セラーズ右派と左派への分岐をその起源に遡ってみる

最近読んだ、川瀬和也「言説的実践とヘーゲル的相互承認」という論文が面白かった1

この論文の中で、セラーズ左派とセラーズ右派の話題が出てきて、気になったところがあったので、参照文献からその元となる論文 James R. O’Shea"Introduction : Origins and Legacy of a Synoptic Vision"を探したら、見つかったので読んでみた。

このO’Sheaの論文を読んだ結果、冒頭の論文で読んだセラーズ右派とセラーズ左派の説明に感じた私の懸念は当たっていたようだ。

セラーズ右派と左派は言語使用の説明を議論の出発点にするという、語用論的な枠組みを共有している。

川瀬和也「言説的実践とヘーゲル的相互承認」p.70より

論文では、この後でセラーズ右派と左派で言語実践をどう説明するか?の違いを論じている。言語実践についての説明部分は、この引用の文が正しいかどうか?に関わらずに読めるので、論文全体への影響は少ない。この論文そのものは面白いのでお勧めできる。ただ、部分の小さな疵がどうしても私には気になってしまったので、ここで語ってみようと思う。

セラーズ派の分枝の源を探る

まずは、 James R. O’Sheaによるセラーズ派の説明を翻訳して引用しよう。

セラーズ左派(おそらく最も有名な例としてはRichard Rorty, Robert Brandom, John McDowell, and Michael Williams,他)であり、典型的なセラーズ右派(大抵そうみなされるのはRuth Millikan, Paul Churchland, Jay Rosenberg, Daniel Dennett, and Johanna Seibt,他)は、規範的なものは究極的には消去可能または科学的に自然なものに還元可能だと信じている。

James R. O’Shea "Introduction : Origins and Legacy of a Synoptic Vision" p.2より

ここでの右派と左派の分類に個人的な意見がなくもないが2、それは脇に置くと、大事なのは規範(norm)と自然(nature)との関係である。言語は規範的なものの代表かもしれないが、議論の出発点と言うのはさすがに言い過ぎだろう。私の印象では、セラーズ右派は最終的には言語実践をも(特に進化の側から)説明したいと思っているが、実際にはそこまで成功してるようには見えない。

ここでの規範(norm)と自然(nature)との関係は、セラーズの有名な論文に源がある。それはSellars"Philosophy and the Scientific Image of Man"(「哲学と人間の科学的イメージ」)における、manifest image(明白なイメージ)とscientific image(科学的イメージ)の議論に遡る。科学的イメージとは、自然科学によって得られるような世界観である。明白なイメージとは、私達が当たり前のように理解している世界観であり、これによって人は世界の中で人として生きていくことができるような世界観である(フッサール的にはこれは生活世界に値するかもしれない)3

セラーズが生涯をかけて哲学的に試みたのは、明白なイメージ(規範)と科学的イメージ(自然)をどう総合させるのか?であった。この疑問に対して、左派は規範寄りに右派は自然寄りに統合を果たそうとしていると言える(ただし、セラーズ自身は一方への還元を望んでいたとはあまり思えない)[^3]。

それにしても、セラーズが提示したい二つのイメージは様々なところで変奏されて現れてくる。前回の記事にあったように、構築主義進化心理学との対比にも似たところがあり、文化(学習)と進化の統合が目指されていた。統合なんてそんなにはできやしない。


  1. ただし、以下で触れるセラーズ派の話題の他にも、私にはよく理解できない部分もあった。「私が見る限り、この問題の根は、ブランダムが哲学的説明において公理系モデルに囚われていることにある」(p.70)とあるが、論文での説明を読んでも私の知識からしても、ブランダムの哲学のどこが公理的か?さっぱり分からない。公理系とは、ユークリッド幾何学のような第一原理から始めて全体を導くタイプの体系を言う。基礎付け主義は公理的だと思うが、ブランダムは全く基礎付け主義的ではない(むしろ逆)。ブランダムの推論主義はダメットの証明論的意味論との関連もあるが、そこから考えても全然公理的ではない。そもそもブランダムの哲学が非プロセス的だというのも、私にはとても承認できない(私には逆に見える。ただし、ヘーゲル精神現象学を文字通りの発展[発達や進化]と読むなら話は別だが、今どき[なんの再構成もせずに]その読み方をするのは、[ヘーゲル自身がどう考えていたのであれ]問題がある[科学的に否定されておしまい]。この論文の著者には公理系について根本的に勘違いがあるように思える)。ただし、この部分は論文全体への影響がほとんどないので、論文の価値をそこまでは下げることはない。
  2. 例えば、(素朴心理学の)消去主義で有名なポール・チャーチランドを右派に入れてるが、左派の代表であるローティは消去主義の初期の提唱者としても知られている。つまり、消去主義者であることは右派か左派か?の基準には使えない。
  3. Millikan, R. "The Son and the Daughter: On Sellars, Brandom and Millikan"において、ミリカンは「論理哲学論考」の前期ウィトゲンシュタインと「哲学探究」の後期ウィトゲンシュタインの関係として、セラーズの二つのイメージを説明してる(もちろん「論考」が科学的イメージで「探求」が明白なイメージに対応)。