最近の日本での話題を明瞭な議論に落とし込んでみる

日本にいると、右を見ても左を見てもどこを見ても議論が不明瞭なことにうんざりしてくる

議論ばかりしてても駄目だ!的なことを言う人をたまに見かけるけど、単なる言い合いを超える真っ当な議論がされてるのを、日本で聞くことなんて滅多にない。最近の論破ブームも、相手を屈服させたいだけのマウンティングにしか見えないので大嫌いだ(せめてディベートのルールぐらい守ってやれよ!)

例えば、強いAIを汎用AIと一緒にしたり、科学で意識の難しい問題が解ける、的な元々の定義を無視した話は多い。これがアフォーダンスオートポイエーシスのような元から定義の曖昧な言葉なら気にならない(正しい議論などはなから期待してない)。しかし、強いAIも意識の難しい問題もどちらも哲学者による論証が用意されているのに、それが無視されていることにはイラつきしかない1

これは日本での哲学が、所詮は哲学者の固有名詞や専門用語を並べた哲学史としてばかりに語られていて、未だに論証として論じられがたいことへの不満ではあるが、似た不満は日本のあっちこっちで感じる

「どうせ変わらないから選挙には行かなくていい」のか?

最近だと、「どうせ変わらないから選挙には行かなくていい」みたいな意見がネットで話題になっていた。正直、こういうその場の思いつきでしかない素朴な意見なんて(特にネトウヨが言っていて)よく聞くので、私は慣れてて気にならない。それより問題は、それに反発する人(主にリベラル)のべき論を超えない反応の方にガッカリした

どうせ何も変わらないから選挙に行かない…と思うのは自由だ。しかし、選挙は政治を変えるために行くのではなく、政治に責任を持つために行くものだ。例えば選挙の結果として何も変わらなかったとしても、投票率が高ければ皆が決めたこととして納得できるところがある。変えないことを選ぶことは重要である

もう選挙で決まった政権だから批判すべきではないのか?

更によく聞く勘違いは、「もう選挙で決まった政権だから文句を言うな!」という意見だ。これも選挙をそれだけで独立した行為としてしか見ていない証拠だ。正直、選挙に行ってない奴らは政治に意見する資格はないと思う。しかし、選挙に行ったなら政治に意見を言うのは自由だ。選挙に行くことで政治に対する責任が生じるのだから、選挙に行っておしまいではなく、政治への責任を果たすためにも政治に意見する資格はある

それでもまだ「選挙で決まったから…」としつこく言う奴はいるかもしれない。でも考えてほしい。そもそも選挙で既に政治家は決めたのだから、国民が何をゴチャゴチャ言おうと最終決定権は政治家の側にある。どうせ決定権は政治家にあるだから、人々が政権をどんなに批判しようが無視することはいくらでもできる。政権への批判なんて勝手に言わせておけばいいのだ

ただし、政権への批判が無視されたことへの報いを、政治家は後で受ける覚悟は持たざるを得ない。そして、現行の政治に不満のある者は選挙で報いを与えればいい

選挙に行くことで政治への責任を得て、その責任によって普段から政治について論じ続けて、その結果を見て次の選挙で選択する…というサイクルが重要なのだ。選挙に行かずに政権批判してる奴ならいくら叩いていいけど、選挙に行った上で政権批判してる人まで叩く野郎には殺意しか感じない2

「若者は選挙に行くべき」か?

これまでの議論を踏まえた上で、「若者は選挙に行くべき」の意見に対しても、行きたい人だけが勝手に行けばいいと思う

だいたい若者が選挙に行かないのは昨日今日始まったことでもない。そもそも選挙になってから「選挙に行くべき」と騒ぐのが遅くて、普段から政治について語って興味を持ってもらう方が大事。選挙に行くかどうか?は、そうした普段からの活動の結果でしかない

「親ガチャ」と無知のベール

これも比較的に最近だが、「親ガチャ」という言葉が流行っていた。「親ガチャ」とは子供は生まれる親を選べないので、どの親の元に生まれたかで人生が決まる…みたいな話だ3

自分はこれを見たときにすぐに、これってロールズの無知のベールと同じじゃん!と思った。自分がすぐに思いつくぐらいだからそのうち誰か何か書いてくれるだろう、と期待していた。でもどうも駄目そうだ。つくづく日本のリベラル論者にはガッカリしかない

