主観的な基準でのキャンセルに意義はあるのか?

この前、あるトランスジェンダー本の翻訳書の出版停止をめぐって旧ツイッター上で論争が行われてきたのを見た。そのときに、日本でリベラルとされる有名な論者が、幾人も出版停止を支持するキャンセル運動に賛同してるのを見て暗い気持ちになった。

やはり、日本でリベラルとされる人たちの中には自由を大事にしない人たちが多いことに改めて気づいた。この人たちはキャンセル反対派からファシスト呼ばわりされていたが、少なくとも自由な民主主義を否定するこの人たちは本来のリベラリストではないと心の底から思った。

キャンセル擁護派の意見も幾つも読んだけど、説得力のあるものはほとんどなかった。唯一なるほど!と思ったのは…自分にはキャンセルを主張する自由がある、出版をやめた出版社の側の問題だ…という意見だ。私のような表現の自由を守れ派からすると、確かにキャンセルを言う自由はあるし、炎上しそうなやり方をしといていざ炎上したら出版を取りやめた出版社はただの弱虫だと思う(炎上商法するならそれぐらい覚悟しとけよ)。

ツイッター上でもよく指摘されていたが、出版前の本を出させない事と、出版後の本を批判することとは全く違う。そもそも読んでもない本をヘイト本呼ばわりするのは、読みもせずに本の悪口を言うアマゾンのレビュアーと同じで、そのただの決めつけに擁護できるところはない。

出版されなくとも原書読めばいいだろ!の意見もあったが、翻訳されて人々に読まれてから議論すべきだろ?と思ったし、結局は原書を読む人が何人も出てきて言う程のヘイト本ではないと判定されている。キャンセルする側のひろゆき並の辻褄合わせにはかなりウンザリした。

正直、私自身としてはキャンセルカルチャーに擁護できるところはないし、企業の側はこんな炎上なりキャンセルなりには過剰反応しないでほしいと思う。こんなのはクレーマーのいちゃもんと同じことも多く、内容に納得ができない限りいちいち真に受ける必要はない(そこはうまく対応できるようになってほしい)。

出版へのキャンセルで差別的な本はなくなるのか?

とはいえ、ここで書きたいのはキャンセルカルチャーについてではない。その騒ぎを見る中で、嫌韓本が溢れていることに心を痛めていて、そっちもなんとかしてくれ!と言うキャンセル擁護派を見た。差別に心を痛めるお気持ちは察するが、だからといって出版停止の運動には賛同できない。ここには、出版(表現)と受容の違いが理解できていないのが伺える。

今回はたまたま翻訳書だったので、海外での評価や噂を当てにできた(ただし今回は賛否両論だったのでキャンセル擁護には明らかに足りない)。しかし、始めから日本語で書かれた出版物の場合は、出版前に内容を確かめようがない(外部から内容を見て出版の有無を決められたらそれは本当の検閲だ)。つまり、キャンセル運動によって嫌韓本を出させないことなんて、始めからできやしない1

出版前の本をキャンセルできるかどうか?は、たまたま事前にその内容を知れるか?にかかっており、知れたとしてもまだ出版されてないので内容を正確には知りえない。キャンセル運動によって差別的な本を出版させないことなんて、始めからできやない。運動の方向がそもそも間違っている。

嫌韓本が本屋に積まれているのは、出版(表現)の側の問題というよりも、それが読まれて受け入れられてしまう受容の側の問題だ。差別的な言説を後から修正する大変さは分かるが、それがキャンセル運動によって軽減されることはない。

なにより、キャンセル擁護派の最大の問題は、どんな内容が駄目なのか?を自分たちで決めることができる…と言う見解である。どんな内容が駄目なのか?は人々のコミュニケーションの中でだんだんと定まってくるのであって、自分たちの基準が絶対に正しいとするのなら、傲慢なファシスト呼ばわりされても仕方ないと思う。

ハラスメントは被害者の主観で決まるのか?

