人文学の危機を考える助走に向けての準備中

人文学の危機については以前から調べていて、記事を書く機会をうかがっていた。日本の人文学者の書いた人文学擁護論は幾つか読んだことがあるが、虚しい自己弁護を垂れ流してるだけとしか思えず、不満しかなかった。最近見たものだと次のものがあるが、これもあまりお勧めできない。

言いたかないが、これを読んで「やっぱり人文学は必要だ!」と思う人はほとんどいないと思う。だいたい、日本の人文学者は人文学部予算縮小の危機ぐらいにしか考えてなくて、人文学そのものの危機とは思ってない節がある。英語で書かれた人文学の危機(Crisis in Humanities)についての論文もいくつか読んだが、それと比べても明らかに危機感が足りない。

しょうがないので、いい加減に自分で人文学の危機についての記事でもそろそろ書こう…とは思い始めた。ただ、めぼしい論文のピックアップは進んでいるのだが、いざ記事を書く計画を立てようとすると、どこからどこまで書けばいいのか?よく分からない。

人文学の危機への歴史の記事を書く計画だけ立てる

まず基本的には人文学を歴史的に遡って書きたいのだが、これが困った。まず人文学は教養と結びついているだが、人文学論の以前に教養論だけで既に書くべき話が多い。

リベラルアーツフンボルトについて表面的な説明なら読んだことがあってつまらなかったので、そこに社会的な背景としての階級制に触れれば、現在の教養没落の状態も理解できる1。さらには、ヒューマニズム思想や大学論などの人文的教養の背景まで説明しないと…と考えてしまうが、そんなに書ききれない。

お試しで「人文学的な教養の西洋史」の目次だけ作ってみた

1.フマニタスの誕生 ヒューマニズムの起源としてのキケロ
2.リベラルアーツの成立 自由人のための教養
3.古典古代の発見 文献学の成立期としてのルネサンス
4.教養小説から学問としての教養へ フンボルトの新人文主義
5.文化としての教養 マシュー・アーノルドとニーチェの教養批判
6.人文的古典への懐疑 フーコーデリダ、サイード
7.教養没落へのタイムリミット アラン・ブルームスローターダイク
8.そして人文学の危機 ネオリベ時代の教養とは?

上で触れたのは西洋的な教養の歴史だが、日本には独特の教養主義の歴史がある。そこにも触れた方が、日本での人文学への理解の偏りが分かるのだが、既に切りがない。教養と博学の違いも曖昧になりがちな日本で教養を理解するには、こうした話もしないといけないのだが。

どうせ本文を書く気はないので結論だけ言うと―人文学いらない!は言いすぎだが、人文学を(良くも悪くも)見直す必要はある―と思う。

例えば、夏目漱石の人生を重箱の隅をつつくように調べるのが文学研究だった時代も昔はあったが、今は通用しない。現代思想系の何言ってるのか?怪しい自己満足が人文学として認められてるのも駄目だと思う。日本では、まず正統派の人文学を取り戻してから、それを仕分けする必要がある…のがややこしい。

最後に、人文学の意義について少しだけ考えた

そういえば、最初にリンクした記事では、人文学の意義は民主主義のためにある…とするヌスバウムの結論を採用してるが、私のようなローティ派(哲学に対する民主主義の優先)2には馬鹿らしい結論にしか思えない。

人文学は幸福のためにある…とする古典ギリシアから持ってくる結論(人文学を知らないと幸福になれない?)も、功利主義以後の現代には大きなお世話でしかない。人文学によって人格が完成される…なんて陶冶神話、元文学青年の私でも信じる気になれない。人文学を擁護するのは人文学者が考えているよりはずっと難しいと思う。

現在における人文学の問題は、研究の側面と教養の側面が分離してしまった点にある。科学の場合は初めから研究が主であり、あとはそれを一般に知ってもらう啓蒙があるのとは事情が違う。


  1. リベラルアーツのリベラルとは古代の自由人のことであり、その自由は奴隷との対照によって成り立っている(詳しくは論文google:森一郎 リベラルということ 自由学芸の起源へを参照)。その出自から教養がエリート主義的なのは当然だ。そうしたエリート主義への対抗として反知性主義が現れた。ちなみに、反知性主義の本質は反知識人主義であり、知識人を介した間接的な真実への接近を批判してる点では、教会を介した神への接近を批判した宗教改革と類比関係にある。日本では反知性主義は安易に非難されがちだが、その本質が理解されていないと感じる。反知性主義は現在の人文学軽視の源でもあるが、反知性主義は民主主義の帰結でもある。

