身体化としての社会的プライミングとは何か?

近年になって身体性認知科学が流行っていると言われることがある。確かに文献の数の上ではその気配はあるが、その実態は怪しいところもある。特に身体性や身体化についての考え方が論者によって様々で定義がよく分からない上に、どこまでが科学的に意義のある話かも相当に怪しい*1。元々は身体化論そのものについて概観する記事を書こうと計画していたのだが、記事として長くなりそうだし、そもそも21世紀に入ってからの身体化論の説明にはそこまで自信が持てるわけではない上に(認知科学関連も含め)他にも興味のあることがあるのでそうは構ってられない。という訳で、近年の身体化論の中では比較的科学的に意義の有りそうな社会的身体性についての記事を書くことにした。

社会的プライミングとは何か?

社会的身体性(social embodiment)に注目が集まるようになったのは、実験社会心理学の発見である社会的プライミングが身体化論と結び付けられることで生じた。そこでまずはプライニング効果について説明しよう。

ライミング効果とは?

ライミング効果とは心理学実験によって見い出された現象である。前もって何かしらの刺激を提示しておくと、その後に行われるその刺激とは無関連な試行(例えば記憶テスト)において、前に提示された刺激の影響を受けることである。詳しい説明は「プライミングの認知心理学」を見てください。ここでは関連するものとして意味プライミングだけ説明しておくと、直前に提示された刺激と意味的に関連した事柄が思い出しやすかったり素早く反応できたりすることである。プライミング効果の特徴としては、それが意識されない潜在的な過程であることであり、別に直前の刺激を思い出して連想していたりしている訳ではない(というか、たいていできないように実験計画されている)。

身体化としての社会的プライミング

元々のプライミング効果は主に認知的なテストによって発見されている。それに対して、社会心理学において事前に提示された刺激がその後の(より広い)行動へ影響を与えるような現象が報告されるようになった。有名な研究としては、事前の課題で老人に関連した言葉に触れた後は歩行速度が遅くなるものがある。こうした事前の刺激がその後の思考や行動に影響を与える現象はその類似性から社会的プライミング(social priming)と呼ばれる。通常のプライミングでは前の刺激とその後の現象とでどちらも言葉同士のような同種の対象だったりするが、社会的プライミングでは言葉と行動・感覚と思考などのように異なるモード感で影響関係があり、そこから身体化論との結びつきが意識されるようになった。詳しくは「身体と外界の相互作用から醸成される社会的認知」などを参照してください。

社会的身体性についての2つの理論的基礎

社会的プライミングから社会的身体性への注目へと発展していったのだが、ここではその説明の基礎となる2つの理論を紹介します。これから書くことにはアンチョコがあるので詳しくは「Grounding social embodiment」を見てください。日本語の関連文献としては「単語の意味の計算論的探求」が参考になります。

知覚的シンボルシステムと概念的メタファー理論

1つ目の理論はBalsalouによる知覚的シンボルシステムである。それまでの言葉の意味は概念同士の関係のネットワワーク(例えば、動物-犬-吠える...)として理解されるのが一般的であった。そうした概念だけの内側で閉じた理論を批判し、概念が他の様々な感覚と結びついて理解されているとした。そして、それは目の前にある物について当てはまるだけでなく、不在の対象に対しても関連した感覚が(意識されずとも)心の中でシュミレーションされて理解されるとした。この考え方を取ると、老人と緩慢さが単に概念内で結びついているだけではなくてシュミレーション的に結びついていることで身体にさえ与えている...と社会的プライミングを理解することができる。
社会的プライミングを理解するためのもう一つの理論は、Lakoffのよる概念的メタファー理論である。言葉の意味というのは一般的にはモノの種類や属性(例えば犬や赤い)を直接に示していることが多い(形式意味論も参照)。しかし、例えば「考えが甘い」や「心が広い」のようにもともと示されていた感覚の種類とは異なる対象に比喩的に形容される語の使用法もある。実は社会的プライミングにもこうした概念の異なる感覚間での影響が見られる現象が報告されている。例えば苦いものを口に入れた後には道徳的に厳しい判断をするようになるという実験がある。「皮膚感覚の身体化認知の展望とその課題」には他の関連した実験が紹介されている。
Lakoff自身は比喩的意味を(Balsalouの批判する)概念のネットワークで理解していたが、Balsalouの理論と組み合わせることで、現前か不在か・直接的か比喩的かの違いに変わらず概念を身体的に理解する道が広がってくる。そして、そうした概念の身体的理論を経験的に裏付けているのが心理学実験の成果である社会的プライミングあるといえる。

再現性の点で疑われる社会的プライミング

身体性理論が経験的な証拠に裏付けられた状態で体系化されているというのは、私の印象では珍しく(身体化論に厳しい私でも)注目すべきだと思われる。しかし残念なことに、心理学の再現性危機の波が社会的プライミングの成果を押し潰そうとする事態に陥っている。
『心理学における再現可能性危機』追加ノート」にあるように、社会的プライミングは心理学実験として再現するのが困難な典型例として有名になってしまった。社会的プライミングは身体性理論を(後付の説明でない形で)直接に裏付ける心理学的な経験的証拠として貴重な事例なだけに、身体化論にとって重大な危機であるはずだ(ただし当の身体化論者の危機意識は薄い)。これを救う道はあるのだろうか?
心理学実験の再現性危機は研究者の問題(例えば有意差が出るまで実験を続ける)や統計上の問題(例えば仮説への二者択一的判断)などから成っている。こうした問題は直せば済むのでまだ良い。基本的には再現実験の積み重ねによる真偽を待つしかない。しかし、身体化論ならではの問題もある。身体化論には大雑把に強いものと弱いものがあって、強い身体化論は認知活動はすべて身体と関わりを持っていると考えるが、弱い考え方ではそこまでの想定はしない。(後付のもっともらしい説明は脇によけると)強い身体化論を採用すると社会的プライミングの再現失敗を説明するのが困難になるように思われる。むしろ弱い身体化を採用して、社会的プライミングが成功する条件を探る方が科学的に生産的だと思われる。直観的にも、概念が常に身体化された状態で理解されると考えるのには不自然さがある(例えば言葉を表面的な記号列としか読まない時とか)。(思弁的な身体化論で平気な人は放っておくとしても)少なくともこんなことで科学的な身体化論が捨てられてしまうのはもったいない。議論と検証が繰り返されることこそが科学なのだから。

*1:心理学者による誇大妄想的な身体化論への批判としては「The poverty of embodied cognition」を参照。科学的な視点からは、曖昧・発見がない・無意義・他のテーマで代替可....といった指摘にはうなずかざるをえない