ハラスメント(迷惑の意)の定義を調べると、被害者の主観で決まるとするのをよく見かける。ハラスメントに加害者の主観が関係ないというのは理解できる(でなければ、悪気がなければ何でもできてしまう)。しかし、被害者の主観だけで決まるかのような主張もよく見るが、ならば被害者の言いがかりが何でも通ることにもなりえて、ハラスメントの定義としてはかなり問題がある。

被害者の主観だけによるハラスメントの定義の問題は、告発と認定の区別がついていないことである。ハラスメントであるとの告発は被害者の主観でなされてもよいが、ハラスメントの認定には第三者的な基準(例えば業務との関連性)は必要である。でないと、何でもハラスメントになりかねない。

ハラスメントが被害者の主観で定義されてしまうと、何がハラスメントか?他人には分からないので、結局はハラスメントを防ぐ試み自体が不可能になってしまう。主観による定義は、その基準の不透明性によって却って物事を悪化させてしまうところがある。

日本に多い主観大好きは物事を悪化させる

キャンセル運動にもハラスメントにも見られる共通の特徴2は、被害者の主観をむやみに絶対視する人たちの存在である。その人たちは正義感でそれを主張しているのだろうが、そんなのを本気で受け入れたら(被害者も含めた)人々の混乱しか招かない。

日本には、こうした主観をむやみに重視する傾向が強く見られる3。既に述べたキャンセル運動やハラスメントばかりでなく、例えば不快な広告は許さん!運動とか、日本での主観的な不快を排除しようとする動きは挙げると切りがない。

しかし、こうした主観的な不快の排除は不寛容とつながっている。主観的な不快の排除が許されるなら、障害者がいるのは不快だから街に出るな!が通ってしまう(排除アートはそれに近い)。異なる価値の人々と共存するために公的には多少の不快には耐える…とするのが本来のリベラリズムのはずだが、そんなリベラリズムは日本にはそんなには見られない。

私はリベラルなネットメディア(YouTubeポッドキャスト)はよく聞くのだが、そうしたメディアによく出てる有名な論者が今回キャンセルを擁護してたのは正直ショックだった4。誰が何を信じてるのか?なんて分からないものなんだなぁ


  1. 出版前の広告を見てキャンセル運動はできるかもしれないが、必ずしも出版前に広告が出ると決まってる訳ではない。
  2. トランスジェンダー問題にも、この特徴は当てはまると思うが、この話題はややこしいので本文ではこれ以上は触れない。ただし、トランスジェンダー擁護者には議論を拒否する人がよくいる。これは少数者のトランスジェンダー当人が議論をふっかけられることに疲れてしまったせいだと思う。それは気の毒だと思うが、だからといって、(当事者でない)擁護者までが議論から逃げる理由にはならない。最近は、理解できない方が悪い的な開き直りさえ目にして、本当にトランスジェンダーへの理解者を増やす気があるのか?疑問に感じる。
  3. 私が前から気づいてた、もう少し学術的な流行りを挙げると、前にはクオリアのブームがあったし、最近だとナラティブのブームがある。自分は始めからこうした日本の主観寄りの傾向を敵対視していた訳ではないが、付き合っていくうちにだんだんと(その非論理性に)嫌気がさしてきたのはある。
  4. ただし、その中の幾人かには前から少し違和感は感じてた(例えば異質な意見は全てブロックとか)ので、今回の件でそれがはっきりとしたのは収穫ではある。一応その人たちの少し擁護すると、有名人になるとSNSなどから大量の反応が寄せられて大変なのは分かる。そのせいで、ただの誹謗中傷も正当な批判もごっちゃにして捨ててしまうのは仕方ないのはある。正当な批判が届かないから、結果として独善になってしまうのだろう。今回の件に限らず、これはSNS時代の病なのでなかなか避けられない。

日本には保守主義もリベラルもネオリベもろくに存在しない

日本の政治的な状況を語る上で、学術的な用語が使われることは多い。しかし、こうした言葉は元々は欧米から輸入された用語であるが、元の意味とは違って使われたり、日本の事情には合ってなかったりすることはよく見られる。