  2. 正確には、ヌスバウムやローティは文学や芸術の価値は認めている。だからといって、文学や芸術についての研究が必要との結論にはたどり着けない。別の例を出すと、たとえ徳倫理の研究が進んでも、それが理由で(人々や当の学者が)徳を身につけられる訳ではない。民主主義を理由にしても、せいぜい社会科学までの擁護が限界で、人文学そのものの擁護を導くのは難しいと思う。

存在論的転回について自分で勝手に考えてみた

宮台真司の映画評は好きなのだが、ときどき挟み込まれるアカデミックな言及には首をひねることが多い。今回はこれ

今日の思想界隈における「存在論的転回」につながるスリリングな話なので、ざっと説明しましょう。
 90年代半ばにフランスの人類学者ダン・スペルベルが『表象は感染する』(原著1996年)を出します。表象とは記録のことです。人間は、主体(選択の起点)として記録を書き、それを引き継いでいるように見えるが、錯覚だ。実は、記録が、人間たちをシャーレの培地のようにして、自己増殖し、変異してきたのだ、と。

宮台真司の『TENET テネット』評(前編):『メメント』と同じく「存在論的転回」の系譜上にあるより

スペルベル存在論的転回の源としたのは前にも見かけていて、ここでも既に勘違いでは?と指摘していた。今度はそれが「表象は感染する」に基づくとされ、ますます訳が分からない。

「表象は感染する」は認知科学の世界では文化疫学論を提示した作品として知られている。タイトル通りに表象が感染するアイデアを提示しているが、これを上の引用のように記録とするのはなんか印象が違う。詳しくは、次に引用する論文を読んでください。

主に、文化進化学は彼らの知見によって大きく進歩したため、主流派と呼べるかもしれないが、本論文では彼らをもう一方の学派と平等に区別するために、文化遺伝学者 (cultural genetists) と呼ぶこととする。もう一方の学派は認知人類学や心理学出身の研究者によって構成されている (Sperber, 1996)。本論文では、Buskell (2017) に従い彼らを文化疫学者 (cultural epidemiologists) と呼ぶことにする。

google:須山巨基 累積的文化進化における文化アトラクターの影響:実験室実験を通じた網羅的検討p.18-19より

ここに (Sperber, 1996)とあるのがまさに「表象は感染する」だ。ちなみに、文化遺伝学を紹介する書籍は既に翻訳されている(「文化がヒトを進化させた―人類の繁栄と〈文化-遺伝子革命〉」)。もう一つ、スペルベルの本が参照されてる引用部分を示しておきます。伝達される文化に物質性があるかのように言うのは私には違和感がある。

もし、ある文化があるとし、その文化がいくつもの個体の間に伝達されると、個体が持つバイアスの篩(ふるい)にかけられ、文化はバイアスに応じて変化していくことが期待される。このように、文化を個体が持つバイアスに合致するよう変化させる幾重もの認知バイアスの篩を文化アトラクターと呼ぶ (Atran, 1998; Boyer, 2003; Buskell, 2017; Claidière & Sperber, 2007; Sperber, 1996)。

google:須山巨基 累積的文化進化における文化アトラクターの影響:実験室実験を通じた網羅的検討p.3より

存在論的転回についてもいくつか論文を読んだが、(ラトゥールはまだしも)少なくともスペルベルを代表的な学者として挙げてるのは見たことがない。一本論文を読むならgoogle:鈴木赳生 〈書評論文〉「存在論的転回」考が便利だが、ここでもかろうじてラトゥールが言及されているに過ぎない。

私の得意な自信を持って言えそう話はここまでだが、せっかくなので自分が勝手に考えてることも少し書いてみよう。

以下は私の勝手な理解なので眉唾で読むように!

ここからは、私がいくつかの論文を読んで、自分なりに整理したことを書きます。正しいかどうかは保証できないので、そこを考慮して読んでください。

人類学の存在論的転回とは何か?

存在論的転回と聞くと、何が存在するか?を扱ういわゆる存在論を想像してしまう。しかし、内実を聞いてみるとあまり存在の話だと思わない方が良さそうだ。

著者らは再帰性(reflexivity)、概念化(conceptualization)、実験(experimentation) の 3 点によって、この方法論を特徴づける(9-24)。フィールドの現実を前に自前の知を反省的に問い返し(再帰性)、記述のために概念をつくり直し/生み出し(概念化)、あらたな現実のとらえ方や考え方を試す(実験)。著者らの「転回」とは、このようにフィールドに依拠して概念をつくり変えていく記述の方法論なのである。

google:鈴木赳生 〈書評論文〉「存在論的転回」考p.97より

存在論的転回で焦点とされているのはむしろ概念や表象であって、必ずしも存在そのものではない。既存の概念に飽き足らず新たな概念を作り出すという点では、哲学の世界で最近起こっている概念工学と問題意識が似ている。哲学では、もともと分析的形而上学として存在論的な研究がなされていたが、概念工学はそうした存在論の研究とはむしろ対照的な領域だ。そう考えると、存在論的転回という呼び名は誤解を招きやすい。

