学・政治著作集〈2〉」p.702-3より

ちなみに、この後は循環理論に代わる説が提示されている。アルチュセールなんてどうせマルクス主義者でしょ!という偏見をなくして、アルチュセールの思想史を直接に読むと実はとても面白い(巷のアルチュセール論は読んじゃ駄目。アルチュセールのいわゆる主著もお勧めしない)。

あと、こんなのを引用するのを見れば分かるように、私は民主制を素朴に擁護する気はない。そもそも最新の政治理論(哲学)では、エピストクラシーやロトクラシーのように、従来の民主制とは異なる政治制度について真面目に論じられている。


  1. ただし、人権における普遍性とは何か?の疑問がさらに出てきうる。特に、最近流行りの動物の権利論は人権の普遍性を突き崩す危険なものだと思うが、それは応用編なのでこれ以上は扱わない

  2. ただし、私はネトウヨ(やリベラル)を直接説得できるとはあまり思っていない。そうではなく、その議論を見ている第三者が物事を考え直すきっかけになることの方が大事。てか、ちょっと相手が黙ったぐらいで論破!と叫んで騒ぐような馬鹿なネトウヨ(および論破なんて意味ないと断言するだけの高慢なリベラル)をどうすれば説得できるか?こっちが教えてほしい

  3. もちろん、以下の引用での説明は歴史的な事実とは関係がない。こういう説明は、合理的再構成とか歴史的再構成とかと呼ばれるものであり、文字通りに正しいことを意味していない。こうした再構成は議論や教育の上で役立つのであり、事実と違う!という理由で否定するのは違うと思う