存在論的転回について自分で勝手に考えてみた

宮台真司の映画評は好きなのだが、ときどき挟み込まれるアカデミックな言及には首をひねることが多い。今回はこれ

今日の思想界隈における「存在論的転回」につながるスリリングな話なので、ざっと説明しましょう。
 90年代半ばにフランスの人類学者ダン・スペルベルが『表象は感染する』(原著1996年)を出します。表象とは記録のことです。人間は、主体(選択の起点)として記録を書き、それを引き継いでいるように見えるが、錯覚だ。実は、記録が、人間たちをシャーレの培地のようにして、自己増殖し、変異してきたのだ、と。

宮台真司の『TENET テネット』評(前編):『メメント』と同じく「存在論的転回」の系譜上にあるより

スペルベル存在論的転回の源としたのは前にも見かけていて、ここでも既に勘違いでは?と指摘していた。今度はそれが「表象は感染する」に基づくとされ、ますます訳が分からない。

「表象は感染する」は認知科学の世界では文化疫学論を提示した作品として知られている。タイトル通りに表象が感染するアイデアを提示しているが、これを上の引用のように記録とするのはなんか印象が違う。詳しくは、次に引用する論文を読んでください。

主に、文化進化学は彼らの知見によって大きく進歩したため、主流派と呼べるかもしれないが、本論文では彼らをもう一方の学派と平等に区別するために、文化遺伝学者 (cultural genetists) と呼ぶこととする。もう一方の学派は認知人類学や心理学出身の研究者によって構成されている (Sperber, 1996)。本論文では、Buskell (2017) に従い彼らを文化疫学者 (cultural epidemiologists) と呼ぶことにする。

google:須山巨基 累積的文化進化における文化アトラクターの影響:実験室実験を通じた網羅的検討p.18-19より

ここに (Sperber, 1996)とあるのがまさに「表象は感染する」だ。ちなみに、文化遺伝学を紹介する書籍は既に翻訳されている(「文化がヒトを進化させた―人類の繁栄と〈文化-遺伝子革命〉」)。もう一つ、スペルベルの本が参照されてる引用部分を示しておきます。伝達される文化に物質性があるかのように言うのは私には違和感がある。

もし、ある文化があるとし、その文化がいくつもの個体の間に伝達されると、個体が持つバイアスの篩(ふるい)にかけられ、文化はバイアスに応じて変化していくことが期待される。このように、文化を個体が持つバイアスに合致するよう変化させる幾重もの認知バイアスの篩を文化アトラクターと呼ぶ (Atran, 1998; Boyer, 2003; Buskell, 2017; Claidière & Sperber, 2007; Sperber, 1996)。

google:須山巨基 累積的文化進化における文化アトラクターの影響:実験室実験を通じた網羅的検討p.3より

存在論的転回についてもいくつか論文を読んだが、(ラトゥールはまだしも)少なくともスペルベルを代表的な学者として挙げてるのは見たことがない。一本論文を読むならgoogle:鈴木赳生 〈書評論文〉「存在論的転回」考が便利だが、ここでもかろうじてラトゥールが言及されているに過ぎない。

私の得意な自信を持って言えそう話はここまでだが、せっかくなので自分が勝手に考えてることも少し書いてみよう。

以下は私の勝手な理解なので眉唾で読むように!

ここからは、私がいくつかの論文を読んで、自分なりに整理したことを書きます。正しいかどうかは保証できないので、そこを考慮して読んでください。

人類学の存在論的転回とは何か?

存在論的転回と聞くと、何が存在するか?を扱ういわゆる存在論を想像してしまう。しかし、内実を聞いてみるとあまり存在の話だと思わない方が良さそうだ。

著者らは再帰性(reflexivity)、概念化(conceptualization)、実験(experimentation) の 3 点によって、この方法論を特徴づける(9-24)。フィールドの現実を前に自前の知を反省的に問い返し(再帰性)、記述のために概念をつくり直し/生み出し(概念化)、あらたな現実のとらえ方や考え方を試す(実験)。著者らの「転回」とは、このようにフィールドに依拠して概念をつくり変えていく記述の方法論なのである。

google:鈴木赳生 〈書評論文〉「存在論的転回」考p.97より

存在論的転回で焦点とされているのはむしろ概念や表象であって、必ずしも存在そのものではない。既存の概念に飽き足らず新たな概念を作り出すという点では、哲学の世界で最近起こっている概念工学と問題意識が似ている。哲学では、もともと分析的形而上学として存在論的な研究がなされていたが、概念工学はそうした存在論の研究とはむしろ対照的な領域だ。そう考えると、存在論的転回という呼び名は誤解を招きやすい。

なぜ誤解を招くのに、存在論的転回と名付けられたのか?は調べたがよく分からない。そこで自分なりになぜそのように呼ばれるのかを、人類学の歴史的な展開から自分なりに推測してみた。

認識論から解釈学、そして存在論

二十世紀の前半には、論理実証主義(論理経験主義)に代表されるような世界を正確に写し取る客観的な方法こそが正しい学問のあり方だとする考え方が席巻していた。それに対して同時代に、精神科学(主に人文学)ではテキストから意味を読み取る行為の重要性を訴える解釈学が提示された。

二十世紀後半に入ると、人類学の世界でも解釈学の影響が大きくなった。それは同時代の社会構築主義的な動きとも呼応して、客観性を目指す認識論的な考え方が批判されて、積極的に意味を取り出す解釈学的な考え方が社会科学全般にも広がっていった。

二十一世紀にいる私達は存在論的転回の中にいるが、これは解釈学以後(ポスト解釈学)として捉えないといけない。つまり、一方的に他者を解釈する人類学者の立場から、研究対象となる他者から学ぶ人類学の立場への転換だ。その中でも、存在論であるかのように当たり前となってしまった基礎的な概念―例えば自然や動物―を問い直す必要も出てきた。

私が考える、人類学における存在論的転回の核となる考え方は、主に次のことだと考える。 - 他者は単なる解釈の対象ではなく、学ぶべき相手でもある
- 私達の世界観の基礎となる概念をも疑って、問い直すべきである

存在論と称される理由は主に後者にあると思われる。存在論とは世界観の基礎のことだと考えれば、こんな誤解を招く用語を用いた理由も理解できなくもない。

以上の内容は推測を多分に含むので、内容の判断は自分でしてください1

最新の文化人類学の成果が分かるお薦めポッドキャスト

コクヨ野外学習センターからは二種類のポッドキャストが配信されているが、その内の一方である「働くことの人類学」では、現役の文化人類学者から最新の研究成果を聞くことができる。これを聞くと、最近の人類学が研究対象であるはずの他者からも学ぼうという姿勢を取るようになったのが分かる。

ちなみに、私が人類学にそこそこ詳しいのは、人類学が認知科学に多大な影響を与えたことにも起因する2。その辺りについてもそのうち気が向いたら書いてもいいかもしれない。


  1. どんなものであれ、判断は自分ですべき!なんて書くまでもなく当たり前なのだが、最近はその程度のことも分からない人も増えているので一応書いておきます。まぁ、その判断も単なる感情や偏見でしちゃいけない!のだけれど、指摘してると切りがない。本来、こんな注釈はなくても分かっててて当然でないと困るのだが…

  2. そもそもスペルベルは人類学者のはずだが、成果に人類学っぽさは薄い。文化疫学の他だと、一番有名なのは関連性理論で、最近の成果は理性の相互行為説。まぁ、主要な成果が少なくとも三つある時点で学者としては優秀ではある。