なぜ誤解を招くのに、存在論的転回と名付けられたのか?は調べたがよく分からない。そこで自分なりになぜそのように呼ばれるのかを、人類学の歴史的な展開から自分なりに推測してみた。

認識論から解釈学、そして存在論

二十世紀の前半には、論理実証主義(論理経験主義)に代表されるような世界を正確に写し取る客観的な方法こそが正しい学問のあり方だとする考え方が席巻していた。それに対して同時代に、精神科学(主に人文学)ではテキストから意味を読み取る行為の重要性を訴える解釈学が提示された。

二十世紀後半に入ると、人類学の世界でも解釈学の影響が大きくなった。それは同時代の社会構築主義的な動きとも呼応して、客観性を目指す認識論的な考え方が批判されて、積極的に意味を取り出す解釈学的な考え方が社会科学全般にも広がっていった。

二十一世紀にいる私達は存在論的転回の中にいるが、これは解釈学以後(ポスト解釈学)として捉えないといけない。つまり、一方的に他者を解釈する人類学者の立場から、研究対象となる他者から学ぶ人類学の立場への転換だ。その中でも、存在論であるかのように当たり前となってしまった基礎的な概念―例えば自然や動物―を問い直す必要も出てきた。

私が考える、人類学における存在論的転回の核となる考え方は、主に次のことだと考える。 - 他者は単なる解釈の対象ではなく、学ぶべき相手でもある
- 私達の世界観の基礎となる概念をも疑って、問い直すべきである

存在論と称される理由は主に後者にあると思われる。存在論とは世界観の基礎のことだと考えれば、こんな誤解を招く用語を用いた理由も理解できなくもない。

以上の内容は推測を多分に含むので、内容の判断は自分でしてください1

最新の文化人類学の成果が分かるお薦めポッドキャスト

コクヨ野外学習センターからは二種類のポッドキャストが配信されているが、その内の一方である「働くことの人類学」では、現役の文化人類学者から最新の研究成果を聞くことができる。これを聞くと、最近の人類学が研究対象であるはずの他者からも学ぼうという姿勢を取るようになったのが分かる。

ちなみに、私が人類学にそこそこ詳しいのは、人類学が認知科学に多大な影響を与えたことにも起因する2。その辺りについてもそのうち気が向いたら書いてもいいかもしれない。


  1. どんなものであれ、判断は自分ですべき!なんて書くまでもなく当たり前なのだが、最近はその程度のことも分からない人も増えているので一応書いておきます。まぁ、その判断も単なる感情や偏見でしちゃいけない!のだけれど、指摘してると切りがない。本来、こんな注釈はなくても分かっててて当然でないと困るのだが…

  2. そもそもスペルベルは人類学者のはずだが、成果に人類学っぽさは薄い。文化疫学の他だと、一番有名なのは関連性理論で、最近の成果は理性の相互行為説。まぁ、主要な成果が少なくとも三つある時点で学者としては優秀ではある。

統計について勘違いしやすい注意点を並べてみた(私家版)

この前、ツイッター上で統計に主義はいらないか?でもめてるのを見た。結果としては大した議論にはならなかったのだが、実はそれと同じ内容を日本の学者が主張しているのを既に見ていて、違和感はあった。海外の学者がそんな主張をしているのを見たことはない。

統計に主義はいらない論は、日本の一部の統計学者が主張している。その学者たちは赤池弘次からの影響を主張しているのも見たことがある。しかし、赤池弘次が確率の解釈や統計のパラダイムを論じている論文1を見つけて読んだら、その影響がどんなものか?かなり怪しく感じた。

正直、日本の学者が非標準的な話を注釈なしで平気でするのには慣れてる(仕方ないので海外の学者を参照する)ので、そこは(直してはほしいが)あまり気にしてない。しかし、統計に関しては海外も含めてそもそも整理されていない所が多すぎる。

統計について私が気づいた注意点

という訳で、私が今のところ気づいた統計の話についての注意点を羅列してみた。私の勘違いが混ざってる可能性はゼロではないので、そこは各自でご確認ください。個々の議論はそのうちやる気が出れば別の記事でやるかもしれません。

