還元的科学と非還元的人文学の対立の系譜を乗り越える

学生時代に認知科学に興味を持ってからかなり経つが、その間に認知科学への批判は色々と聞いてきたし、認知科学的な研究がかなり認められるようになった現在でもたまにまだ聞く。認知科学の良い所はそうした様々な批判も取り入れて研究に反映されていることだ。その中でも古典的計算主義への批判は有名で今でもたまに聞くが、今や純粋な古典的計算主義者なんているかどうか怪しい。認知科学は感情を扱えないという批判もあったが、二重過程説や脳イメージング研究によって感情もそれなりに扱えるようになっている。もちろん必ずしも批判のすべてを反映している訳ではないが、科学的に扱えるようにする努力は行われ続けている。しかし、そもそも無理解に基づいた批判についてはどうにも困ってしまう。
困った批判の一つとして、日常的概念を認知科学に押し付けてその用法が間違っているという批判がある。例えば無意識的推論の推論が日常的な用法と違うというのだが、科学には比喩や類推も許されないのかと頭を抱える。このタイプの批判は最近だと現象学者がやっていて、mindreadingは文字通りの意味(心を読む)では行われないと言うのだが、科学者がそうした文字通りの意味で使っているのを私は見たことがない(たいてい心の理論やmentalizingとほぼ同義)。こうした(特に日本の学者による)人文社会科学者による認知科学批判は無理解に基づくものだと感じ、必要以上には取り合ってこなかった。

リベラルな自然主義を発見する

最近、晩年の(故)パトナムの哲学を紹介した論文を読んでいたら、リベラルな自然主義なる用語に出会って興味を持ったのでネットで関連文献を探してみた。すると、パトナムの独自の用語ではなくて別の学者(De CaroやMacarthur)が推奨している概念だと分かった。彼らの論文を読んでみると、リベラルな自然主義の代表的な学者としてよく取り上げられているのが、「第二の自然」で知られるマクダウェルだと分かった。概念主義で有名な哲学者マクダウェルはライルやドレイファスと共に、前節で触れたタイプの認知科学批判をする人文社会科学者が好む哲学者だ。当のマクダウェル自身は認知科学に対してはほぼ無視なのだが、どうしてそうした認知科学嫌いの人文社会学者に好まれるのかはいまいち腑に落ちていなかった。しかし、今回リベラルな自然主義についての論文を読んでいたら何となくその背景が見えてきた気がした。
リベラルな自然主義についての論文を眺めていて気がついたのは、まずそれが非還元的な自然主義(「Two form of non-reductionive naturalism」)として理解されていることだ。そして、リベラルな自然主義の「自然」がマクダウェルの第二の自然のことであり、自然科学の『自然』との対照的な関係として提示されている(「Taking the human sciences seriously」)。こうした特徴に気づくにつれて、私が無駄に持っている哲学史の知識が発動し、なんかこれってディルタイの精神科学の話に似てないかと思うようになった。

自然科学との対立としての精神科学

ディルタイの精神科学とは、自然科学に対応する形で提唱された文化を持った人間についての学問である。といっても、ディルタイが「心理学」と言っていてもそれはいわゆる科学的心理学のことではなく、精神科学もむしろテキストの読解によって人を理解する(解釈学的)人文学のことを指している。こうした自然科学-精神科学の対はリベラルな自然主義における還元主義-非還元主義の対や(自然科学の)自然-第二の自然の対に見事に対応している。そこにあったのは(自然)科学と人文学との対立関係だったのだ。
しかし、ここまで気づいてもまだ腑に落ちない。(自然科学としての言語学を提唱するチョムスキーには悪いが)認知科学は自然科学そのものではない。この辺りの説明はここでは省略するが、大事なのは反認知科学の人文社会学者の認知科学批判は還元主義批判という形をとっている訳ではないということだ。彼らが重視するは日常的概念なのだが、概念重視は解釈学的人文学の擁護と結びついている。しかしそれだけでは認知科学への敵対視にはまだ結びつかない。注目すべきは「日常」なのだが、そこで思い出したのがフッサールの生活世界論だ。

