ポストトゥルースについては記事を書いとく方がいいなぁ〜と思いながら2020年を迎えてしまった。日本は未だに現代思想の力の強い謎の(遅れた?)ポストモダン帝国で、ポストトゥルースな現代に対応できている学者があまり見当たらない。困ったものだ!

まずは去年見つけて紹介しようとしてできてなかった論文をここにリンクしておきます。

google:大橋完太郎「ポスト・トゥルース」試論

この論文は前半で紹介されている書籍の内容が優れている。後半に出てくる書籍は凡庸なポストモダン論であまり面白くない。論文の終わりには、情動論的転回が紹介されているが、これはネグリ&ハート「帝国」まで遡れる00年代のカルチュラルスタディーズのブームで、いま取り上げるに相応しいのかよく分からない。むしろ似た話なら二重過程説の方が科学的な上に10年代にも話題されており古臭さもない。やはり前半の書籍の紹介が最も価値がある。

始めにポストトゥルースの起源が紹介されていて、そこはよくできているので、ぜひ論文を読んでもらいたい。ただ、元の起源となる文章の出た時期(湾岸戦争イラク戦争)と現代(ブレクジットやトランプ大統領当選)では、マスメディアによる嘘の拡散とネットメディアによる嘘の拡散で事情が違う。

現代のポストトゥルースの主要因として3つが紹介されている。 1. 認知バイアスや動機づけられた認知 2. エコーチェンバー(メディア環境の問題) 3. ポストモダニズムの影響による反科学主義

これらの要因はここだけでなく、一般的にもポストトゥルースの原因としてよく取り上げられるものだ。ポストモダニズムの影響についても言いたい事がない訳ではないが、それは別の機会にするとして、今回は一つ目と二つ目の要因を取り上げたい。

認知バイアスは一般的にもよく知られているので取り上げられることも多いが、動機づけられた認知にも触れられているのには少し驚いた。ただし、これらがポストトゥルースの原因として相応しいのかはちょっと怪しい。認知バイアスは人が持つ一般的な傾向であり、現代だけに当てはまるのではない。これだけではなぜ現代にポストトゥルースが生じたのかの説明はできない。動機づけられた認知にも同じことが言える。認知の偏りはそれだけでポストトゥルースの原因とは言えない。

エコーチェンバーとは、インターネットでは自分にとって都合の良い情報ばかりが集まってしまう傾向であり、ポストトゥルースの原因としては理解できる。エコーチェンバーが本当にどの程度起こっているのか?はここでは問題にしない。動機づけられた認知とは、元々持っている欲求や動機によって情報を評価する傾向だが、これが正しいなら自分とは反対の見解を見ても自分に都合よく判断するはずなので、エコーチェンバーはポストトゥルースの原因というより、偏りの増幅を担っていることになる。

ポストトゥルースが元々提示された時代(湾岸戦争イラク戦争)はマスメディアがポストトゥルースの原因だったが、現代のポストトゥルースは逆に既存メディアへの不審感がポストトゥルースの原因となっている。エコーチェンバーもそれを前提にしないと成立しない。エコーチェンバーはマスメディアも匿名の個人も情報として同等とされたことで影響を持ちうる。エコーチェンバーが起こったのはフェイスブックぐらいじゃないの?という疑惑を脇に置いても、エコーチェンバーはポストトゥルースを援助はしていても直接の原因とは言い難い。

認知の偏りは人の一般的な傾向であり現代だけに当てはまる訳ではない。エコーチェンバーは元々の偏りを増幅はするが、偏りの直接の原因ではない。ここで取り上げなかったポストモダニズムポストトゥルースに影響は与えただろうが、それがポストトゥルースを直接にもたらしたとするのは議論が飛躍している。

ポストトゥルースの原因はこれと簡単に指摘できるものではなく、複合的な要因の結果であり、それは地味な分析によってでなければ到達できない。安易に分かりやすい原因や結論に飛びついてしまうのも、ポストトゥルースをもたらした要因の一つではないのか?