無知のベールが社会の設計の仕方につながる深い議論なのに対して、親ガチャはそれだけで独立した一時的な流行り言葉でしかない。親ガチャはどの親に生まれるかで人生が決まるとする消極的な運命論でしかないが、無知のベールはどの親に生まれるか分からないならどう社会を設計すべきか?という積極的な議論だ。出発点は同じでも意味合いは真逆に近い4

無知のベールの本質を保険の例から説明する

無知のベールもそうだし権力分立もそうだが、日本人は根底となる制度やシステムやプラットフォームについて考えるのが苦手だ。これは小室直樹の言っていた「日本人は社会科学的思考が苦手だ」という話と同じ話で、戦前から現在までさっぱり変わらない5

無知のベールは本気で説明し始めると大変なので、要点となる部分だけ説明します。興味を持った人は自分で勉強してください

無知のベールによる社会設計とは何か?それを説明する一番簡単なやり方は保険を例に出すことである。保険とは、事故や病気になったときのために入っておくと保証される仕組みである。保険に対しては、結果として事故にも病気にもならなかったときに、払ったお金が勿体無い…という人がいる。これはあとづけによる思考法でしかなく、そう思うなら始めから保険入るなよ!でしかない

重要なのは、自分が事故や病気になる可能性はあるのにそれが前もって分からない…という確率的な状態である。こうした不確実な状態に対して、保険はもしもの時の保証による安心を与える。結果として事故や病気にならかった時に保険に入っていて損したと考えるのがおかしくて、もしもの時の保証による安心を買ったのだと思うべきだ

日本のリベラルの困ったところは、弱者の味方ごっこみたいな道徳的な話にすぐに落とし込みがちなところだ。そうではなく、保険における事故や病気の可能性のような、自分が事故にあうかも?自分が病気になるかも?みたいな、より多くの人における交換可能性を根拠として持ち出すべきなのだ。そして、無知のベールとはまさにそうした議論なのだ

つまり、社会の中の誰と立場を交換しても構わない…と思えるような制度を作りましょう!というのが、無知のベールによる議論の本質となる目的であり、合理的選択理論を用いた具体的な議論は(古びたせいもあり)あまり詳しく知らなくても問題ないと思う

ただし、交換可能性の範囲をどの程度に置くべきなのか?は、現代社会においてはますます分かりにくくなっている。それこそローティの言うように人々の感情によってその範囲は決まりうる。後期ロールズの政治的リベラリズムとは、交換可能性の範囲を定める条件についての議論であって、前期の正義論を否定したとかコミュタリアンの批判を受け入れたといった見解には根拠がない(「正義論」の第三部の書き換えとするのが正しい)

とりあえずの結論

この記事は、始めから明確な目的があって書き始めたのではなく、自分の中のモヤモヤを発散するために書き始めただけなので、元から結論など決めてなかったが、ここまで書いてみて思いついたことで締める

政治への責任を全うするためであれ、人々との交換可能性の範囲を定めるためであれ、人々が会話を続けることが必要だ。それもできればネットだけでなく、現実世界で会話することで相異なる互いを知りえるはずなのだ[^5]


  1. ただし、これらの論証がただの直観ポンプ(勝手な直観に頼ってるだけ)でしかないと可能性はありうる。だとしても、元々の論証を無視していい理由にはならない

  2. コロナ禍の中、あるラジオ番組で「政権批判するな!」的なことを言った某大物ミュージシャンの言葉をリアルタイムで聞いていたが、本気で殺意を感じた。そのミュージシャンは政治を語らない芸能人が好き的なことを普段から言っていたが、その当本人が最も最悪の政治的発言を平気でしたのには呆れた。それ以来、そのラジオ番組を聞くと不愉快になるので聞かなくなった(好きな番組だったがもう無理)

  3. 親から子が生まれるから「親ガチャ」という言い方は変だ、という批判はネットでも見てもっともなのだが、ここではそこには突っ込まない

  4. もちろんロールズの無知のベールに対しては、リバタリアン(自由至上主義者)による批判は知られている。しかし、日本には真っ当なリバタリアンなんてほとんどいない(その場の勢いで自己責任論で騒いでるだけで、一貫性などない)ので、ここでは論じない(むしろ本物のリバタリアン出てこいや!)

