人の振る舞いのルールは変わるのか?を哲学的に考える

最近インターネットである記事を読んでいたときに、クリプキの「ウィトゲンシュタインパラドックス」における議論が、ルールの改定を含意してるかのような言い方をしているのが目についた。これは端的に間違っているので困ったなと思ったが、この話は前々から書きたいテーマと結びついているので、試しにここで論じてみようと思う。

クリプキの議論にはルールの変更が含意されているのか?

クリプキが「ウィトゲンシュタインパラドックス」で提示したクワスの議論は、クリプキによる独自のウィトゲンシュタイン解釈を示すものとして知られている(時にクリプケンシュタインと揶揄的に呼ばれる)。クリプキの議論は、規則に従うこと(rule following)についての議論として様々な学者によく論じられている。

クリプキの議論は、計算で使われている「+」が通常の加算である「プラス」なのか特殊な加算である「クワス」なのか区別がつかないという話だ。この議論は、次にリンクした論文ではパトナムのモデル論的論証(特に入れ替え論法)と同型の議論だとしている。

藤田晋吾ウィトゲンシュタインの数学の哲学」
https://tsukuba.repo.nii.ac.jp/record/3229/files/11.pdf

私もクリプキの議論とパトナムの議論はそっくりだと思う。そもそもパトナムの議論(モデル論的論証)は、クワインの指示の不可測性やグッドマンのグルーのパラドックスを一般化したものであり、これらは全般的に反実在論的な議論とされている1

反実在論的には、そもそもルールの変更なんて存在しない

これらの反実在論的な議論に見られる共通の特徴とは何か?それは、他人の従っているルールを客観的に特定することの不可能性である。それを説明するために、ここではグッドマンによるグルーのパラドックスを(少し変えて)取り上げる。それまで見かけたエメラルドは全て青色だったので、「エメラルドはアオである」と考えるとする。そこである時に緑色のエメラルドを見たとしたら、「エメラルドはアオである」は間違っているのだろうか?もし、アオが全てが青色である(ブルー)を意味してるなら間違っていると言えるが、そもそもアオがある時点より前なら青色である時点より後なら緑色である(グルー)を意味してるとしたら間違っているとは言えない。つまり、使われている「アオ」が「ブルー」なのか「グルー」なのか分からない…と考えると、クリプケンシュタインと同型の議論になる。

ここで重要なのは、それまでの事実が全て確定されていたとしてもどのルールに従っているのか?は客観的には分からないことだ。反実在論的な議論にとって重要なのは、ルールが確定できないことであって、ルールの変更とは何の関係もない。グルーのパラドックスを見ての通り、ルールの変更(青色から緑色へ)そのものがルールの一部である。ルールの変更そのものが基準となる規範的なルール(青色や緑色)からしか理解できないのであるが、その基準となるルール語にも再びパラドックスが当てはまってしまう 2

反実在論的な議論はそれ自体がとても興味深いものであるが、切リがないのでここではこれ以上の深い話はしない。次は、こうしたルールについての勘違いがどうして起こるのか?を探ってみたい。

ルールについての議論が勘違いに陥る理由を探る

人々は文字通りに法律を守るべきなのか?

インターネットを見ていると「法律を守れ!」と熱狂的に叫んでる人をよく見かける。この人たちは、人が法律を守るのは当たり前だと思っているようだが、私は変な人たちだな?としか思わない。

そもそも、この世に文字通りに全ての法律を守っている人などいない。もしいるとしたら、その人は全ての法律を知っていないといけないが、もちろんそんな人はいない(いたら、むしろ狂人)。(公務員や法的試験を受けた資格者のように)職業上で法律を守っている人はいるが、その人たちだって日常生活では文字通りに法律に従っている訳ではない(そもそも仕事に関連した法律以外は知らないはずだ)。

