生命と心の連続性を論ずる難しさについて論じてみる

最近、たまたま生命(life)と心の(mind)の連続性についての論文を読んだのだけれど、どちらにも多かれ少なかれガッカリした。生命と心の連続性というとエヴァン・トンプソンの著作が知られているが、どちらの論文にも、トンプソンの著作からの共通の議論みたいのが見られる訳でもなく、それぞれが独自の議論を展開していた

どちらの論文の議論も成功してるようには見えなかったが、せっかくなので少しだけ見ていきたい

最近のフリストンの共著論文を濫造しすぎが招いたもの

まずは、近年は論文を濫造ぎみのフリストンも共著者の「Examining the Continuity between Life and Mind: Is There a Continuity between Autopoietic Intentionality and Representationality?」だが、これがかなりひどい

この論文は、前半では反表象主義と認知主義の対立を論じ、後半は表象についての道具主義実在論の対立を論じている。最後は虚構主義を採用する自分たちの自由エネルギー原理についてのオートポイエーシス解釈が正しいと結論づけられる

そもそも、これが生命と心の連続性とどう関連しているか?も怪しいが、ここで指摘する問題はそこではない。前半の反表象主義における表象と後半の予測処理理論における表象は全く別物なのに、その別々の議論が強引に結び付けられている。古典的計算主義的な表象と構造的類似性を持った表象をごっちゃにしてるのは、いくらなんでも無茶苦茶すぎる。表象主義者をみんな実在論者だと決めつけてるのもいただけない

この論文はあまりにひどすぎて、ほぼ何の参考にもならない。これに比べれば、次の論文も不満だらけだが全然マシに思える

最近の連続性テーゼを扱った博士論文の序章と結論を眺めてみる

博士論文と思われるMatthew Simsによる「A Strong Continuity of Life and Mind:The Free Energy Framework, Predictive Processing, and Ecological Psychology」は、本体は論文集になっている。しかし、付け加えられた序章と結論がタイトル通りのテーマを扱っていて、それなりに独立して読める

この序章と結論での議論のうまくいってなさは、(本体の論文は悪くないので)著者の能力の問題というよりも、生命と心の連続性というテーマの難しさを表しているように感じた。その感じをぜひ紹介したい…とつい思ってしまった

さっそく、序章の第0章の冒頭から引用しよう

生命は心とどう関係しているか?この質問への一般的な答え方には、生命と心の連続性(LMC)と呼ばれるテーゼ(Godfrey-Smith, 1996)が中心にある。LMCはその最小限の論争的な形では、認知は生命を必要とするとだけ主張する。言い換えると、心あるところには生命がある、でもその逆は真ではない。

Matthew Sims「A Strong Continuity of Life and Mind」ⅵより

生命と心の連続性は、人工知能は心を持つか?にも関連した興味深い説である。生命と心の連続性テーゼはさらに、弱い・強い・深いの三段階に分けることができる。ここまで読むと、面白そうだなぁ〜となるのだが、その期待の梯子はすぐに外されることになる

次は、生命と心(認知)を定義するのだが、ここに罠がある。著者も気づいてる通り、この論文での生命と認知(心)の定義にはどちらにも適応性(adaptivity)が含まれている。論文での環境の複雑性への適応に対する指摘にはそれなりに興味深い部分はあるが、生命と認知(心)の連続性を論ずる上で生命と認知(心)にあらかじめ共通性を持たせて定義してしまうのは論点先取でズルい。生命と心を独立して定義して連続性を論ずる形にしないと、議論としてフェアじゃない

論文ではこの後、自由エネルギー原理と予測処理と生態心理学を別々に説明して序章を終えている。ただし、自由エネルギー原理と予測処理の違いをちゃんと分けて説明することには成功してるようには見えない。これについては、このブログでもこの前の記事で論じたが、自由エネルギー原理と予測処理との関係そのものが未だに曖昧なので、著者を責める気にはあまりなれない

飛んで、結論では自由エネルギー原理と予測処理と生態心理学における連続性テーゼの関係を論じている。本体の論文集と関わらせた話はつまらなくはないが、連続性テーゼについては物足りない。最後は、環境とモデルの関係に言及するのだが、これもモヤモヤが残る。自由エネルギー原理や予測処理においては生成モデルの解釈について論争真っ盛りだし、そもそも生態心理学ではモデル自体を認めないはずだが、そうしたやけどしそうな熱い部分はスルー。目の付け所は悪くないのに突っ込みが足りないのは勿体無い