  5. コロナ禍がそれを邪魔してるのは端的に残念でしかない。じゃあ、コロナ禍でなければ良くなってたか?と言われたら、そうでもない気もする(自分的にはコロナ禍の前が良かった訳でもない)。顔を合わせられないなら、せめてまともな議論ぐらいもっとあればいいのに…とはずっと思ってる

予測処理(予測符号化)の源を引用から探る

今の認知科学で大いに話題となっている予測処理およびその元である予測符号化には、歴史的に見ると何人もの先駆者がいることはよく指摘される。彼らは皆、知覚とは単に外界から感覚を受けとるだけではないことを強調する点で共通している

多くの研究者が予測処理(PP)のアイデアを、十九世紀の物理学で医者・心理学者であった新カント派のハーマン・フォン・ヘルムホルツの仕事と結びつけてる。彼は「脳は仮説検証マシンである」と明示に著した最初の学者だ。
…中略…
他にも、予測処理(PP)の哲学的な発想として重要なのは、マッケイやナイサーやグレゴリーのような研究者の仕事もあり、彼らは「合成による分析(analysis-by-synthesis)」を提唱した認知心理学者たちに属している。この見方によると、脳は感覚によって受け取った情報を集めて(ボトムアップに)世界の内的モデルを作るというよりも、表象を作って集めた情報と比較しようとしているのだ。

Michał Piekarski "Understanding Predictive Processing. A Review" p.4より 1

こうした、いわゆる知覚の無意識的推論の考え方はギブソン派や反表象主義者に忌み嫌われており、その影響で日本でも誤解されていることはよくある。だがとりあえず賛否は別にして、正しく理解することが議論を先に進めるためには必要だ。この記事はそのきっかけを与えるのが目的だ

ヘルムホルツ本人の言葉を含んだ引用

まずは、よくこうした話題でよく挙げられるヘルムホルツについての論文からの引用をしてみよう

そしてこの点がヘルムホルツの考える経験説のハイライトになるのだが、経験的に形成された連合や反復は、「無意識的推論(unbewusster Schluss)」という形で働くとされる。ヘルムホルツのこの概念は非常によく知られている。「無意識」という言葉を異なる文脈に過度に引き付けるべきでないことは当然として、「推論」という言葉は本来意識的に行われる高度な論理活動を言うので、その名称は言葉だけを表面的に追う向きには誤解の余地を孕んでいるが、ヘルムホルツはその点についてこう説明している。

実際のところ、我々の感性的知覚において大きな役割を果たしている推論は、論理的に分析された推論の通常の形式で語られるものでは決してない。いつも歩いている心理学的分析の道から脇に行かなければならない。そうすれば、通常いわゆる推論において働いているのと同様の精神活動がここで実際に関わっているということが確信できる。論理学者の推論と、感覚を通じて獲得された外界の見方として結果が表れてくる帰納推理(Inductionsschlüsse)との間にある違いは、私には実際のところ単に外面的なもののように思われる。主に違うのは、前者は言葉で表現できるが、後者はそうではないという点である。何故なら、後者では言葉の代わりに感覚や感覚の記憶像しか見られないからである。(NF,358)

確かに神経繊維内で生じている事態を言語化することは困難であるが、そのため言葉こそ用いていないが、知覚の背後で働く「推論」は、命題や判断とも見なせるものである。

福田覚「ゲーテヘルムホルツ」p.63-4より

正直なところ、日本であまり理解されていないヘルムホルツについての引用をできた時点で個人的にはもう満足だ。だが、手元にあった本からたまたま今回の話題に都合のいい箇所を見つけた

リチャード・グレゴリー本人の言葉を含んだ引用

リチャード・グレゴリーは、私が学生時代に読んで好きになった学者だ。ここでは手元に持っていた認知心理学事典の錯視の項目からいい感じの箇所を引用しておきます

Gregoryの認知的錯覚に対する考え方は、知覚の理論化における経験主義、構成主義の伝統の内にある。このアプローチを要約する有名な格言に、Helmholtsの「知覚とは無意識の推論である」がある。Gregogy(1973, p.51)はこの点を、次のように説明している。