たとえ法律を知っている資格者であっても、人々が法律を守っていないよく知られた事例がある。それは車の制限速度だ。日本では車の制限速度を文字通りに守っている人は少ない(むしろ制限速度を守っていると嫌がらせを受けることさえある)。そんなに法律を守るべき!と騒ぐなら、もっと制限速度を守れ!と騒ぐべきだ。「法律を守れ!」と騒ぐ人たちは、(自分に都合よく)選択的に特定の問題で騒いでるだけとしか思えない。

法律のそもそもの役割は紛争解決機能にある。法律は人々がそれに従うためにある訳ではない。人々が法律に従っているように見えるのは結果であって、人々が意図して法律に従っている生活している訳では必ずしもない。人が赤信号を渡らないとしたら、もちろん事故にあいたくないのが一番だが、たとえ事故にあっても自分に責任はないと言えるからでもある。逆に言えば、自己の責任で赤信号を渡ることが絶対に禁止されている訳ではない(ただしお勧めもしない)。あくまで、法律は人々の生活のため(生活の中での紛争を解決するため)にあるのであって、逆なのがおかしい。

ここからは法哲学(法のルールとは何か?)や社会科学の哲学(人の振る舞いのルールとは何か?)での議論にも突っ込めるが、ここまでにしておく。なんで、こんな法律の話をしたのか?と言うと、それは次の話につなげるためだ。

記述的ルールと規範的ルールを区別する

リプケンシュタインへの勘違いや法律守れ論に共通する間違いは何か?それは記述的ルールと規範的ルールとの混同だ。

人々の振る舞いが文字通りにどんな風な規則性を持っているのか?を表すのが記述的ルールだとしたら、(目的はどうであれ)人が従うべき規則性を表すのが規範的ルールである。この二つは全く別物なのに、ごっちゃにされがちだ。

人がルールを守ったり変えたと言えるためには、外から観察できる振る舞いを評価する基準が必要である。そのためには、規範的ルールとの比較が必要となる。対して、記述的ルールの場合は、そのルールを知れるか?だけが焦点であり、ルールを守ってるとか変えたとかの評価とは関係がない。 人がどんなに突飛な振る舞いをしようとも、記述的には必ず何かしらのルールに基づいている(守ってるのではない)と言える。

ただし、規範的ルールについては論理や数学に当てはめようとするとややこしいことになるのだが、ここではその議論はしない。 しかし実際のところ、記述的ルールと規範的ルールの混同による誤りがよく見られることには変わりがない。


  1. ちなみに、スティッチの「理性の断片化」における心理意味論による議論も、これらの反実在論的な議論と同型にしか私には見えない。ただ、学者がそういう指摘をしてるのを私は見たことないので、この注で示唆するに留める。
  2. ちなみに、事実の範囲を個人から共同体に拡張しても、事実は所詮は有限なので、ルールの確定には役立たない。それから、ここでの議論は統計モデルへの応用は簡単にできる(データとモデルを想定すると、有限のデータから真のモデルの確定は[究極的には]できない[過剰適合がいくらでもありうる]。できるように思えているのは、実際にはオッカムの剃刀的な前提を置いてるからだ)。

セラーズ右派と左派への分岐をその起源に遡ってみる

最近読んだ、川瀬和也「言説的実践とヘーゲル的相互承認」という論文が面白かった1

この論文の中で、セラーズ左派とセラーズ右派の話題が出てきて、気になったところがあったので、参照文献からその元となる論文 James R. O’Shea"Introduction : Origins and Legacy of a Synoptic Vision"を探したら、見つかったので読んでみた。

このO’Sheaの論文を読んだ結果、冒頭の論文で読んだセラーズ右派とセラーズ左派の説明に感じた私の懸念は当たっていたようだ。

セラーズ右派と左派は言語使用の説明を議論の出発点にするという、語用論的な枠組みを共有している。

川瀬和也「言説的実践とヘーゲル的相互承認」p.70より

論文では、この後でセラーズ右派と左派で言語実践をどう説明するか?の違いを論じている。言語実践についての説明部分は、この引用の文が正しいかどうか?に関わらずに読めるので、論文全体への影響は少ない。この論文そのものは面白いのでお勧めできる。ただ、部分の小さな疵がどうしても私には気になってしまったので、ここで語ってみようと思う。

