前回に挙げたメタ認知の記事で、書いてはみたけどなくても支障ないと気づいて消したメタ表象の節があったので、勿体無いので公開。

  • ここから。メタ認知と実行機能で共通する…

その共通する特徴はメタ表象なのだが、これを説明するには心の理論に触れないといけない。

心の理論からメタ表象へ

心の理論(theory of mind)とは、他者の心を理解する能力のことであり、近年は理論説との混同を避けるせいかmentalizingやmindreadingとも呼ばれている。これらはまだ適訳がないので、ここは心の理論で進める。

心の理論の特徴は、他人に心的状態(信念や欲求)を帰属させることだが、それだけでは十分ではなく他人が間違った信念を持てることも理解する必要がある。信念の帰属は命題的態度(例;太郎は世界が平らだと信じている)だが、誤信念の帰属には命題的態度への態度(例;太郎が世界は平らだと信じてるのは間違いだと思う)が求められ、命題的態度への態度に見られる特徴がメタ表象と呼ばれる(google:Metarepresentation Nicholas Allott for Routledge Handbook of Pragmaticsを参照)。

心の理論と実行機能には発達的な研究から関連があるとされている(google:幼児期の「心の理論」研究の展望 瀬野由衣)。その理由の一つにメタ表象がある。メタ表象の特徴に、心的状態への評価がある。心の理論には、他人の信念への間違っているとの評価が必要だ。

実行機能は、目標(goal)を持った自己調整(self-regulation)である。そこでは、目標の達成のために情動的反応を抑える必要があるが、その時に自らの状態を目標に照らして正しいかを評価する必要もある。そこから、心の理論の持つメタ表象を実現するには実行機能の発達が必要との考え方もある。

  • ここで終わり、後は補足

メタ表象の日本語論文はいくつか読んだが、命題的態度への態度という基本の説明がなくて、結局は英語の論文にふ頼る羽目になると言ういつものパターン。お願いなので、日本の学者や論者は用語の基礎的な意味をちゃんと理解した上でせめて説明はしてください。

メタ認知はなんとか中毒を抑制できるのか?

こうした脳の手抜きを防ぎ、「正義中毒」に飲み込まれないようにするためには、どうしたらよいのでしょうか。
中野さん

ひとつ提案したいのは、「メタ認知」を鍛えることです。「メタ認知」とは、いわば自分を監視するもうひとりの自分。
どんなときに「許せない!」という感情が湧いてしまうのか、自分自身で認識する努力をしてみましょう。それができれば、自分を客観視して「正義中毒」を抑制できるようになります。

この前にこのブログで挙げた記事で参照したサイトの記事後編「正義中毒の対象になるのは、集団のルールを乱す人/脳科学者・中野信子さん」からの引用だ。

このサイトの記事で気になったところは幾つかあったが、その中でもこの引用部分は特に違和感を感じた。これは独立した記事を書いた方が良いかな…とここしばらく調べ物をしていたのだが、とりあえず区切りがついたので記事にしてみた。

メタ認知とは?

まず気になったのは、メタ認知の説明だ。メタ認知についてインターネットで検索してみた。特にビジネス系のサイトでよく解説されているのを見かけたが、その説明に問題があるとはそれほど思わなかったので、詳しくはそれらを見てください。

メタ認知の説明としては、「認知についての認知」や「考える事を考える」として簡単にできるメタ認知は、自分は安易な判断をしがち…といった知識やこんな考え方はやめよう…といった調整からなっている(google:判断の歪みを生む不適切なメタ認知的知識を問い直す 三宮真智子も参照)。

『どんなときに「許せない!」という感情が湧いてしまうのか、自分自身で認識する努力をしてみましょう』はメタ認知の例として相応しいのだろうか?これはどうも微妙だ。感情が湧くのがメタ認知の対象となる認知なのかも微妙だ。どんなときに許せないのかの認識も、それはただの状況分析であってどこに「メタ」の要素があるのか怪しい。

メタ認知は中毒を抑えられるのか?