保守主義リベラリズム新自由主義はそうしたよく使われる言葉であるが、本来の意味で使われなくなっているので、日本で用いるのはむしろ害悪と感じることが多い。

今の日本には保守主義なんてほとんどない

日本で保守と呼ばれる人たちは、特定の伝統を復興させようとしている人たちが多い。しかし、このような伝統を復興させようとするのは、元々の保守主義の意味ではない。

保守主義とは、フランス革命の後にできた概念であり、革命による急激な変革の危険性を訴えて緩やかな変化をすべきだとした考え方だ。つまり、特定の伝統や道徳を復興させようという立場は、本来の保守主義ではない(だいたい、本当の保守主義なら、学校で道徳を教えられると思うのが変だ)

では、日本に跋扈する右翼的な人たちをどう呼べばいいか?といえば、反動主義と呼ぶのが相応しい。伝統主義という方が中立的かもしれないが、あまり事実に基づかない妄想の伝統を復興させよう(というより他人に押し付けようとしている)ので、反動主義と呼ぶのが相応しい。

こういう反動主義的な動きというのは、日本だけでなく欧米でも見られるものである。今ここに既にある伝統を重視する保守主義と、これこそが伝統だ!と言挙げする反動主義は区別しないと、話がややこしくなるだけだ1

今の日本にはリベラリストなんてほぼいない

日本では政治的に左の人たちをリベラルと呼ぶことが多い。しかし実際には、日本でリベラルと呼ばれる人たちの多くは本来のリベラリズムの特徴には当てはまらない。

リベラリズムとは、直訳すると自由主義だ。だが、日本でリベラルと呼ばれる人たちは、自由を大事にしているようには見えない。なんか権利を叫ぶ人たちを雑にリベラルと呼んでいるところがあって、訳が分からなくなっている。

元々はリベラリズムは、自由を重視する立場を指しており、それは今では古典的リベラリズムと呼ばれている。最近のリベラリズムの用法の起源は、おそらくロールズにあると思われる。でも、たぶん日本でリベラルと呼ばれる人の大多数はロールズをろくに知らないと思う。

ロールズリベラリズムの基本は、自由と平等のバランスをとることだ。その点では、当時の左翼の代表だった共産主義的な左翼とは異なる。そして、ロールズ以後に出てきたリバタリアニズムという自由を至上価値とする立場とも異なる。つまり、リベラリズムとは本来は右翼と左翼から中間的な立場を意味していた。

あるポッドキャストを聞いていたら、J.S.ミルをリベラリズムの祖みたいに言っていて、なるほど!と思ったことがある。確かにミルは、功利と自由のバランスをとろうとしてるところが、現代的なリベラリズムと似ている。つまり、リベラリズムとは、個人的価値(自由)と全体的価値(功利または平等)でバランスをとろうとする立場とも言える。

ミルとロールズの共通点には、公私の区別がある。これも、自由と平等(または功利)とを両立させるための工夫であると言える。その点では、公私の区別を否定するポストモダンフェミニズムは、さっぱりリベラリズムではない(じゃあ、どうやって自由と平等を両立できるか?教えてくれ!)2

私に言わせれば、日本によくいる弱者(としての少数者)の味方ごっこをしている左翼とは、ポストモダン左翼であり、リベラリズムではない。この言い方に倣えば、日本の(ネトウヨ的な)反動主義はポストモダン右翼に他ならない。どちらも、(少数者のを含む)特定の価値の押しつけ合いでしかない(普遍的な価値など全く信じてない点がポストモダニズムだ)3

今の日本は新自由主義とはとてもいえない

日本の左翼的な人のする批判に、日本はネオリベだから駄目なんだ!がある。しかし、冷静に考えると、日本は新自由主義の特徴にはあまり当てはまっていない。

新自由主義について、このように書いてある論文を見つけた。

このように斉一的な変化は確認できない一方で、他者に付与する否定的な人格カテゴリーとしての使用法は隆盛していた。その適用基準は事実上無限定で、概念としての実質性を保っていないまま、対話を切断する役割を果たしている。この点を踏まえると新自由主義という言葉の使用を停止するという提案にも首肯できる面がある。