生命と心の連続性というテーマの難しさを勝手に考えてみる

この論文を読んでて思うのは、生命と心の連続性を論ずることの難しさだ。なにより困るのが、生命と心を独立して定義することの困難さだ

生命を定義する

生命を本気で定義しようとしたら、一冊の本でも足りないかもしれない。そもそもウイルスは生命なのだろうか?細かい分類の問題はスキップするにしても、それでも厳しい。物理主義的に定義できれば一番いいのだが、構成物質で定義しようとすると生き物と死体の区別が難しい。振る舞いで定義しようとすると、機械との差をはっきりさせないといけない。これに答えられるなら、人工知能の哲学的な議論の主要部分は既に解決している。生殖を持ち出すのは目の付け所は悪くないのだが、生殖だけで定義するのは心許ない

生命を定義する最も穏当な方法は、生命とは進化によって生じたものとすることではないだろうか。生命を内実で定義するのに無理があるなら、こういう外面的な定義をするしかない。これだと、生殖や適応性を暗に含み込んでるので都合がいい。あえて問題を挙げると、進化が生じる直前の生命は生命ではなくなる…という欠点はあるが、ほぼ全ての生命は進化によって生じたのでそこは大目に見よう(将来的に実験室で生命を合成できる可能性も無視する)

心を定義する

次は心の定義だが、考える前に既に頭が痛い。心の定義ができるなら、心の哲学の主要部分は必要なくなる。機械は心を持ちえるのか?を議論する必要もなくなる。振る舞いだけは人間と同じ内面のないゾンビを想像する必要もない。物にも心はあるかもしれないとする汎心論に心をはせる必要もない。もちろん、Simsのように心(認知)を環境への適応性で定義するのも問題がある(進化を暗に含み込んだ定義の問題[定義のせいで連続性を論ずる意義がなくなる]だけでなく、適応的でない振る舞いの扱いにも困る[なぜなぜ物語への道まっしぐらが目に見える])

実はSimsの論文に心を定義するヒントがある。それはオートポイエーシスによる“sense-making”という定義だ。senceは意味と訳したくなるが、それだと言葉の意味を含意しそうで誤解を招く。最小限の心が“sense-making”を持つので、それは人間だけが持つ言葉とは関係ない(反表象主義はこのアイデアを継承している)。senseは意味と感覚を併せ持った感じで理解する方が正しい。エヴァン・トンプソンは、「行動を推し進める規範と意味合い(norm and significance driven behaviour)」という言い方をしている。これは心の定義として有望そうだ

ただし、問題はオートポイエーシスが生命と心の連続性について最も深いテーゼを提示していることだ。深い連続性テーゼ(Simsはentailment説とも呼んでる)とは、心あるところには生命あるとするだけでなく、その逆も正しいとする考え方である。なので、最小限の心を全ての生命が持っているとする想定から、“sense-making”のアイデアが思いつかれている。このような強い前提から着想された考え方を、心の定義として採用して連続性を論じてる良いのか?はかなり躊躇する

で、どうする?

ここまでで定義の問題は解決してないが、定義の話だけで眉間に深い皺が刻まれてしまう。ましてや、生命と心の連続性をどう論ずればいいのか?よく分からない。というか、定義の話の中に既に含まれている連続性の話題だけで、もうお腹は膨れている

この先は、これを読んでる人で自由に考えてください。すでに紹介した論文を見ての通り、生命と心の連続性についてはまだ皆が認める定まった議論がほとんどない状態なんです

ネットですぐ手に入る論文(エッセイ)をお薦めする(2021冬)

現在、ここに書きたい記事のアイデアはいくつかあるのだが、それをどう書けばいいのか?当分はまとまりそうにない。そこで今回は、比較的に最近よんだ、ネットですぐに手に入るお薦め論文(もちろん無料)を紹介してみます

これから紹介するのは、どれも論文とは言ってもほぼエッセイに近いので、特別な知識がなくとも誰でもだいたい読めます。手軽にダウンロードして読んでみてください(つまらなくても読むのやめればいいだけで損はしない)

原啓介「確率論の誘惑 — 世俗からの確率論入門」

原啓介「確率論の誘惑 — 世俗からの確率論入門」 [追記(2021.11.27)コメントの指摘でリンクを直しました。ありがとうございます]