知覚とは、利用しうる感覚データと解決困難な知覚の問題に左右される、多少とも真実と思われる「結論」(ないし「仮説」)である。(それらは)感覚によって与えられたデータや記憶の中に貯蔵されている(データから)推論されるものである。この見方から言うと、ちょうどどのような議論であれ間違っているかもしれないように、どのような知覚であれ間違っているかもしれない。それは仮説が間違っているからかもしれないし、あるいは議論の形式が誤っているからかもしれない。知覚についてこのような考え方に立つなら、哲学者にとって逆説と曖昧さが議論の本質に対してもつ重要性、あるいは真実や事実の発見のためにいかにデータを用いるのか、ということの重要性と同じ重要性が、錯視にもあるといえる。

M.W.アイゼンク編「認知心理学事典」『錯視』 の項目 p.140より

学生時代に読んだリチャード・グレゴリーの錯視の説明には本当に感心したし、故に錯視をうまく説明できない直接知覚説には納得したことがない2。無意識的推論説の良さはもっと知られてほしい

ここまでが予測処理(予測符号化)の歴史的な先駆者としてよく挙げられる例だが、それはまだ本当は一部でしかない。これまで挙げてきたのは知覚の理論だったが、もう一つ重要なのは日本の学者による運動制御の研究である。知覚論と運動制御論の合流点に予測符号化があり、それを拡大して一般化されて予測処理や自由エネルギー原理が成り立ったのだと考えている

伊藤正男の講義録からの引用

元々の論文から引用するのは私にはキツイので、後々になされた伊藤正男の講義から、予測処理(予測符号化)と関連があると思われる箇所を引用してみます

この外界,もしくは脳内の他のシステムの入出力関係をコピーしたネットワークのことを内部モデルと呼ぶ.
ヒトはこの内部モデルを獲得することで,適応的な運動制御を学習することができると考えられている. 運動学習を実現するための内部モデルとして,運動指令を入力,その結果おこる運動(実際の体の動き)を出力とする,身体や環境の特性をコピーした内部モデル (順モデル),行いたい運動の計画を入力とし,筋肉に送る運動指令を出力とする,運動野での処理をコピーした内部モデル(逆モデル)の 2 種類のモデルが考えられる.前者の場合,運動指令からその結果を知る事ができ,ヒトが運動の結果を感覚刺激として受け取って処理する時間を無視して実行する運動の結果を予測することで,なめらかで正確な運動制御に貢献していると考えられる.また後者の場合,行いたい運動からすぐ運動指令を決定できるため,学習が進めば最適な運動の選択を素早く行う事が出来る.伊藤は,順モデルの獲得による運動学習を提案した(Ito, 1970).また逆モデルはその後に,川人らが提案したモデルである(Kawato, Furukawa and Suzuki, 1986).

「講演者:伊藤正男: オータムスクール ASCONE2008」p.95より

ここで重要なのは、脳に内部モデルが作られていることだ。これが予測処理(予測符号化)における生成モデルの重要性(およびそこから派生した表象主義論争)につながっている

予測処理のもう一人の先駆者C.S.パース

最後に、この話題では必ずしも出てはこないが、実は重要な先駆者としてパースを挙げておきます

ベイズ的な推理では、出力頻度だけでなく説明(仮説)そのものの特徴にも注意が払われているが、これは(ベイズ)知覚とは感覚入力の原因に対する脳の「最良の推論」であるというスローガンとして理解できる。ということは、ベイズ脳とは演繹でもなく帰納でもなくアブダクション (Hohwy 2014)であると言えるのだが、ここでいうアブダクションとは典型的には「最良の説明への推論」として理解されるものだ

Anil K. Seth"Inference to the Best Prediction A Reply to Wanja Wiese" p.2より

ただし、パースについては事情がややこしい。パース自身が知覚はアブダクションであると指摘している箇所は確かにある。しかし、アブダクション最良の説明への推論との関係については議論が紛糾しているところがある3。予測処理とアブダクションには共通点があるように見えるのだが、まだその辺りはあまり整理されていない 4