セラーズ派の分枝の源を探る

まずは、 James R. O’Sheaによるセラーズ派の説明を翻訳して引用しよう。

セラーズ左派(おそらく最も有名な例としてはRichard Rorty, Robert Brandom, John McDowell, and Michael Williams,他)であり、典型的なセラーズ右派(大抵そうみなされるのはRuth Millikan, Paul Churchland, Jay Rosenberg, Daniel Dennett, and Johanna Seibt,他)は、規範的なものは究極的には消去可能または科学的に自然なものに還元可能だと信じている。

James R. O’Shea "Introduction : Origins and Legacy of a Synoptic Vision" p.2より

ここでの右派と左派の分類に個人的な意見がなくもないが2、それは脇に置くと、大事なのは規範(norm)と自然(nature)との関係である。言語は規範的なものの代表かもしれないが、議論の出発点と言うのはさすがに言い過ぎだろう。私の印象では、セラーズ右派は最終的には言語実践をも(特に進化の側から)説明したいと思っているが、実際にはそこまで成功してるようには見えない。

ここでの規範(norm)と自然(nature)との関係は、セラーズの有名な論文に源がある。それはSellars"Philosophy and the Scientific Image of Man"(「哲学と人間の科学的イメージ」)における、manifest image(明白なイメージ)とscientific image(科学的イメージ)の議論に遡る。科学的イメージとは、自然科学によって得られるような世界観である。明白なイメージとは、私達が当たり前のように理解している世界観であり、これによって人は世界の中で人として生きていくことができるような世界観である(フッサール的にはこれは生活世界に値するかもしれない)3

セラーズが生涯をかけて哲学的に試みたのは、明白なイメージ(規範)と科学的イメージ(自然)をどう総合させるのか?であった。この疑問に対して、左派は規範寄りに右派は自然寄りに統合を果たそうとしていると言える(ただし、セラーズ自身は一方への還元を望んでいたとはあまり思えない)[^3]。

それにしても、セラーズが提示したい二つのイメージは様々なところで変奏されて現れてくる。前回の記事にあったように、構築主義進化心理学との対比にも似たところがあり、文化(学習)と進化の統合が目指されていた。統合なんてそんなにはできやしない。


  1. ただし、以下で触れるセラーズ派の話題の他にも、私にはよく理解できない部分もあった。「私が見る限り、この問題の根は、ブランダムが哲学的説明において公理系モデルに囚われていることにある」(p.70)とあるが、論文での説明を読んでも私の知識からしても、ブランダムの哲学のどこが公理的か?さっぱり分からない。公理系とは、ユークリッド幾何学のような第一原理から始めて全体を導くタイプの体系を言う。基礎付け主義は公理的だと思うが、ブランダムは全く基礎付け主義的ではない(むしろ逆)。ブランダムの推論主義はダメットの証明論的意味論との関連もあるが、そこから考えても全然公理的ではない。そもそもブランダムの哲学が非プロセス的だというのも、私にはとても承認できない(私には逆に見える。ただし、ヘーゲル精神現象学を文字通りの発展[発達や進化]と読むなら話は別だが、今どき[なんの再構成もせずに]その読み方をするのは、[ヘーゲル自身がどう考えていたのであれ]問題がある[科学的に否定されておしまい]。この論文の著者には公理系について根本的に勘違いがあるように思える)。ただし、この部分は論文全体への影響がほとんどないので、論文の価値をそこまでは下げることはない。
  2. 例えば、(素朴心理学の)消去主義で有名なポール・チャーチランドを右派に入れてるが、左派の代表であるローティは消去主義の初期の提唱者としても知られている。つまり、消去主義者であることは右派か左派か?の基準には使えない。
  3. Millikan, R. "The Son and the Daughter: On Sellars, Brandom and Millikan"において、ミリカンは「論理哲学論考」の前期ウィトゲンシュタインと「哲学探究」の後期ウィトゲンシュタインの関係として、セラーズの二つのイメージを説明してる(もちろん「論考」が科学的イメージで「探求」が明白なイメージに対応)。