仁平典宏「新自由主義に関する複数の記述をめぐって」p.42より

私はこう言われても仕方ないと思う。

新自由主義とは、政府の機能を民間に移転させて政府を小さくしようとする考え方である。ここには、中央集権的な政府よりも分散的な市場の方が効率的だと考える背景があり、規制緩和は市場を効率的にするための手段である。

しかし今の日本を見ていると、オリンピックや万博に公的資金を投入したり、増税を次々行なったりと、他にも謎政策が多すぎてさっぱり市場を信用してないし、政府が小さくなる気配もない。これなら、むしろ本気で新自由主義をやってくれる方がまだマシだ。

自己責任論的な思想をネオリベと呼ぶこともあり、それは(体制としてではなく)精神としての新自由主義だ。精神としての新自由主義は、本来は体制としての新自由主義に伴う思想であり、精神だけを指して新自由主義と呼ぶのはややこしい。

日本に跋扈しているのは、政府をもビジネスとみなすある種のビジネス主義であって、新自由主義ではない。そう考えると、オリンピックや万博を推進したり、増税をしたりする理由が見える。彼らは政府を企業と同じとみなしているのだ(政府を企業と同一視するのは問題があるのだが、面倒なのでここでは論じない)。

日本で新自由主義批判で騒ぐのは、日本の現実から目をそらす役割しか果たさないので、正義感だけでそういう下らないスローガンを叫ぶのはやめてほしい。

アメリカの新自由主義以後の動きを少しだけ

実は、アメリカでは本来の新自由主義が盛んだったのは(20)00年代までであり、リーマン・ショック以後はだんだん弱まってきた(ティーパーティーの勢いを思い出すと良い)。10年代半ば以降は、トランプ元大統領のように政府をビジネスとみなす動きが起こっていた。

大統領が変わってからは政府のビジネス化はなくなったが、アメリカの有名IT企業家に見られる加速主義(実質は社会ダーウィズムの現代的な言い換え)は、なんでもビジネス(又は技術)で解決的な思考にはまっている。しかし、こうした思想は最近は批判されつつある(例えば最近のイーロン・マスクを見てくれ)。

この裏には、新反動主義だの合理的楽観主義だの、いろんな思想的な流れがあるのだが、ここまでにする。はっきりと言えるのは、よく理解してもいない言葉4をスローガン的に叫ぶだけなのはやめてほしいことだ。


  1. 本来の保守主義近代主義に反しない(保守主義の祖のバークは議員だった)が、反動主義は近代主義に反する要素が強いところが違う。日本でネトウヨが「サヨクガ〜」と騒ぐときは、その反発してる内容は左翼的なことより近代主義的なことがよくある。これはネトウヨの反動主義的な特徴に由来する(ちなみに、ネトウヨにはネットで騒ぎたいだけな2ちゃんねらーの末裔的な特徴もある)。
  2. 問題は、公私の区別を否定することではなく、公私の境界をどこに置くか?である。ここには、社会科学で言われている公式の制度と非公式の制度の区別がついてない事と関わっている。非公式の制度は簡単に変わらないし、変えられる!と安易に言う奴はただの無知(他人の自由を縛るべき!と言ってるのと変わんない)。すぐ変えられる所とゆっくり変えるしかない所を分けないと不毛だ。
  3. だからといって、普遍的価値を信じるべき!と言っているのではない。自分の信じる価値を訴えることばかりに夢中で、どうすればより多くの人に納得できる結論に導けるか?に無頓着なのが駄目だ。
  4. 始めは、輸入された言葉(左翼やビジネルマンの喋るカタカナ語)と書こうとしたが、ネトウヨの謎左翼観も事情は同じと思って、そう書くのはやめた。ちなみに、本文には書かなかったが、ビジネス主義な人たちには右翼左翼に対して中立的だと思っている人もよくいるが、さっぱり中立的ではない。たぶん、こういう人たちのことはエクセン(極端な中道;元々は新自由主義的な立場を指していたが、中立ぶりっ子のビジネス主義にも相応しい)と呼んでもいいかもしれない。ちなみに、ビジネス主義という言葉は一般には使われていない(ここで述べたそれ以外の主義はだいたい使われている)。更に付け加えると、日本のビジネス主義は一様ではなく、ソーシャルビジネスへの関心で左右に分かれる。ソーシャル(社会的)なもののためにビジネスを考える左派ビジネス主義と、ビジネスとして成り立てば何でもいいとする右派ビジネス主義がいるとしたら、ここで触れたビジネス主義は右派ビジネス主義に属する(そしてなぜか男性が圧倒的に多い)。アメリカでも、有名IT企業家が好む新反動主義や加速主義はまさに右翼の思想としか言いようがない。右派ビジネス主義の特徴は、ビジネスの自己目的化であり、ビジネスのためなら規制緩和でも補助金でもなんでも受け入れる(使えるなら平気で政府でも使うのが新自由主義とは違う。最近の日本のAI論はビジネスに役立つか?ばかりになっていて軽くウンザリしている)。私の印象では、新自由主義下流の経営者の思想(自己責任論の奴隷)であり、上流の経営者は始めから右派ビジネス主義なんだと思う(脱税のためなら制度のハッキングは厭わない)。