  1. この引用に対して細かい指摘をすると、ヘルムホルツは(当時の分類としては)心理学者というよりも生理学者とする方が一般的だし、「合成による分析」はナイサーが元々は工学における音声処理で使われていたアイデアを借りてきたものだ。内的モデルという言葉も、予測処理における生成モデル(表象主義論争)を考慮すると誤解を招く言葉遣いで感心しない。また論文の注では、Hohwyが中世のアラビアの学者Ibn al-Haythamをも先駆者として挙げていると指摘されてる

  2. 生態学的アプローチの系譜をたどると直接知覚説は必須ではないと感じる。ギブソンの影響が大きすぎることで、生態学的アプローチへの理解が偏っている気がする。ギブソンの知覚論についてはもっと当時の心理学的な背景から理解するべきだと思う。

  3. アブダクション最良の説明への推論については、同じではないことにはパース研究者の間でかなりの同意があるが、どの程度まで共通点があるか?については相当に意見が分かれている(無関係派もいる)

  4. パースについては個人的にいろいろと調べてはいるので、気が向いたら何か書くかもしれない。特にアブダクションについては前々からいろいろ調べてきてる

自由エネルギー原理にとりあえずの見切りをつけるために考えてみた

自由エネルギー原理には前々からしっくり来るところがなかった。私自身は予測符号化について勉強することから始めたので、自由エネルギー原理には後から接したことになる。自分は予測符号化には好意的だ。 しかし、自由エネルギー原理の源には予測符号化があるはずなのに、自分は自由エネルギー原理にはどうも馴染めなかった

自由エネルギー原理は現在流行っている最中で、認知科学オタクの私としては無視しきることはしがたい。とはいえ、予測符号化の拡張としての予測処理には個人的に興味が持てるのだか、自由エネルギー原理と予測処理との関係にははっきりしないところがあって、ずっとモヤモヤが拭えなかった

Daniel Williams "Is the brain an organ for free energy minimisation?"を読む?

そこで見つけたのが、つい最近出たばかりの次の論文 Daniel Williams「脳は自由エネルギー最小化のための器官なのか?」だ

Daniel Williamsは、私が前に2010年代のベスト3論文に選んだ著者の一人でもある。彼のいいところは他の学者が臆して書かないことを率先して書いてしまうことだ。前にベスト3に選んだ論文でも予測処理に群がるenactivismをくさしていたのが爽快だった。この論文もまだ他の学者が臆しがちな自由エネルギー原理への批判的論評をまるまる一本の論文で行なっている

同じく自由エネルギー原理でも、マルコフブランケットの使用を批判した論文は既にこのブログでも紹介したことがあるが、その後も(マルコフ一元論を含めて)同じテーマについての批判的論文が幾つも書かれている。だが、自由エネルギー原理の本丸である自由エネルギー最小化については、なかなか扱われにくかった

Daniel Williamsの論文にざっと目を通した後に、ブログ記事を書いて考えを整理して自由エネルギー原理に対して区切りをつけよう(わざわざ追うのはやめて様子見に移行しよう)とした。そこでこの記事を書くために改めて論文を読み直してみると、納得しがたいところが目につくようになった。論文の内容にそのまま沿って記事を書くのはどうもマズそうになってきた

自由エネルギー原理の基本を確認する

自由エネルギー原理について本気で説明しだすと大変なことになるので、最小限の説明を引用で済まします

自由エネルギー原理(FEP)を巡る現在の関心と論争の多くは、二つの特徴的な主張から起こっている:(1)それ(FEP)は自己組織化するシステムが存在する可能性の条件を定める、つまり「自由エネルギーを最小化しない自己組織化するシステムは存在できない」。(2)そこ(FEP)には、どのように脳が働くかを我々が理解するための重要な含意があり、「脳の統一理論」(Friston)や「認知科学と生物学のための大統一原理」(Hohwy)が提示されている
Daniel Williams "Is the brain an organ for free energy minimisation?" p.2より