それでは、そもそもメタ認知は彼女の言う正義中毒を抑えることができるのだろうか?彼女の言う正義中毒は強い解釈と弱い解釈とをとれる。それらを別々に検討してみたい。

ドーパミンがもたらす中毒症状としては、アルコールやギャンブル依存症があります。「正義中毒」の認知構造は、これらの依存症とほとんど同じ。一度ハマると簡単に抜け出せなくなり、罰する対象を常に探し求めるようになってしまうのです。

記事前編「これからは「人を許せない」気持ちが増幅していく」からの引用だ。ここからは強い解釈、正義中毒はアル中と同じ依存症であるという解釈がとれる。以下では、メタ認知は依存症に効くのか?と一般化された形で議論してみます。

もう一つは、正義中毒は内集団バイアスのような認知バイアスの一種である…とするような弱い解釈だ。これも一般化して、メタ認知は情動的な反応を抑制できるのか?といった形で論じてみたいと思います。

メタ認知は依存症に効くのか?

正直、これには私は専門家ではないので正確には答えられない。依存症の治療にメタ認知が用いられているのかは私にはよく分からないし、あったとして証拠(エビデンス)があるかも知らない。ただ、メタ認知が依存症を抑えられるかのような言い方にはかなりの問題がある。

過去にドラッグ経験のある芸能人があらためてドラッグの件で再逮捕されたときに、テレビ番組で騒がれたことがある。その時、ラジオ番組で専門家がドラッグに代表される依存症は病気なので、意志が弱いといった本人の全面的な責任だけで語るのは危険だと論じていた。私もこの説明が正しいと思う。

つまり、本物の依存症はメタ認知を鍛える程度で治るものではなく、むしろ依存症が意志や努力だけの自力で治ると誤解されるのは危険でしかない。メタ認知が依存症に効くとする強い解釈は問題がある…とはっきり言わざるを得ない。その程度で治るなら、世の中の依存症はとっくに治っている。

メタ認知は情動的な反応を抑えられるのか?

感情と言った時に、それがfeelingなのかemotionなのか1分かりにくい。feelingは感じられるものなので、そこから直接に反応が起きる訳ではない。むしろ、科学的に問題とされるのは身体的反応を伴ったemotionである。以降で話題となるのはemotionの方なので、ダマシオ的に情動と訳して用います。

情動的な反応を抑える…と言われて私が思いついたのは二つある。それは、二重過程説と実行機能2だ。そこで、これらを順に取り上げてみたい。

メタ認知は二重過程説と関係あるのか?

二重過程説は、カーネマンに代表される行動経済学によって一般にはよく知られているが、学問的にはこれまで様々な領域で独立して発見された成果をその共通する特徴からまとめ上げた射程の広い理論だ。

二重過程説は、素早い直観的な判断に当たるシステム1と遅い熟慮的な判断に当たるシステム2からなっている。システム1はたいてい意識されないので潜在的過程、システム2はたいてい意識されるので顕在的過程とも言える。認知バイアス潜在的なシステム1に当たり、脳の研究から情動的な反応とも深い関わりを持っているとされる。システム2は脳の前頭前野が関わりを持っており、そこは中野信子も指摘している。

二重過程説にはデフォルト介入説(Evans&Stanovich)があり、初期値(デフォルト)で素早い判断が決まっていて理性がそこに介入するとされている。実は中野信子の説明はこれに従っている。ただし、これには批判もあって一元的な説も提示されているが、一般的にはこの二元的な説が広まっている。

この二重過程説が正しいとして、メタ認知はこれとどう関係あるのだろうか?正直よく分からない。メタ認知には認知を調整する機能はあるが、情動をどうこうする機能はない。感じられる感情ならメタ認知で調整可能かもしれないが、それは必ずしも情動的反応に直接に結びついてる訳ではない。

二重過程説だけから、メタ認知が情動的反応を抑えるのを導くのは無理がある。

実行機能はメタ認知と関係あるのか?

情動的反応を抑える…と言われて、私がもう一つ思い出したのは実行機能だ。実行機能とは、目標に向けて自己を調整する機能である。子供は目標のために目の前の欲求を抑えられるか?といった発達的な研究がよく行われている(google:実行機能の初期発達、脳内機構およびその支援 森口佑介を参照)

メタ認知は、メタ認知的な知識(knowledge)とメタ認知的な調整(regulation)からなっており、調整の中身は監視(monitoring)と制御(control)からなっている。しかし、メタ認知の調整の及ぶ範囲はあくまで認知の範囲だけであり、情動にまでは及ばない。