人の心の普遍性という原理を超える認知科学の方向性を考える(追記つき)

近年の心理学では、実験結果が再現されない再現性問題が論じられようになってすでに長い。再現性問題にはいくつかの原因があるが、その一つにWEIRD問題がある。WEIRDとは、西洋の,教育を受けた,工業化された,豊かな,民主主義社会の…の頭文字を取ったもので、心理学の研究対象(被験者)がそうした人たちに偏っているせいで、研究成果をWEIRDな人々以外に一般化できない問題である。これについては以前にここで記事を書いたので、詳しくはそれを見てください。

こうした問題を背景として、古典的な認知科学に潜む隠された前提を暴き、新しい枠組みを提示してこれからを展望する興味深い論文(プレプリントの草稿)を読んだ。その論文の内容を大雑把に私の解説付きで紹介してみたい。

Ivan Kroupin, Helen E. Davis and Joseph Henrich "Beyond Newton"
https://psyarxiv.com/a4qx3/

ヘンリックら「ニュートンを超えて」を読む

この論文の著者の一人のヘンリックは、もともとは文化進化の研究で有名な研究者であり、近年はWEIRD問題を提示したことでも知られている。この論文では、WEIRD問題が起こった背景には、古典的な認知科学が持っていた隠された前提があると指摘している。

私達はニュートン原理と呼ぶにふさわしい歴史的な傾向を提示する。つまり、認知科学に固有の主要な研究対象は心の普遍的な特性であるという原理だ。認知科学のこのような原理の元には、普遍性の強調や特定の領域に限定されない一般的な[心的]処理と安定的に発達する特徴を見つけ出す立証が伴っている。ということは、当然ながら文化的な変異は周辺に追いやられる、なぜなら変異は人の普遍的な特性にはなれないからだ。

Ivan Kroupin, Helen E. Davis and Joseph Henrich "Beyond Newton"preprint p.6より

ニュートンが世界の普遍的な法則を見つけ出したように、認知科学(特に心理学)も物理学と同じように普遍的な法則を見つけ出すべきだという隠された前提がある。これは(20世紀半ばの)認知科学の登場と深い関わりのある前提であり、これによって当時の心理学の主流であった行動主義に対抗して勃興していった(本当は行動主義との関連はもう少し複雑だがそれは省略)。

1990年代に入ると、相対主義的な構築主義に対抗する形で(モジュール論的な正統派)進化心理学が勃興してくるが、それは心の普遍性を探求する認知科学の試みを背景にして現れている(ただし、同時期に認知科学ではコネクショニズムの流行りがあり事情はもう少しややこしい。なので、心の普遍性を追求する場合は[論文中でも]古典的認知科学と呼んでいる)。

しかし、その心の普遍性を探る古典的な認知科学は、再現性問題やWEIRD問題に代表されるように、危機に晒されつつある。

認知科学の境界問題をどう解くか?

認知科学に固有な主要問題の境界には根底的な緊張がある。電子と違って、人間を同じ一つの対象であるとは言えない事実にそれは基づいている。つまりは、科学的な一般化が及ぶべき人間性の範囲がどれくらいか?を決める必要がある。

Ivan Kroupin, Helen E. Davis and Joseph Henrich "Beyond Newton"preprint p.14より

研究の対象となっている人々が、西洋の豊かな人たち(いわゆるWEIRD)に偏っているせいで、その成果を他の文化の人たちにそのまま適用することが困難になっている。そこには認知が現れる文化的な環境への注目が欠けていることが伴っており、実験成果を実験室外へと一般化して解釈することの難しさともつながっている。

古典的な認知科学が前提とする心の普遍性を求めるニュートン原理に問題があるとして、じゃあそれを単純に放棄すればいいのだろうか?それでは、進化心理学以前の(なんでもありな)相対主義的な構築主義に逆戻りするだけであり、なんの問題の解決にもなっていない。