ここで扱うのは主に一つ目の自己組織化システムの主張であり、二つ目の統一理論の主張はせいぜい副次的にしか問題としない。

次に、ここで大きな問題となるのが、自由エネルギー原理と予測処理論との関係だ。これについては以下の引用が参考になる

生物学的なシステムの適応的行動についての自由エネルギー手法(FEA)の見方には、驚き最小化が予測処理論で示されるような階層的モデルによって実行されるべきと要求する何かがあるわけではない…と気づく価値はある。とはいえ、他の予測処理論の文献では自由エネルギー手法と予測処理論の間にはきっちりした関連があるとする論者がいる…と分かっておくのも重要だ
María Jimena Clavel Vázquez "A match made in heaven: predictive approaches to (an unorthodox) sensorimotor enactivism" p.664の注13より

自由エネルギー原理と予測処理論は安易に一緒に語られがちだが、その関係は必ずしも明確なわけではない。上の引用で指摘されていることは、各種の数理モデルを比較した論文からの次の引用が明示している通りだ

自由エネルギー原理(FEP)は正確には何を予測し何を予測しないのか?この話題について語るのは易しくない、なぜなら自由エネルギー原理の適用の基盤に横たわる仮定は従順に変わりうるからだ(異なる適用によって異なる生成モデルや異なるアルゴリズム的な近似や異なる神経的な実装となる)
Samuel J. Gershman "What does the free energy principle tell us about the brain?" p.1

自由エネルギー原理と予測処理論に直接のつながりがある訳ではないことを、Daniel Williamsは「予測処理への高架道はない」("There is no high road to predictive processing")と表現している。Daniel Williamsはそれを示すために、自由エネルギー原理(FEP)を説明的FEPと記述的FEPの二つの可能な解釈に分けて説明している

自由エネルギー原理についての超越論的議論

実はDaniel Williamsの論文は、ここからが肝であると同時に罠だらけでもある。説明的FEPと記述的FEPについて議論する上で、超越論的議論(transcendental argument)にかなり頼ることになる。だが困ったことに、論文中に超越論的議論についてはあまり説明されていない

超越論的議論とは、カントを源としストローソンやストラウドが定式化した議論であり、ある物事が成立するための条件(前提)を問う形の議論だ。ものすごく単純化した分かりやすい例を挙げると…なぜ私達は因果を理解できるのか?それは私達には因果を理解できる能力があるからだ…となる1

では、自由エネルギー原理についての超越論的議論とはどんなものだろうか?

つまり、生きたシステムは驚きを最小化するはずだという主張は、自由エネルギー原理(FEP)そのものと置き換えられる。「非均衡安定状態を達成する全ての『もの』は、基礎的なベイズ推論(要するに自由エネルギー最小化)を成し遂げるかのように説明できる」
Daniel Williams "Is the brain an organ for free energy minimisation?" p.6より

要するに、自由エネルギー原理を前提にすると生きたシステムを上手く理解できます…ということだ。この超越論的議論を軸にして説明的FEPと記述的FEPについて論ずることになる

説明的FEPと記述的FEPを論ずる

説明的FEPと記述的FEPの違いは、自由エネルギー原理をどう解釈するか?にある。簡単に説明すると、自由エネルギー原理がメカニズムを表しているとするのが説明的FEPであり、自由エネルギー原理は説明ではなく現象の再記述だとするのが記述的FEP

ただ問題は、ここからのDaniel Williamsの説明的FEPと記述的FEPついての議論は興味深いが納得しがたい微妙さもあることだ。なので、ここからは私自身の見解を大きく交えることとなる

説明的FEPを吟味する

説明的FEPについては、超越論的議論を持ち出して話がややこしくはなっている。簡単に言えば、自由エネルギー原理はメカニズムを特定しないので説明的FEPには問題があるとなっているだけだ2。どうもDaniel Williamsの議論に切れを感じれない

個人的には、自由エネルギー原理はもともと予測符号化を源にしてるが、予測符号化以外のメカニズムも含みうるのにそれが特定化されていない…という状況が奇妙でしかない。私からすると説明的FEPは間違っているというより、正しいメカニズムがまだ分かってないのに、自由エネルギー原理が前もってメカニズムに限定を与えてるのが余計なお世話にしか見えない

正直、説明的FEPが正しいのかどうか?私には判断しきれないけれど、現時点において研究プログラムとして有効とはあまり思えない。メカニズムの研究は自由エネルギー原理とは独立にやればいいのであって、自由エネルギー原理からのメカニズムへの一方的な制約に意義があるとはどうも思えない