実行機能は調整機能(regulation)そのものであるが、それは情動(emotion)にまでも及ぶ。もしメタ認知が情動的な反応の調整にも及ぶとしたら、それは実行機能を介してでなければありえない。メタ認知と実行機能の関係はきちんと科学的に研究されるべきなので、まだ研究が進んでいない段階で私が言えることは少ない(google:Executive function and metacognition toward a unifying framework of cognitive self-regulation Claudia Roebersを参照)。

よって、以下は私のただの推測になる。実行機能が情動的な反応を抑えるような自己調整を行なうには、自らの状態を目標に照らして評価する必要がある。その時に、自分の認知状態を評価するのにメタ認知の能力が用いられているはずだ。つまり、メタ認知は実行機能と組み合わされるなら、情動的な反応を抑える可能性はある。ただし、それがどのように可能かはよく分からない。

一応の処方箋

依存症を抑える方法は私には分からないので聞かないでください。情動的な反応を抑える方法なら、あくまで示唆ぐらいならできるかもしれない。

  • 目標の設定

単にメタ認知能力を高めても、いつそれを発揮するべきか分からない。実行機能の特徴に目標指向があるが、情動的な反応を抑えるためには(小さくとも具体的な)目標を定めることは重要であると思われる。目標があって始めて、自らの状態を評価するのが可能になる。

  • ナッジの活用

とはいえ、必要な時に目標を思い出せるか分からない。あまり自力にこだわらず、目標を思い出せる仕組み(環境やアプリ)を作っておけば良い。例えば、欲求に屈しそうなときに自分の子供(親、恋人…)の写真が目につくようにするなどが考えられる。

  • 環境を変える

意志や努力は必要だが、あまり過剰評価してはならない。むしろ環境を変えてしまった方が良い場合もある。SNS中毒で困ってるなら、インターネットにつながらない環境に行けばよい。人間関係を変えることで、余計な誘惑をなくすこともできる。ここまでの環境の激変は無理でも、変えられるところは探していいかもしれない。

自己啓発系やビジネス系のサイトや書籍を見て思うのは、何でも個人の能力や努力のせいにする悪しき心理学主義(psychologism)に陥ってはならないことだ。マトモな心理学や脳科学はそんなに便利なものではありません。


  1. さらに、関連用語にはaffectiveもあってややこしいが、ここでは取り上げない

  2. exective functionは執行機能とも訳されるが、ここでは実行機能で統一する。学術語の日本語訳は幾つもあるままなことが多く、挙げ句の果てはカタカナ語(や直訳)で済ますという手抜きにさえ至るので、本当に困る。ちなみに、私自身は意味を反映した訳を望む。理由は簡単で、カタカナ語を連発するだけで何を言ってるかよく分からないビジネスマンや政治家が嫌いだからだ。残念ながら、学者でも似た人は多い。

脳科学で彩られた記事を読む方法、教えます

中野信子がマスメディアに出始めた頃は、話題に合わせて新しい論文を適切に参照した発言をしていた。それまでマスメディアに登場してた脳科学者に懲りごりしてた私は、(研究の一般化に疑問はあれど)その賢い発言に感心してしまった。しかし、比較的最近になってラジオにおいて脳科学で人生相談をし始めるのを聞いてから、ガッカリする事が多くなった。

おそらく中野信子が変わる分水嶺となったのは、ベストセラーとなったサイコパス本のせいだと思う。私は本は読んでないので直接に評価はできないが、当時ラジオで話してた感じではちゃんとした内容なんだと思えた。ただ、そのラジオを聞いてて気になったのは、中野信子サイコパスは必ずしも悪いものではなく、英雄や天才のように良く働くこともあると強調してたのに、聞き手の側はそこをあまり飲み込めてないように聞こえたことだ。それはサイコパスは犯罪者みたいな人だという偏見が拭えないせいだろうし、そこが理解されないのは気の毒だと思った…その時は

そして、最近の彼女の発言は冒頭にリンクした記事になる。私の印象は、脳科学で人生相談の時と似ていて、他人の欠点を脳科学で説明してほしいという欲求に屈してしまった!というものだ。その結果、部分的にはおかしくなくとも、全体として見ると奇妙な歪みを感じる記事になってる。