正直なところ、このお薦め論文紹介の記事を書こうとした最も大きなきっかけは、この論文を見つけたことだ。自分はネットで論文検索はよくしているが、これは読んですぐにでも紹介したいと思った

これは今年(2021年)の市民講演会を元にした、タイトル通りに確率論入門である。もちろん、さすがに知識ゼロからの文字通りの入門ではないが、なんとなく確率とは何か?を知っている一般向けの内容としてはとても優れている

数式もいくつかあるが、それらは無視して分からない所は適当に読み飛ばしても、ある程度は読めるかもしれない。少なくとも後半にある人間原理の話題ぐらいは、確率チンプンカンプンでもまあまあ楽しめる気がする。確率に興味がある人なら、人間原理の他にも確率空間・主観的確率・ミーゼスといろいろな話題が、短めのエッセイにそれほどレベルを下げることなく分かりやすく書かれていて、素直にお薦めできる

すぐにでも紹介したいと思うほどにお気に入りなので、文句なんてないも同然だ。あえてひとつだけ挙げると、ケインズを主観的確率に含めるのは違うと思う。それだと、ケインズの確率論へのラムゼイの有名な批判の位置づけが分からなくなる。とはいえ、(ケインズを源とする)論理的確率の現在における位置づけは私にもよく分からないので、気にするほどのことではないのかもしれない

統計に少しでも興味や関わりのある人には、ぜひ読んでほしい。どうせ短めのエッセイですぐ読めるし、読んで損するとは思えない

佐藤郁哉「Syllabus とシラバスのあいだ─大学改革をめぐる実質化と形骸化のミスマネジメント・サイクルを越えて─」

社会学者の佐藤郁哉が書いた大学教育論や研究評価事業論についての論文は、ネット上にいくつかあがっている。その中から、佐藤郁哉らしさが出ていて読みやすいこの論文をお薦めしたい

私が二十年以上前の学生時代に、(認知科学を知るよりも前に)教育社会学に夢中になったことがある。佐藤郁哉はその頃に好きになった社会学者であり、もちろん代表作の暴走族研究は面白く読んだし、彼の調査法についての著作である「フィールドワーク」は文字通りの愛読書だった

ここまでは私の過去の話。で、少し前に大学論だか教養論やらについてネットで調べていたときに佐藤郁哉の新しい論文を見つけて、読んだ一つがここで紹介するものだ。これは大学のシラバスについての論文だが、単なる大学教育論を超えて日本的な組織論としても面白く、社会人も含めて広くお薦めできる

この論文で言われている和風の電話帳シラバスは私の学生時代に既にあったが、それはネットで見れる欧米のシラバスとはかなり違う。日本は流行りのシラバスなるものを表面的に導入(のふり)をして、お上の命で取り入れたものの日本の事情には合っていないのだが、さりとてやめることもできない…という日本的な組織のダメダメな所が描かれている

誰もが面白く読めるとまではいわないが、大学論だけでなく組織論としても興味深く、日本的な改革の駄目な実例の分析としてもためになる。安易な輸入や効率化を超えた戦略を考えるのに有効だろう

戸田山和久「感情って科学の概念なんだろうか」

戸田山和久は日本を代表する分析哲学者であり、最近は心理学者と組んで独自の概念工学の試みを行っていることで知られている。この論文は、心理学者を前にした講演が元になっており、(感情)心理学の哲学であると共に概念工学の一貫にもなっている

現在の科学哲学は、昔のような一般化された科学を対象とした哲学ではなく、個々の分野毎に分けられた個別科学の哲学が主流となっている。このブログでよく扱うのも新しめの認知科学の哲学ではあるが、日本の学者には現役の科学を相手にした個別科学の哲学を論じられる人は多いとは言えない。その中で戸田山和久の試みは貴重である

この論文では、心理学で扱う「感情」が素朴(folk)な概念に頼りがちな現状を指摘した上で、どうすれば「感情」を科学的に調べることができるのか?を、欧米で起こった論争を参考にしながら論じている。そこで、感情のカテゴリーに分ける試みとまとめる試みを見ているが、まさにこれが概念工学と関わりがあることが暗に示唆されている

現役の科学を対象として論ずる哲学者は、日本ではまだ珍しい。ましてや、オリジナルな議論をも提示できる戸田山和久の試みは見がいがある

尾崎俊介自己啓発本として読む 『ホール・アース・カタログ』」

このエッセイの著者は、近年は自己啓発本についての思想史的な研究を行なっており、個人的に注目している。これもそうした研究の一貫となる最新版である

「ホール・アース・カタログ」は、カウンターカルチャーの時代に聖典のように扱われた本である。これがどのような内容で、どのような文脈の中で出てきたのか?を説明している。カウンターカルチャー時代に現れたニューエイジエマソンからのアメリカの伝統から理解できると指摘しながら、一見すると単なるカタログであるはずの「ホール・アース・カタログ」がその中でどのように作られ受けいれられたのか?