人の振る舞いのルールは変わるのか?を哲学的に考える

最近インターネットである記事を読んでいたときに、クリプキの「ウィトゲンシュタインパラドックス」における議論が、ルールの改定を含意してるかのような言い方をしているのが目についた。これは端的に間違っているので困ったなと思ったが、この話は前々から書きたいテーマと結びついているので、試しにここで論じてみようと思う。

クリプキの議論にはルールの変更が含意されているのか?

クリプキが「ウィトゲンシュタインパラドックス」で提示したクワスの議論は、クリプキによる独自のウィトゲンシュタイン解釈を示すものとして知られている(時にクリプケンシュタインと揶揄的に呼ばれる)。クリプキの議論は、規則に従うこと(rule following)についての議論として様々な学者によく論じられている。

クリプキの議論は、計算で使われている「+」が通常の加算である「プラス」なのか特殊な加算である「クワス」なのか区別がつかないという話だ。この議論は、次にリンクした論文ではパトナムのモデル論的論証(特に入れ替え論法)と同型の議論だとしている。

藤田晋吾ウィトゲンシュタインの数学の哲学」
https://tsukuba.repo.nii.ac.jp/record/3229/files/11.pdf

私もクリプキの議論とパトナムの議論はそっくりだと思う。そもそもパトナムの議論(モデル論的論証)は、クワインの指示の不可測性やグッドマンのグルーのパラドックスを一般化したものであり、これらは全般的に反実在論的な議論とされている1

反実在論的には、そもそもルールの変更なんて存在しない

これらの反実在論的な議論に見られる共通の特徴とは何か?それは、他人の従っているルールを客観的に特定することの不可能性である。それを説明するために、ここではグッドマンによるグルーのパラドックスを(少し変えて)取り上げる。それまで見かけたエメラルドは全て青色だったので、「エメラルドはアオである」と考えるとする。そこである時に緑色のエメラルドを見たとしたら、「エメラルドはアオである」は間違っているのだろうか?もし、アオが全てが青色である(ブルー)を意味してるなら間違っていると言えるが、そもそもアオがある時点より前なら青色である時点より後なら緑色である(グルー)を意味してるとしたら間違っているとは言えない。つまり、使われている「アオ」が「ブルー」なのか「グルー」なのか分からない…と考えると、クリプケンシュタインと同型の議論になる。

ここで重要なのは、それまでの事実が全て確定されていたとしてもどのルールに従っているのか?は客観的には分からないことだ。反実在論的な議論にとって重要なのは、ルールが確定できないことであって、ルールの変更とは何の関係もない。グルーのパラドックスを見ての通り、ルールの変更(青色から緑色へ)そのものがルールの一部である。ルールの変更そのものが基準となる規範的なルール(青色や緑色)からしか理解できないのであるが、その基準となるルール語にも再びパラドックスが当てはまってしまう 2

反実在論的な議論はそれ自体がとても興味深いものであるが、切リがないのでここではこれ以上の深い話はしない。次は、こうしたルールについての勘違いがどうして起こるのか?を探ってみたい。

ルールについての議論が勘違いに陥る理由を探る

人々は文字通りに法律を守るべきなのか?