日常的世界としての生活世界論

フッサールの生活世界には2つの解釈が可能で、科学的世界に対する日常的世界を生活世界として擁護しようとするハーバーマス型の生活世界理解が一つであり、もう一つはそもそもの科学的世界と日常的世界の双方を生み出しているものとしての生活世界の理解だ。これらはどちらかが正しいのではなくフッサール自身は文脈によって使い分けている。前者の場合は日常的世界(生活世界)の科学的世界への還元を批判するという形では還元主義批判も含んでいる。だが、これを科学的世界の日常的世界(生活世界)への侵食を危険視しているとも受け取ることができる。すると、科学的世界と日常的世界は分離されるべきという考えにつながるが、これは2つの自然の関係は問わないマクダウェルの考えと一致する(『自然的かつ「独特」な概念能力』)。この考え方は科学的世界(科学的イメージ)と日常的世界(明白なイメージ)との関係を問うとするセラーズとは対照的だ(「ジョーンズの神話が残したもの」を参照)。*1
こういう視点から哲学者ライルを見ると腑に落ちるところがある。ライルは論理的行動主義で有名な哲学者だ。行動主義というと心を行動に還元する点で還元主義的に見えてしまう。しかし、「心の概念」の最終章を読むと著者ライルが日常的概念の分析を擁護して機械論を導く科学的行動主義はむしろ批判対象となっている。つまり。ライルにとっての科学的行動主義-論理的行動主義の対は還元的科学-非還元的人文社会科学の対と対応関係を持ったものとして理解されていたのだ。どうりで認知科学嫌いの人文社会科学者がライルを持ち出すはずなのだ。ただ彼らが理解していないのは、認知科学が還元主義にも非還元主義にもどちらにも素朴に分類できないこと*2であり、それこそが認知科学が起こした科学革命の静かなる成果なのだ。

認知的存在論を考える

こうして反認知科学の系譜を理解できたわけだが、だからといって彼らの認知科学批判が誤解と無理解に基づいたものでとても受け入れられないことには変わりがない。だいたい科学者の言葉遣いは日常的用法に従うべきだという考え自体が無茶なものであり、もしそれを言うなら認知科学だけでなく自然科学も同様の批判対象にしていないと一貫性がない。ただこの形の議論が認知科学にとって全く無意味かと言うと実はそうでもない。
最近になってこれまでの脳イメージング研究のブームを経て、改めて心的な機能と脳の構造(部位)との対応関係を問う認知的存在論(cognitive ontology)が注目され始めている*3。つまり、心的な機能と脳の部位は決して一対一の対応ではなく、一対他や多対一であることが共通の認識となってきている。そこから機能局在論を捨て去る学者もいるが、だからといって今更素朴な全体論を支持することなどできない。そこで脳の構造をスモールワールドネットワークとして見る脳観も出てきているが、それだけでは心的機能との関係は分からないままだ。そこでもう一方からの見方として、そもそも心的機能の捉え方に問題があるという見方もある。認知科学(心の科学)での心的機能の捉え方が、所詮は私達が日常的にしている素朴心理学(folk psychology)や素朴概念(folk concept)に囚われたままであることが原因ではないかということだ。こうした側面は感情心理学においては心理学的構成主義として問題になっている(例えば「なぜ概念・定義が問題となるのか」を参照)。しかし、素朴概念への囚われは認知科学(心の科学)の否定ではなく、(素朴な理解をしやすい)ニュートン力学から相対性理論への進展に値するような新たなる科学的発展が待ちわびられていることを意味しているのだ。

*1:科学的世界と日常(人文)的世界については、分離派であるディルタイ~マクダウェル型と関連づけ派のセラーズ型と分類できる(「経験論の再生と二つの超越論哲学」も参照)が、フッサールの2つの生活世界論(狭い意味と広い意味)もこの分類に大体当てはまる。セラーズの広い意味の生活世界的な側面については「経験論と心の哲学」の最後の節も参照。セラーズは科学的世界と日常的世界をどちらも同じく(言語を用いた)人の営みとして捉えており別々に分けてはいない

*2:例えば計算論。心の計算モデルは(全体として)神経系に基づいて実装されているはずだが、還元可能かは単に分からない

*3:認知的存在論の簡潔な紹介を含む論文としては「Cognitive ontorogy and region- versus network-oriented analyses」がある。本当はこうした問題について考えるきっかけを与えてくれた素晴らしい英語の文献があるのだが、まだ思い入れが強すぎる(まだ十分に読み切れていない)のであえてここでは紹介しない

身体化としての社会的プライミングとは何か?

近年になって身体性認知科学が流行っていると言われることがある。確かに文献の数の上ではその気配はあるが、その実態は怪しいところもある。特に身体性や身体化についての考え方が論者によって様々で定義がよく分からない上に、どこまでが科学的に意義のある話かも相当に怪しい*1。元々は身体化論そのものについて概観する記事を書こうと計画していたのだが、記事として長くなりそうだし、そもそも21世紀に入ってからの身体化論の説明にはそこまで自信が持てるわけではない上に(認知科学関連も含め)他にも興味のあることがあるのでそうは構ってられない。という訳で、近年の身体化論の中では比較的科学的に意義の有りそうな社会的身体性についての記事を書くことにした。

社会的プライミングとは何か?