  • 頻度主義vs.ベイズ主義における、「頻度主義」の安易な使用はやめてほしい。頻度主義は本来は確率の解釈の用語なのに、統計のパラダイムにも同じ用語を使うのはややこしい。古典的統計を使う方が妥当

  • 「頻度主義」を使うにしても、そこにネイマン&ピアソンだけでなく、フィッシャーをも含むのはやめてほしい。ネイマン&ピアソンは試行の無限繰り返しを前提にしてるからまだ許せるが、フィッシャーはその前提を受け入れていないので、頻度主義と呼ぶには相応しくない

  • 統計的検定において、p値を信頼区間に変えれば問題が解決するかのような主張はよく見るが、どっちを使ってもやってることにあまり変わりはない。google:大久保祐作 會場健大 p値とは何だったのかのAppendixを参照

  • 統計的検定において、古典的統計をベイジアン(特にベイズファクター)にすれば問題が解決する…とする主張はよく見る。しかし、解決するのは主に停止規則の問題ぐらいで、どうすれば有意であると言えるか?の基準が必要なのはどっちみち変わらない

  • ベイジアン2における事前確率(事前分布;どっちも英語ならprior)の問題は今でも解決してない。ベイジアンが普及したのは、このprior問題の解決とは関係ない。だから、主観的確率がいらないなんてことはありえないし、実際に主観的確率を採用してる学者は現在でもいる。

  • 事前分布に無情報事前分布を採用すれば問題は解決する…とするのは誤り。特に無情報事前分布の代表である一様分布を採用すれば構わないと思ってる人は多い。しかし、一様分布は変数を変換すれば無情報ではなくなるが、どの変換が正しいかは自明ではない;google:山村光司 統計の哲学 RD基準の背景について]も参照。これは論理的確率の問題に遡れる問題でもある;[google:高尾克也 無差別の原理とBertrandのパラドックスを参照。

こうやって書いてて思ったけど、確率の解釈と統計のパラダイムがごっちゃに語られるのは混乱の元でしかないと思う。

例えば、確率の解釈としての頻度主義とネイマン&ピアソンの頻度主義は同じ名で呼ばれがちだが、無限試行の他にどのくらい共通点があるかよく分からない。確率の解釈としての頻度主義では極限が注目されるが、ネイマン&ピアソンの頻度主義ではむしろ分散や誤差が問題になる。

他にも、ベイズ主義として一緒くたに論じられがちだが、無情報事前分布は論理的確率と本当は結びついている(ハロルド・ジェフリーズ)が、主観的確率と一緒にされがちなのはややこしいだけ。論理的確率と主観的確率は一応分けてほしい。少数とはいえ、論理的確率を採用する学者も海外にはいる。

以下は、完全に個人的な見解

最後に、完全に個人的な見解を述べます。統計は尤度を中心にして教えられるべきだと思う。歴史的には、尤度主義は古典的統計よりもベイジアンよりも後に登場したが、歴史的な順とは逆に教える方が効率的だと思う。

ベイジアンはもちろん、古典的統計でも尤度の考え方は活用されている。ただし、古典的統計では尤度原理が採用されてないので気づかれにくいだけだと思う。私にはp値が尤度と全く無関係には見えないし、実際にp値を提唱したフィッシャーは尤度の重要性を提示した学者としても有名だ(ちなみにp値と信頼区間が交換可能なのは既に触れた)。

尤度を単に高めるのを目標にするとモデルの過剰適合(overfitting)が起こる。各種の統計パラダイムはこれを修正する(しない)のが目的だ。古典的統計とベイジアンの最大の違いは、事前確率の想定と共に尤度原理が成り立つかどうか?にある。最近は尤度原理は成り立つ方が良いと信じられがちだが、赤池弘次によってそれは批判されている;google:赤池弘次 確率の解釈における困難についても参照。各統計パラダイムを反映したAICBICの式を見ると、これらが尤度への修正なことがより分かりやすい。

尤度は過剰適合を考慮すると、ニューラルネットワークともむすびつけられる予感はするが、まだ私にはよく分からない。


  1. google:赤池弘次 確率の解釈における困難について]や[google:赤池弘次 統計的推論のパラダイム変遷について。これらの論文の内容にはここでは触れないが、今でも読む価値のある論文なのでお薦め。ここから統計に主義はいらない論を導くのは無理がある。

  2. ここで「ベイジアン」との用語を使っていて、ベイズ主義でもベイズ統計でもないことに深い他意はない。統計のパラダイムとしてのベイズ主義と分けたのと、ベイズ統計とするとベイジアンネットワークや合理的選択理論を外してるように見えるので、中立的な用語としてベイジアンを使っているだけ。