これは直接に読んでないんで偉そうには言えないが、ネットにあったマルクス・ガブリエルの新実存主義についての紹介を読んでたら、やっぱりガブリエルは本来の専門のシェリング哲学の影響があるんだと思った。

このブログでも以前の記事で、マルクス・ガブリエルの何でも存在論には触れたことがあるけど、本来の専門のドイツ観念論とどう関係が?と疑問に思っていた。少し前にある論文で、ガブリエルとブランダムのヘーゲル解釈との関係を示唆した論文を読んで糸口が見えてきたが、ガブリエルの新実存主義について知ってみたら、やっぱりシェリングじゃん!と思った。

要するに、マルクス・ガブリエルは何でも存在論の部分が消極哲学なら新実存主義が積極哲学であり、シェリングによる分類がきれいに当てはまる。ただ何でも存在論については、やはりマルクス・ガブリエルの分析哲学の中途半端な知識に感心できるところはないし、最近の人類学(存在論的転回!)とも共通する構築主義(相対主義)を存在論に言い換えただけで実は大した変化はない…みたいのもどうかと思う。

実存主義の人間的な領域を守ろう(というより確保しよう)とする傾向は、「ホモ・デウス」のハラリとも似ているが、そもそも彼らが守ろう(確保しよう)としている人間性って何?それって単に西洋の構築物では?…という疑問が日本にいるとしてしまう。

一度ここまで書いたあと、キンドルに常時入っているもはや愛読書と化したgoogle:伊庭幸人 「情報」に関する13章 私家版・情報学入門のpdfを何度目かの再読をしてたら、p.191にこんな文章があった。

精神分析の精神、そして情報学・統計学の精神というのは、「分析していったその涯」に残る人間的なもの、善意とか親切といったもの、を信じるということなのだと思います。それはとても大変な、怖いことですが。

ガブリエルの唯物論批判やハラリのデータ万能主義批判をも思わせる。でもね、涯にあるのが善意ならいいけどシェリング的には悪を行なう自由でもあるんだよね。

ちなみに、この論文は21世紀に入ったばかりの早い段階でクオリアアフォーダンスの流行を直接性として批判していて、つくづく共感する。