人の振る舞いのルールは変わるのか?を哲学的に考える

最近インターネットである記事を読んでいたときに、クリプキの「ウィトゲンシュタインパラドックス」における議論が、ルールの改定を含意してるかのような言い方をしているのが目についた。これは端的に間違っているので困ったなと思ったが、この話は前々から書きたいテーマと結びついているので、試しにここで論じてみようと思う。

クリプキの議論にはルールの変更が含意されているのか?

クリプキが「ウィトゲンシュタインパラドックス」で提示したクワスの議論は、クリプキによる独自のウィトゲンシュタイン解釈を示すものとして知られている(時にクリプケンシュタインと揶揄的に呼ばれる)。クリプキの議論は、規則に従うこと(rule following)についての議論として様々な学者によく論じられている。

クリプキの議論は、計算で使われている「+」が通常の加算である「プラス」なのか特殊な加算である「クワス」なのか区別がつかないという話だ。この議論は、次にリンクした論文ではパトナムのモデル論的論証(特に入れ替え論法)と同型の議論だとしている。

藤田晋吾ウィトゲンシュタインの数学の哲学」
https://tsukuba.repo.nii.ac.jp/record/3229/files/11.pdf

私もクリプキの議論とパトナムの議論はそっくりだと思う。そもそもパトナムの議論(モデル論的論証)は、クワインの指示の不可測性やグッドマンのグルーのパラドックスを一般化したものであり、これらは全般的に反実在論的な議論とされている1

反実在論的には、そもそもルールの変更なんて存在しない

これらの反実在論的な議論に見られる共通の特徴とは何か?それは、他人の従っているルールを客観的に特定することの不可能性である。それを説明するために、ここではグッドマンによるグルーのパラドックスを(少し変えて)取り上げる。それまで見かけたエメラルドは全て青色だったので、「エメラルドはアオである」と考えるとする。そこである時に緑色のエメラルドを見たとしたら、「エメラルドはアオである」は間違っているのだろうか?もし、アオが全てが青色である(ブルー)を意味してるなら間違っていると言えるが、そもそもアオがある時点より前なら青色である時点より後なら緑色である(グルー)を意味してるとしたら間違っているとは言えない。つまり、使われている「アオ」が「ブルー」なのか「グルー」なのか分からない…と考えると、クリプケンシュタインと同型の議論になる。

ここで重要なのは、それまでの事実が全て確定されていたとしてもどのルールに従っているのか?は客観的には分からないことだ。反実在論的な議論にとって重要なのは、ルールが確定できないことであって、ルールの変更とは何の関係もない。グルーのパラドックスを見ての通り、ルールの変更(青色から緑色へ)そのものがルールの一部である。ルールの変更そのものが基準となる規範的なルール(青色や緑色)からしか理解できないのであるが、その基準となるルール語にも再びパラドックスが当てはまってしまう 2

反実在論的な議論はそれ自体がとても興味深いものであるが、切リがないのでここではこれ以上の深い話はしない。次は、こうしたルールについての勘違いがどうして起こるのか?を探ってみたい。

ルールについての議論が勘違いに陥る理由を探る

人々は文字通りに法律を守るべきなのか?

インターネットを見ていると「法律を守れ!」と熱狂的に叫んでる人をよく見かける。この人たちは、人が法律を守るのは当たり前だと思っているようだが、私は変な人たちだな?としか思わない。

そもそも、この世に文字通りに全ての法律を守っている人などいない。もしいるとしたら、その人は全ての法律を知っていないといけないが、もちろんそんな人はいない(いたら、むしろ狂人)。(公務員や法的試験を受けた資格者のように)職業上で法律を守っている人はいるが、その人たちだって日常生活では文字通りに法律に従っている訳ではない(そもそも仕事に関連した法律以外は知らないはずだ)。

たとえ法律を知っている資格者であっても、人々が法律を守っていないよく知られた事例がある。それは車の制限速度だ。日本では車の制限速度を文字通りに守っている人は少ない(むしろ制限速度を守っていると嫌がらせを受けることさえある)。そんなに法律を守るべき!と騒ぐなら、もっと制限速度を守れ!と騒ぐべきだ。「法律を守れ!」と騒ぐ人たちは、(自分に都合よく)選択的に特定の問題で騒いでるだけとしか思えない。

法律のそもそもの役割は紛争解決機能にある。法律は人々がそれに従うためにある訳ではない。人々が法律に従っているように見えるのは結果であって、人々が意図して法律に従っている生活している訳では必ずしもない。人が赤信号を渡らないとしたら、もちろん事故にあいたくないのが一番だが、たとえ事故にあっても自分に責任はないと言えるからでもある。逆に言えば、自己の責任で赤信号を渡ることが絶対に禁止されている訳ではない(ただしお勧めもしない)。あくまで、法律は人々の生活のため(生活の中での紛争を解決するため)にあるのであって、逆なのがおかしい。

ここからは法哲学(法のルールとは何か?)や社会科学の哲学(人の振る舞いのルールとは何か?)での議論にも突っ込めるが、ここまでにしておく。なんで、こんな法律の話をしたのか?と言うと、それは次の話につなげるためだ。

記述的ルールと規範的ルールを区別する

リプケンシュタインへの勘違いや法律守れ論に共通する間違いは何か?それは記述的ルールと規範的ルールとの混同だ。

人々の振る舞いが文字通りにどんな風な規則性を持っているのか?を表すのが記述的ルールだとしたら、(目的はどうであれ)人が従うべき規則性を表すのが規範的ルールである。この二つは全く別物なのに、ごっちゃにされがちだ。

人がルールを守ったり変えたと言えるためには、外から観察できる振る舞いを評価する基準が必要である。そのためには、規範的ルールとの比較が必要となる。対して、記述的ルールの場合は、そのルールを知れるか?だけが焦点であり、ルールを守ってるとか変えたとかの評価とは関係がない。 人がどんなに突飛な振る舞いをしようとも、記述的には必ず何かしらのルールに基づいている(守ってるのではない)と言える。

ただし、規範的ルールについては論理や数学に当てはめようとするとややこしいことになるのだが、ここではその議論はしない。 しかし実際のところ、記述的ルールと規範的ルールの混同による誤りがよく見られることには変わりがない。


  1. ちなみに、スティッチの「理性の断片化」における心理意味論による議論も、これらの反実在論的な議論と同型にしか私には見えない。ただ、学者がそういう指摘をしてるのを私は見たことないので、この注で示唆するに留める。
  2. ちなみに、事実の範囲を個人から共同体に拡張しても、事実は所詮は有限なので、ルールの確定には役立たない。それから、ここでの議論は統計モデルへの応用は簡単にできる(データとモデルを想定すると、有限のデータから真のモデルの確定は[究極的には]できない[過剰適合がいくらでもありうる]。できるように思えているのは、実際にはオッカムの剃刀的な前提を置いてるからだ)。