社会的身体性(social embodiment)に注目が集まるようになったのは、実験社会心理学の発見である社会的プライミングが身体化論と結び付けられることで生じた。そこでまずはプライニング効果について説明しよう。

ライミング効果とは?

ライミング効果とは心理学実験によって見い出された現象である。前もって何かしらの刺激を提示しておくと、その後に行われるその刺激とは無関連な試行(例えば記憶テスト)において、前に提示された刺激の影響を受けることである。詳しい説明は「プライミングの認知心理学」を見てください。ここでは関連するものとして意味プライミングだけ説明しておくと、直前に提示された刺激と意味的に関連した事柄が思い出しやすかったり素早く反応できたりすることである。プライミング効果の特徴としては、それが意識されない潜在的な過程であることであり、別に直前の刺激を思い出して連想していたりしている訳ではない(というか、たいていできないように実験計画されている)。

身体化としての社会的プライミング

元々のプライミング効果は主に認知的なテストによって発見されている。それに対して、社会心理学において事前に提示された刺激がその後の(より広い)行動へ影響を与えるような現象が報告されるようになった。有名な研究としては、事前の課題で老人に関連した言葉に触れた後は歩行速度が遅くなるものがある。こうした事前の刺激がその後の思考や行動に影響を与える現象はその類似性から社会的プライミング(social priming)と呼ばれる。通常のプライミングでは前の刺激とその後の現象とでどちらも言葉同士のような同種の対象だったりするが、社会的プライミングでは言葉と行動・感覚と思考などのように異なるモード感で影響関係があり、そこから身体化論との結びつきが意識されるようになった。詳しくは「身体と外界の相互作用から醸成される社会的認知」などを参照してください。

社会的身体性についての2つの理論的基礎

社会的プライミングから社会的身体性への注目へと発展していったのだが、ここではその説明の基礎となる2つの理論を紹介します。これから書くことにはアンチョコがあるので詳しくは「Grounding social embodiment」を見てください。日本語の関連文献としては「単語の意味の計算論的探求」が参考になります。

知覚的シンボルシステムと概念的メタファー理論

1つ目の理論はBalsalouによる知覚的シンボルシステムである。それまでの言葉の意味は概念同士の関係のネットワワーク(例えば、動物-犬-吠える...)として理解されるのが一般的であった。そうした概念だけの内側で閉じた理論を批判し、概念が他の様々な感覚と結びついて理解されているとした。そして、それは目の前にある物について当てはまるだけでなく、不在の対象に対しても関連した感覚が(意識されずとも)心の中でシュミレーションされて理解されるとした。この考え方を取ると、老人と緩慢さが単に概念内で結びついているだけではなくてシュミレーション的に結びついていることで身体にさえ与えている...と社会的プライミングを理解することができる。
社会的プライミングを理解するためのもう一つの理論は、Lakoffのよる概念的メタファー理論である。言葉の意味というのは一般的にはモノの種類や属性(例えば犬や赤い)を直接に示していることが多い(形式意味論も参照)。しかし、例えば「考えが甘い」や「心が広い」のようにもともと示されていた感覚の種類とは異なる対象に比喩的に形容される語の使用法もある。実は社会的プライミングにもこうした概念の異なる感覚間での影響が見られる現象が報告されている。例えば苦いものを口に入れた後には道徳的に厳しい判断をするようになるという実験がある。「皮膚感覚の身体化認知の展望とその課題」には他の関連した実験が紹介されている。
Lakoff自身は比喩的意味を(Balsalouの批判する)概念のネットワークで理解していたが、Balsalouの理論と組み合わせることで、現前か不在か・直接的か比喩的かの違いに変わらず概念を身体的に理解する道が広がってくる。そして、そうした概念の身体的理論を経験的に裏付けているのが心理学実験の成果である社会的プライミングあるといえる。