だが、高度文明社会の只中に生まれ落ちた元ヒッピー/現ニューエイジャーの若者たちにとって、自然に帰ることはそう容易ではなかったはずである。 畑を作るにしても、家禽を飼うにしても、家を建てるにしても、その方法も分からなければ必要な道具も分からず、それらをどこで手に入れればよいかも分からない。知識と道具――彼らにとって切実なまでに必要だったのは、 この二つだった。
そしてまさにこの二つの必要を満たしたのが、WECだったのである。

尾崎俊介「自己啓発本として読む 『ホール・アース・カタログ』」」 p.160より

ソローの伝統から生まれた「ホール・アース・カタログ」から、現在のエコロジー思想や自然志向へとつながることになる。そして、ここにある(自然の中で)自力で生きる…とはSelf help(自己啓発)そのものだ

詳しくはエッセイを読んでもらうとして、もう少しだけ個人的な指摘をしておく。エッセイ本体ではカウンターカルチャーのボジティブな面が中心に描かれているが、私はカウンターカルチャーにはネガティブな変貌もあったと思う。それは自己啓発が他人を頼るな!のネオリベ思想に豹変し、カタログ文化が消費社会に取り込まれ、スピリチュアリズムは社会を変えない言い訳になった。ほぼ同時代に生まれた知能増幅(IA)や人工知能(AI)にも現在では似た変貌を感じる

最近の日本での話題を明瞭な議論に落とし込んでみる

日本にいると、右を見ても左を見てもどこを見ても議論が不明瞭なことにうんざりしてくる

議論ばかりしてても駄目だ!的なことを言う人をたまに見かけるけど、単なる言い合いを超える真っ当な議論がされてるのを、日本で聞くことなんて滅多にない。最近の論破ブームも、相手を屈服させたいだけのマウンティングにしか見えないので大嫌いだ(せめてディベートのルールぐらい守ってやれよ!)

例えば、強いAIを汎用AIと一緒にしたり、科学で意識の難しい問題が解ける、的な元々の定義を無視した話は多い。これがアフォーダンスオートポイエーシスのような元から定義の曖昧な言葉なら気にならない(正しい議論などはなから期待してない)。しかし、強いAIも意識の難しい問題もどちらも哲学者による論証が用意されているのに、それが無視されていることにはイラつきしかない1

これは日本での哲学が、所詮は哲学者の固有名詞や専門用語を並べた哲学史としてばかりに語られていて、未だに論証として論じられがたいことへの不満ではあるが、似た不満は日本のあっちこっちで感じる

「どうせ変わらないから選挙には行かなくていい」のか?

最近だと、「どうせ変わらないから選挙には行かなくていい」みたいな意見がネットで話題になっていた。正直、こういうその場の思いつきでしかない素朴な意見なんて(特にネトウヨが言っていて)よく聞くので、私は慣れてて気にならない。それより問題は、それに反発する人(主にリベラル)のべき論を超えない反応の方にガッカリした

どうせ何も変わらないから選挙に行かない…と思うのは自由だ。しかし、選挙は政治を変えるために行くのではなく、政治に責任を持つために行くものだ。例えば選挙の結果として何も変わらなかったとしても、投票率が高ければ皆が決めたこととして納得できるところがある。変えないことを選ぶことは重要である

もう選挙で決まった政権だから批判すべきではないのか?