結局のところ、ニュートン原理の楔を単に退けてしまうと、[認知科学の]境界問題への解答を失うことにしかならない[…略…]。言い換えると、単にニュートン原理を退けることは、長続きしないであろうニュートン原理への固執と比べても、よっぽど持続しそうにない。

Ivan Kroupin, Helen E. Davis and Joseph Henrich "Beyond Newton"preprint p.15より

法則の成り立つ境界はどこにあるのか?という疑問に対して、心の普遍性を前提とするニュートン原理はもっともシンプルな解答を与える。では、その原理には問題が生じたから単に放棄すればいいのか?それだと、今度は境界問題を無視することになり、(説明を放棄する)相対主義的な構築主義(論文中では解釈学的な手法と呼んでいる)に戻ることでしかなく、科学的な研究プログラムとしては後退としか言いようがない。

ニュートン原理に代わる枠組みを提示する

論文の著者たちは、こころの普遍性を前提とするニュートン原理に代わる別の新しい枠組みを提案している。その新しい枠組みは主に二つの要素から成り立っている。それは文化進化(Cultural evolution)と接合の原理(The principle of articulation)だ。

この論文の著者の一人のヘンリックは、文化進化の研究で有名なので、文化進化を持ち出すは理解できる。文化進化とは、人の振る舞いや信念のような文化が人から人へと伝えられては生き残っていく過程を指しており、生物学的な進化とのアナロジーで成り立っている。

ただし、著者たちは文化進化では境界問題への解答としては不十分だと感じており、著名な文化進化の研究者の割には論文中の説明はあっさりしている。むしろこの論文の肝は、次の接合の原理にある。

認知的特徴を局所的な環境と結びつける接合の原理

著者たちがニュートン原理に代わって本当に提示したいのは接合の原理(The principle of articulation)である、これこそが、文化進化だけでは解けない境界問題を解くとされている。では、接合の原理とは何か?

接合の原理(The principle of articulation)とは、認知科学に固有な主要問題は認知的特徴と(文化的)環境との間を結びつけることであるとすることだ。

Ivan Kroupin, Helen E. Davis and Joseph Henrich "Beyond Newton"preprint p.22より

articulationはjointと同じような意味らしいので結合の原理と訳してもいいが、ここでは勿体ぶってこう訳した。認知的特徴は系統発生と個体発生を通してその環境の中に現れる。進化的適応の環境(environment of evolutionary adaptedness;EEA)において現れる場合は、進化心理学の対象となる。対して、接合の環境(environment of articulation;EOA)はそれとは異なる。ヴィゴツキーは認知的特徴のローカルな環境との関係を強調したが、それとアイデアは似ている。

論文中では、普遍的な接合と局所的な接合に分けて説明されているが、私には正直なところ普遍的な接合と進化的適応との違いがあまり良く分からないので、ここはごまかします。どっちせよ、ここで重要なのは圧倒的に局所的な接合(Locally-articulated features)なので、こっちだけを扱います。

接合の原理を具体例で説明する

論文では具体的な例として流動性知性を出しているが、ここでは簡単に説明するためにフリン効果を挙げます。フリン効果とは、世代を経ると共に知能テストの点数が上がることだ。これは単純に教育の効果だと説明されることもあり、これだと教育によって知性が上がったと解釈できてしまう。というよりも、人々が学校的な環境にだんだんと適応していった結果として、テストを受けるという文化に馴染んでいったと考える方が自然だ。この場合、子供だけでなく家庭も学校文化に合うように変化していったと言える。テストの点数が単に普遍的に知性を表してると考えるとは、点数の低かった昔の子供は知性が低いとすることになるが、これは私には馬鹿らしい考え方(はっきりいうとただの偏見)でしかない。テストという文化に馴染むことと知性の問題は同じではない。