インターネットを見ていると「法律を守れ!」と熱狂的に叫んでる人をよく見かける。この人たちは、人が法律を守るのは当たり前だと思っているようだが、私は変な人たちだな?としか思わない。

そもそも、この世に文字通りに全ての法律を守っている人などいない。もしいるとしたら、その人は全ての法律を知っていないといけないが、もちろんそんな人はいない(いたら、むしろ狂人)。(公務員や法的試験を受けた資格者のように)職業上で法律を守っている人はいるが、その人たちだって日常生活では文字通りに法律に従っている訳ではない(そもそも仕事に関連した法律以外は知らないはずだ)。

たとえ法律を知っている資格者であっても、人々が法律を守っていないよく知られた事例がある。それは車の制限速度だ。日本では車の制限速度を文字通りに守っている人は少ない(むしろ制限速度を守っていると嫌がらせを受けることさえある)。そんなに法律を守るべき!と騒ぐなら、もっと制限速度を守れ!と騒ぐべきだ。「法律を守れ!」と騒ぐ人たちは、(自分に都合よく)選択的に特定の問題で騒いでるだけとしか思えない。

法律のそもそもの役割は紛争解決機能にある。法律は人々がそれに従うためにある訳ではない。人々が法律に従っているように見えるのは結果であって、人々が意図して法律に従っている生活している訳では必ずしもない。人が赤信号を渡らないとしたら、もちろん事故にあいたくないのが一番だが、たとえ事故にあっても自分に責任はないと言えるからでもある。逆に言えば、自己の責任で赤信号を渡ることが絶対に禁止されている訳ではない(ただしお勧めもしない)。あくまで、法律は人々の生活のため(生活の中での紛争を解決するため)にあるのであって、逆なのがおかしい。

ここからは法哲学(法のルールとは何か?)や社会科学の哲学(人の振る舞いのルールとは何か?)での議論にも突っ込めるが、ここまでにしておく。なんで、こんな法律の話をしたのか?と言うと、それは次の話につなげるためだ。

記述的ルールと規範的ルールを区別する

リプケンシュタインへの勘違いや法律守れ論に共通する間違いは何か?それは記述的ルールと規範的ルールとの混同だ。

人々の振る舞いが文字通りにどんな風な規則性を持っているのか?を表すのが記述的ルールだとしたら、(目的はどうであれ)人が従うべき規則性を表すのが規範的ルールである。この二つは全く別物なのに、ごっちゃにされがちだ。

人がルールを守ったり変えたと言えるためには、外から観察できる振る舞いを評価する基準が必要である。そのためには、規範的ルールとの比較が必要となる。対して、記述的ルールの場合は、そのルールを知れるか?だけが焦点であり、ルールを守ってるとか変えたとかの評価とは関係がない。 人がどんなに突飛な振る舞いをしようとも、記述的には必ず何かしらのルールに基づいている(守ってるのではない)と言える。

ただし、規範的ルールについては論理や数学に当てはめようとするとややこしいことになるのだが、ここではその議論はしない。 しかし実際のところ、記述的ルールと規範的ルールの混同による誤りがよく見られることには変わりがない。


  1. ちなみに、スティッチの「理性の断片化」における心理意味論による議論も、これらの反実在論的な議論と同型にしか私には見えない。ただ、学者がそういう指摘をしてるのを私は見たことないので、この注で示唆するに留める。
  2. ちなみに、事実の範囲を個人から共同体に拡張しても、事実は所詮は有限なので、ルールの確定には役立たない。それから、ここでの議論は統計モデルへの応用は簡単にできる(データとモデルを想定すると、有限のデータから真のモデルの確定は[究極的には]できない[過剰適合がいくらでもありうる]。できるように思えているのは、実際にはオッカムの剃刀的な前提を置いてるからだ)。