記述的FEPを吟味する

記述的FEPとは、(メカニズムによる説明というよりも)生き物の行動を「自由エネルギーの最小化を含んで再記述できる」(Daniel Williams 2021,p.12)とする解釈だ3

これについては、論文でも挙げられている合理的選択理論や進化生物学で行われているゲーム理論(進化ゲーム)による理論を想定すると分かりやすい。ゲーム理論(進化ゲーム)による説明は、行動のあり方のマクロな動きを説明してるだけで、個々の行動主体の行動決定のメカニズムを特定することはない。同じように、自由エネルギー原理も行動のマクロな描写を数理的にしているだけなのだ。

説明的FEPより記述的FEPの方がまだ説得力がある…とは感じる。ただ問題は、メカニズムと関係ない自由エネルギー原理がどう(メカニズムを扱う)認知科学にとっての統一理論たりうるのか?よく分からなくなることだ。少なくとも、予測処理論への通路は明示な形ではなくなってしまう。結果として、元々の源であった(メカニズムとしての)予測符号化との関係もよく見えなくなる。思ったよりも失うものが多そうだ

これは個人的に気づいたことだが、ゲーム理論とのアナロジー4を見てたら、自由エネルギー原理が本当に非均衡システムなのか?疑いが生じた。もちろんゲーム理論はたいてい均衡システムなのだが、自由エネルギー原理も均衡点がありうる気がする

例えば自由エネルギー原理でも論じられる真っ暗闇問題(dark room problem)とは、刺激がなければ驚き(予測誤差)も起こらないので動く必要がなくなる問題だ。ということは、自由エネルギー原理での振る舞いの複雑さは環境の複雑さを反映してるだけであり、環境が単調なら均衡点が存在しうるはずだ。もしかしたら自由エネルギー原理は偽装した均衡システムかもしれないが、だとしてもそれは予測処理論にも当てはまるのでここではこれ以上は議論しない5

おわりに

ここまで自由エネルギー原理の解釈をいろいろ論じてきたが、正直なところ自由エネルギー原理に見込みがあるのか?は私にはよく分からない。たとえ自由エネルギー原理が間違っているとしても、科学的な研究プログラムとしては(批判も含めて)様々な研究を生み出す点で生産的である可能性もあるので、安易に否定しさることはできない

それより問題は、自由エネルギー原理の解釈が曖昧なことで混乱も起こりうることだ。例えば、自由エネルギー原理にはenactivistも多く関わっている。その中にはラディカルな反表象主義者もいるが、それも自由エネルギー原理が力学的アプローチと友好的に見える解釈をも許してしまう曖昧さに原因がある。自由エネルギー原理は計算主義との関係を明確にするべきだ!と個人的には思う

何が正しいのであれ、どっちにせよ明晰な議論は必要であり、Daniel Williamsはそれを求めてこの論文を書いたのだ。そして、それは私の望むことでもある


  1. これはトートロジーでは?という批判は受け付けない。文句のある奴は自分で勉強しろ!超越論的議論についての説明はここでの主眼ではない

  2. ワットガバナーや境界を持った人工知能を挙げて、それらが変分ベイズが実装されてる訳ではない…とする説明もあるが、そもそもそれらは自己組織化システムとして相応しい事例なの?と疑問しかない

  3. 記述的FEPにとって、必要なデータが行動だけなのか?例えば脳の物理的状態のデータは必要ないのか?いろいろ疑問が湧かなくもないが、話がややこしくなりそうなのでここでは問わない

  4. 自由エネルギー原理でよく見る四対の図が社会学パーソンズAGIL理論と似ていることも均衡システムを思わせたきっかけだが、私は社会システム理論にそこまで詳しくない上に話がややこしくなるので、本文では省略した

  5. 物理学的な均衡とゲーム理論における均衡は違うよ!と言う人はいるかもしれないが、そもそも自由エネルギー原理が物理的レベルの話なのか?情報的レベルの話なのか?(ここまでの議論を見ても)よく分からない。物理的には非均衡システムだが情報的には均衡システムだ…というのは、もしかしたらあり得るのかもしれないが、ならば曖昧にごまかさずにちゃんとそういう議論もしろ!…としか言えない