ここではこの記事を直接批判するのが目的1というよりも、こうした脳科学的な記事を読むためのコツを書こうと思う。

科学的説明から価値は導けない

じつは人間の脳は、他人に「正義の制裁」をくだすことに悦びを感じるようにできていると中野さん。

この記事はこうした「正義中毒」にハマった人を非難する内容になっている。だが、ここで気をつけてほしいのは、科学的説明から価値や規範を導くことはできない事だ。まるで正義に駆られた言動が悪!みたいな言い方がされてるが、それは著者の価値から導かれたもので、科学は関係ない。

中毒そのものが悪いと思われがちだ。ここでは説明されてないが、中毒は脳の快楽回路(悦び)と結びついたものとして説明されることがある。これはアルコール中毒やギャンブル中毒になると思うと悪そうだか、仕事中毒や研究中毒の形で表れたときにそれで重要な成果が出たとしたら、それを一概に悪いものとは断定しがたい。

要するにサイコパスと同じで、科学的説明から「これは悪い」といった価値を結論として導く(正当化する)かに見えるときは気をつけないといけない。

還元的な説明は科学的な彩りを与える(だけ?)

そのために重要な役割を果たしている神経伝達物質のひとつがドーパミンです。私たちが「正義中毒」になるとき、脳内ではドーパミンが分泌されています。ドーパミンは快楽や意欲などを司っていて、脳を興奮させます。

こうした脳内物質による還元主義的な説明は脳イメージングの流行り前からあり、これへのウンザリ感が私を(計算主義的な)認知科学に走らせた所もあるが、その話は別の機会にしよう。

こうした還元主義的な説明に説得させられてしまう人は多いだろうが、そこには罠がある。ドーパミンの分泌は快楽状態のときの脳の物質的な状態を示しているだけであり、ドーパミンの分泌が快楽の原因だと考えてはいけない。重要なのは、どのようにドーパミンの分泌に導かれるか?というメカニズムの方だ。

科学的な説明法は一つでも一枚岩でもない

引用部分の後に「自分たちの集団や価値観を守るため、正義をおびやかす「悪人」を叩くという行為によって、快感が生まれるようになっているのです」とあるが、これは直前のドーパミンの説明と結びついていない。脳のメカニズムは複雑であり、堂々と一般向けに説明できる段階にはまだ達していない。

実のところ、この記事にある説明は(脳科学と称する記事にありがちなように)、神経科学による説明だけでなく、心理学や進化論による説明も混ざっている。こうした異なる分野の説明はそんなに簡単にはきれいにはつながらないことが多いのにも注意しよう。

自分を例外に置くバイアスに嵌まってる?

「正義中毒」につながる傾向のひとつに、自分たちの集団を「他よりもよい、優れている」と感じる「内集団バイアス」があります。

これ読んで思ったのは、「正義中毒」に罹ってる人達を自分とは異なるあの人たちとして告発する姿そのものが内集団バイアス(Ingroup bias)じゃないの?という疑問だ。

安易なカテゴライズ、レッテル貼りに逃げない……単純なレッテル貼りを気持ちよく感じてしまう裏側には、脳の弱さがある。

これは著者がお勧めしているトレーニングの一つだ。だが、「正義中毒」そのものが安易なレッテル貼りじゃないのか?問題のある人も多くいるのかもしれないが、正義に駆られた人々を十把一絡げに中毒呼ばわりするが本当に正しいのだろう?これが安易なカテゴライズでないと堂々と言えるのか?

こうした自己矛盾はこの記事に限らず、ネットはもちろん様々なメディアの記事によく見られる。自分を特別視するのは認知バイアスに広く見られる特徴である。

残念ながら、他人の欠点を科学的に説明してもらいたい欲望に応えることは、そうしたバイアスに貢献することになってしまう。

とりあえずの締め

ここで指摘した特徴が中野信子自身にどの程度に当てはまるのかは、微妙なところもあって確定はできない。だが、ラジオや記事での彼女の発言を見る限りでは、他人の欠点を科学的に説明してもらいたい欲望に応えてしまっている感は拭えない。その点では、彼女を擁護する気は私にはどうも起こらない。


  1. 初めの計画では、もっと内容に突っ込んだ批判も書く予定だった。例えば、脳の機能部位対応説はどこまで有効か?、政治的だけでなく科学的にも危険な性差の話、統計的な有意差という必殺語の罠、メタ認知が感情的な反応を抑える?…といった話題も書こうとしたが、ちゃんと書こうとすると面倒くさいことに気づいてやめた。