論文ではもっと早い段階で実行機能の例が出ているが、その説明は略されてて分かりにくいので、ここではマシュマロテストの例で説明します。マシュマロテストとは、子供が目の前に出されたマシュマロを指示通りに食べるのを我慢できるのか?調べる方法であり、これによって自己をコントロールする実行機能が測れるとされていた。しかし、最近ではマシュマロテストは家庭環境(貧富)によって影響されることが分かってきた。つまり、貧しい家庭環境では我慢せずに早く食べることが子供にとって適応的(食べれるうちに食べておくべき)なのだ。

他にも読み書き能力や数える能力の例もあるが、人類学的な事例を説明するのは私には重荷なのでここではやめておきます。どっちにせよ、人の認知的特徴をその人のいるローカルな環境との関係で見ることの重要性は示せたのではないかと思う。

これからの研究の方向性を展望する…そして反省会

最後に論文では、ニュートン原理を超えるため必要なこれからの研究の方向性を提示している。文化的環境を調べることで境界問題を解こう!とかWEIRDではない人々の認知発達を調べよう!とかWEIRDな人々の認知的特徴が局所的な環境どう結びついているのか?とか、総合すると文化的環境とは何か?を重視しよう!と主張している。

ちなみに、論文の途中に自由エネルギー原理やベイズ脳の話も出てきて、これらは接合の原理と両立はするがその方向への研究は進んでいないとしている。

最後に反省会

実は、この記事を書くためにここで挙げた論文を再読していたのだが、その時に論文の欠点に気づいて、あらためて記事を書くか?を迷ってしまった。

その欠点とは、文化進化と接合の原理がつながっていない疑惑だ。記事の中でマシュマロテストの例を出したが、これは論文を読んでいて思いついた説明だ。マシュマロテストによる説明だと、家庭環境への適応という接合の原理が成り立つが、これは受け継がれた文化と考えるのは無理がある(学校文化の場合は必ずしもそうでもない)。文化進化はそれ自体としては興味深いと思うが、文化進化を取り上げるのはこの論文の文脈に合っているのか?疑問に思ってしまった。

生物学的な進化の場合は、遺伝子淘汰と適応主義は(多少の例外はあったとしても)だいたい結びついている。淘汰の単位が遺伝子であることと適応してない個体はその遺伝子と共にいなくなる(死ぬ)ので、矛盾をあまり感じない。しかし、文化進化の場合は、淘汰の単位もいまいち分かりにくいし、適応してない個体がまるまるいなくなる訳でもない。つまり、文化進化の結果としての適応と接合の原理の結果として適応が必ずしも一致していな気がする。要するに、生物学的な進化と違って適応へと至る道すじが一つではない(人からの伝達か試行による学習か)。

とは言っても、構築主義進化心理学か?みたいな問題のある二項対立に戻る気は一切起きない。それに、接合の原理にはアイデアとしては魅力がある。とはいえ、具体的な研究の方向性が見えるとは言いがたい。色々と疑問はあれど、今年読んだ中ではもっとも面白い論文だったから十分に満足だ。

追記(9/20)

コメント欄への書き込みがうまくいかない(だからコメント欄のやり取りは基本しない)ので、id:katsuya_440 さんのコメントにここで答えます。

まず、記事では無視した普遍的な接合と進化的適応との違いに関わる場合は、私にはよく理解できません(原典を読んでくれ)。ただ、コメントを読んだ感じでは、ジーン(遺伝子)とミームの違いがついてない気もします。私は用語としてのミームは好きではない(学術的にもあまり使われない)ので使いませんが、そう説明すると分かりやすく気がします。ジーンによる適応とミームによる適応は別物です。これは文化進化の前提となる二重継承説でもあります。

あと、記事では触れませんでしたが、遺伝子と文化の共進化もありえます(よく出る例は乳糖分解遺伝子)。しかし、それは特殊な例であり、文化進化や接合の原理とはこれまた別物です。

遺伝子を介した適応(系統発生)と、伝達や学習を介した適応(個体発生)は、基本的に別の過程であり、重なることはあっても稀だと思います。

追記(9/22)