そういえば、ブログの記事にしようか迷っていてずっとそのままだったものに分析社会学がある。と言っても、ネットで分析社会学で検索すれば出てくる日本語論文にある知識をあまり超えないので、興味のある人は自分で調べて読んでくれ!で済むところはある。ただ、認知科学や哲学の知識がある自分だから指摘できる部分もなくもない。

分析社会学の目的は合理選択論の持つ合理性仮説を緩めてよりリアルなメカニズムを探究しようとする試みで、リアルなメカニズムの探究のためには認知科学のような科学も参照しようとしている。その心意気には賛同するのだが、その試みが上手く行くのかは疑問に感じるところもある。

分析社会学はメカニズム的説明をするために欲求・信念・機会の三項を前提とした理論を提示してる。この前提は合理的選択理論と変わらないのでは?という批判があり、私はこれは説得力があると思うが、それは日本語の論文で紹介されているので省略。ここでは別の視点から論じてみる。

欲求-信念心理学は、心の哲学では素朴心理学(folk psychology)とか常識心理学とも呼ばれ、世間一般で昔から用いられている考え方とされる。分析社会学は実質的にこの素朴心理学を前提にしていると言える。しかし、認知科学などの科学を参照してメカニズムを探究しようという試みは、この素朴心理学の前提と合致するとは言えない。

去年末の記事で紹介した2010年代に感激した論文の一位では、認知科学が素朴心理学や素朴概念に頼ることを議論していたが、科学的には心的メカニズムに安易に素朴心理学を持ち出すのは問題がある。だから心の計算メカニズムが流行り気味なのだが、これは分析社会学の素朴心理学の前提とはぶつかってしまう。

認知科学でも心的メカニズムについて同意なんてないのに、ましてや社会学がどうメカニズムを同定できるのかは謎でしかない。私自身は始めに分析社会学を知った時は好意的だったが、今は疑問の方が大きい。

社会科学が中途半端に認知科学なり自然科学(特に生物学系)に頼るのはむしろ危険だと感じる。特に社会科学と元から交流のある認知科学はまだしも、社会科学の自然科学(特に進化生物学や神経科学)への依存はよほど詳しくないならお勧めできない(実際にろくな例を見たことがない)。

私の勝手な印象では、社会学に限らず社会科学は21世紀に入ってから本格的に転換すべき時期に入ったと感じる。しかし、それは他の学問分野への依存によっては起こらないのでは?…と勝手に思っている。

これは直接に読んでないんで偉そうには言えないが、ネットにあったマルクス・ガブリエルの新実存主義についての紹介を読んでたら、やっぱりガブリエルは本来の専門のシェリング哲学の影響があるんだと思った。

このブログでも以前の記事で、マルクス・ガブリエルの何でも存在論には触れたことがあるけど、本来の専門のドイツ観念論とどう関係が?と疑問に思っていた。少し前にある論文で、ガブリエルとブランダムのヘーゲル解釈との関係を示唆した論文を読んで糸口が見えてきたが、ガブリエルの新実存主義について知ってみたら、やっぱりシェリングじゃん!と思った。

要するに、マルクス・ガブリエルは何でも存在論の部分が消極哲学なら新実存主義が積極哲学であり、シェリングによる分類がきれいに当てはまる。ただ何でも存在論については、やはりマルクス・ガブリエルの分析哲学の中途半端な知識に感心できるところはないし、最近の人類学(存在論的転回!)とも共通する構築主義(相対主義)を存在論に言い換えただけで実は大した変化はない…みたいのもどうかと思う。

実存主義の人間的な領域を守ろう(というより確保しよう)とする傾向は、「ホモ・デウス」のハラリとも似ているが、そもそも彼らが守ろう(確保しよう)としている人間性って何?それって単に西洋の構築物では?…という疑問が日本にいるとしてしまう。

一度ここまで書いたあと、キンドルに常時入っているもはや愛読書と化したgoogle:伊庭幸人 「情報」に関する13章 私家版・情報学入門のpdfを何度目かの再読をしてたら、p.191にこんな文章があった。

精神分析の精神、そして情報学・統計学の精神というのは、「分析していったその涯」に残る人間的なもの、善意とか親切といったもの、を信じるということなのだと思います。それはとても大変な、怖いことですが。

ガブリエルの唯物論批判やハラリのデータ万能主義批判をも思わせる。でもね、涯にあるのが善意ならいいけどシェリング的には悪を行なう自由でもあるんだよね。

ちなみに、この論文は21世紀に入ったばかりの早い段階でクオリアアフォーダンスの流行を直接性として批判していて、つくづく共感する。