再現性の点で疑われる社会的プライミング

身体性理論が経験的な証拠に裏付けられた状態で体系化されているというのは、私の印象では珍しく(身体化論に厳しい私でも)注目すべきだと思われる。しかし残念なことに、心理学の再現性危機の波が社会的プライミングの成果を押し潰そうとする事態に陥っている。
『心理学における再現可能性危機』追加ノート」にあるように、社会的プライミングは心理学実験として再現するのが困難な典型例として有名になってしまった。社会的プライミングは身体性理論を(後付の説明でない形で)直接に裏付ける心理学的な経験的証拠として貴重な事例なだけに、身体化論にとって重大な危機であるはずだ(ただし当の身体化論者の危機意識は薄い)。これを救う道はあるのだろうか?
心理学実験の再現性危機は研究者の問題(例えば有意差が出るまで実験を続ける)や統計上の問題(例えば仮説への二者択一的判断)などから成っている。こうした問題は直せば済むのでまだ良い。基本的には再現実験の積み重ねによる真偽を待つしかない。しかし、身体化論ならではの問題もある。身体化論には大雑把に強いものと弱いものがあって、強い身体化論は認知活動はすべて身体と関わりを持っていると考えるが、弱い考え方ではそこまでの想定はしない。(後付のもっともらしい説明は脇によけると)強い身体化論を採用すると社会的プライミングの再現失敗を説明するのが困難になるように思われる。むしろ弱い身体化を採用して、社会的プライミングが成功する条件を探る方が科学的に生産的だと思われる。直観的にも、概念が常に身体化された状態で理解されると考えるのには不自然さがある(例えば言葉を表面的な記号列としか読まない時とか)。(思弁的な身体化論で平気な人は放っておくとしても)少なくともこんなことで科学的な身体化論が捨てられてしまうのはもったいない。議論と検証が繰り返されることこそが科学なのだから。

*1:心理学者による誇大妄想的な身体化論への批判としては「The poverty of embodied cognition」を参照。科学的な視点からは、曖昧・発見がない・無意義・他のテーマで代替可....といった指摘にはうなずかざるをえない

なぜ今の人工知能ブームは認知科学とあまり関係がないのか?

現在は三度目の人工知能ブームだとも言われている。それは深層学習と呼ばれる機械学習の発達による成果によるところが大きい。しかし、人工知能と関連が深い認知科学ではそうした人工知能ブームの影響はあまりない。人工知能そのものについては様々な良書が増えてきたのでそれを読んでほしいが、この辺りの事情については (日本では語れる人材がいないせいもあって)語られることはあまりない。
核心に入る前に確認しておきたいのは、認知科学関連では世間的なブームと学問的なブームに乖離があることも多いという点だ。人工知能には三度のブームがあったされている。一度目のブームはおそらく人工知能が提唱されたダートマス会議の頃だと思われるが、世間的によく知られていたのはむしろ映画「二千一年宇宙の旅」のHALだと思われる*1。この時点で現実と虚構で違っている。二度目のブームは1980年代のエキスパー卜・システムの頃でこれについては最近の説明でもまず触れられる。しかし、同じく1980年代にはコネショクニズム・ブームというニューラルネットワークの学問的なブームが起こっていた。むしろエキスパート・システムのような考え方は古典的人工知能として批判されつつあったのだ。そして、現在の三度目の人工知能ブームはこうしたニューラルネットワークを改良した深層学習の華々しい成果が元となって起こっている。しかしそれはあくまで技術的な改良であって、脳のモデルとはあまり関係がなくなってしまっている。
現在のニューラルネットワーク機械学習)は脳のモデルとしては構造的にも機能的にも脳とあまり似ていない。確かにニューラルネットワークは初期のアイデアとしては脳をモデルにして作られたのだが、現在の複雑になったニューラルネットワークを(比喩以上の意味で)脳に似ているということには無理があるし、そういうものとして意図して改良された訳ではない。更に問題なのは、現在のニューラルネットワークは現実の脳(心)と機能的にも似ているとは言い難いことだ。深層学習を中心とした現在の人工知能パターン認識が得意で意味的な言語処理が苦手だといった、人工知能になにができるか?の問題は巷の人工知能本にあるような知識なので、詳しくはそっちを読んでください。ここで焦点を当てたいのは、深層学習は学習のために大量のデータを必要とすることだが、それは人の心の特徴としてよく指摘される刺激の貧困問題(プラトン問題)に明らかに反していることだ。つまり、人が現実に触れられる経験は量的に限られているのに、どうしてそこから必要な規則を学ぶことができるのか?という問題だ。過去にはそうした問題に答えるためにエルマンネットのようなニューラルネットワークが考え出されたこともあったが、それは第二次ブーム時の話で今回とは関係がない。ある種の機械学習は今でもニューラルネットワークと今でも呼ばれているが、それは過去から引き継がれた名前なのであって、別に今のニューラルネットワークが現実の脳と構造的にも機能的にも似ていることを意味している訳ではない。

*1:ちなみに、初期のニューラルネットワークのアイデアはこの頃にだいたい出ている