返答、ありがとうございます。コメントを書くのが嫌いというより、コメント欄への書き込みがうまくできないので困ってるだけです。この感じの返し方でも良ければ、またコメント下さい。

正直、進化心理学といわゆる社会生物学(行動生態学)との関係は私にもそんなによく分かりません。種淘汰が間違っていて、遺伝子淘汰が正しいのは知っています。にも関わらず、人という種を基盤にした進化心理学が出てきたのは、歴史的な事情があると思います。

1990年代の進化心理学の登場当時、それまでの社会生物学による人間の扱いが論争の的だったのに対して、科学的な心理学に基づいた正統派進化心理学が現れた印象です。ただし、(性差を扱う)ディビット・バス辺りの進化心理学は正統派とは違ってて、私からすると正直怪しく、その後の進化心理学のブームでは、黒人やユダヤ人の特性を進化的に説明する試みが出たりして、論争になったのを覚えています(エビデンスの話は別にしても、そもそも人種や民族の概念の曖昧さが進化的説明と相性が悪い)。2000年代の(あまり証拠に基づかない)進化心理学ブームの怪しさへの反省から、2010年代に入るとモジュール論的な正統派が強調されるようになった気がします。研究プログラムとしては、最初に出た正統派進化心理学こそがちゃんとしてると思います(なんでも進化的に説明しちゃえ!が流行りすぎた)。病気の進化的説明のような事例と違って、人の心を進化的に扱うのには、(証拠の扱いも含めて)論争が多くなりがちなようです。ただし、これらは欧米の事情であって、(00年代には進化心理学が流行らなかった)日本では事情は違うと思います。

ちなみに、この記事はかなり私なりの独自の説明が入っているので、元の論文とは色々と違います(例えば、元の論文には進化心理学の話はあまりない。分かりやすくするために加えた)。元論文の本質を歪めたつもりはないですが、そこは気をつけてください(ただの要約が欲しいならAIに頼めばいいので、私が書く必要はない)。

最近思うのは、なんで進化心理学は再現性問題の影響を受けてないように見えるのか?不思議なのですが、その私の疑問がこの記事に反映してるのかもしれません。

追記(9/23)

私も進化心理学の最近の実証的な研究に詳しい訳ではないです。ただ、欧米での一時の進化心理学のブームはすごすぎました。それに比べると最近は大人しいと感じますが、日本でも最近は進化心理学好きは増えてるようです。

進化心理学というと、やはりピンカーと嘘つき検出器の影響が圧倒的で、私も嘘つき検出器を知ったときは衝撃を受けました。ただし、嘘つき検出器に匹敵する成果がどれだけあったか?と問われると、考え込んでしまいます。

ダンバーは私は比較心理学の人だと思っていたので、日本でされる進化心理学者との紹介は個人的には少し違和感がありますね。京大の霊長類研究所でされてたのも比較心理学だと思います。比較心理学は心理学には昔からある伝統的な分野なんですけどね(それに比べたら進化心理学は新参者)。進化心理学と比較心理学は、適応主義と系統発生論とで(進化に対する)研究の接近法に違いがあるんですけどね。比較心理学が人に近縁な種を研究対象に選びがちなのはその辺りの事情があります(この話は記事にしようとしたけどやめた覚えがある)。

研究不正の問題と再現性問題はあくまで別なので、分けた方がいいと思います。ただし、言われて気づいたのですが、研究不正が起きたのはどっちも比較心理学ですね。再現性問題が最も深刻なのは社会心理学ですし、この辺りは研究対象の特性になんか関係あるのかもしれないですね。

とはいえ、例えばトマセロも比較心理学(と発達心理学)の研究者ですし、岡ノ谷一夫もどちらかと言えば比較心理学者だと思います。比較心理学の重要性は下がってないと思います。むしろ犬だの蛸だのハダカデバネズミだの、人との近縁性から離れた動物の心の研究が色々と出てきて、これからますます面白くなっていく気もします(というか、なってほしい)