更によく聞く勘違いは、「もう選挙で決まった政権だから文句を言うな!」という意見だ。これも選挙をそれだけで独立した行為としてしか見ていない証拠だ。正直、選挙に行ってない奴らは政治に意見する資格はないと思う。しかし、選挙に行ったなら政治に意見を言うのは自由だ。選挙に行くことで政治に対する責任が生じるのだから、選挙に行っておしまいではなく、政治への責任を果たすためにも政治に意見する資格はある

それでもまだ「選挙で決まったから…」としつこく言う奴はいるかもしれない。でも考えてほしい。そもそも選挙で既に政治家は決めたのだから、国民が何をゴチャゴチャ言おうと最終決定権は政治家の側にある。どうせ決定権は政治家にあるだから、人々が政権をどんなに批判しようが無視することはいくらでもできる。政権への批判なんて勝手に言わせておけばいいのだ

ただし、政権への批判が無視されたことへの報いを、政治家は後で受ける覚悟は持たざるを得ない。そして、現行の政治に不満のある者は選挙で報いを与えればいい

選挙に行くことで政治への責任を得て、その責任によって普段から政治について論じ続けて、その結果を見て次の選挙で選択する…というサイクルが重要なのだ。選挙に行かずに政権批判してる奴ならいくら叩いていいけど、選挙に行った上で政権批判してる人まで叩く野郎には殺意しか感じない2

「若者は選挙に行くべき」か?

これまでの議論を踏まえた上で、「若者は選挙に行くべき」の意見に対しても、行きたい人だけが勝手に行けばいいと思う

だいたい若者が選挙に行かないのは昨日今日始まったことでもない。そもそも選挙になってから「選挙に行くべき」と騒ぐのが遅くて、普段から政治について語って興味を持ってもらう方が大事。選挙に行くかどうか?は、そうした普段からの活動の結果でしかない

「親ガチャ」と無知のベール

これも比較的に最近だが、「親ガチャ」という言葉が流行っていた。「親ガチャ」とは子供は生まれる親を選べないので、どの親の元に生まれたかで人生が決まる…みたいな話だ3

自分はこれを見たときにすぐに、これってロールズの無知のベールと同じじゃん!と思った。自分がすぐに思いつくぐらいだからそのうち誰か何か書いてくれるだろう、と期待していた。でもどうも駄目そうだ。つくづく日本のリベラル論者にはガッカリしかない

無知のベールが社会の設計の仕方につながる深い議論なのに対して、親ガチャはそれだけで独立した一時的な流行り言葉でしかない。親ガチャはどの親に生まれるかで人生が決まるとする消極的な運命論でしかないが、無知のベールはどの親に生まれるか分からないならどう社会を設計すべきか?という積極的な議論だ。出発点は同じでも意味合いは真逆に近い4

無知のベールの本質を保険の例から説明する

無知のベールもそうだし権力分立もそうだが、日本人は根底となる制度やシステムやプラットフォームについて考えるのが苦手だ。これは小室直樹の言っていた「日本人は社会科学的思考が苦手だ」という話と同じ話で、戦前から現在までさっぱり変わらない5

無知のベールは本気で説明し始めると大変なので、要点となる部分だけ説明します。興味を持った人は自分で勉強してください

無知のベールによる社会設計とは何か?それを説明する一番簡単なやり方は保険を例に出すことである。保険とは、事故や病気になったときのために入っておくと保証される仕組みである。保険に対しては、結果として事故にも病気にもならなかったときに、払ったお金が勿体無い…という人がいる。これはあとづけによる思考法でしかなく、そう思うなら始めから保険入るなよ!でしかない

重要なのは、自分が事故や病気になる可能性はあるのにそれが前もって分からない…という確率的な状態である。こうした不確実な状態に対して、保険はもしもの時の保証による安心を与える。結果として事故や病気にならかった時に保険に入っていて損したと考えるのがおかしくて、もしもの時の保証による安心を買ったのだと思うべきだ

日本のリベラルの困ったところは、弱者の味方ごっこみたいな道徳的な話にすぐに落とし込みがちなところだ。そうではなく、保険における事故や病気の可能性のような、自分が事故にあうかも?自分が病気になるかも?みたいな、より多くの人における交換可能性を根拠として持ち出すべきなのだ。そして、無知のベールとはまさにそうした議論なのだ

つまり、社会の中の誰と立場を交換しても構わない…と思えるような制度を作りましょう!というのが、無知のベールによる議論の本質となる目的であり、合理的選択理論を用いた具体的な議論は(古びたせいもあり)あまり詳しく知らなくても問題ないと思う

ただし、交換可能性の範囲をどの程度に置くべきなのか?は、現代社会においてはますます分かりにくくなっている。それこそローティの言うように人々の感情によってその範囲は決まりうる。後期ロールズの政治的リベラリズムとは、交換可能性の範囲を定める条件についての議論であって、前期の正義論を否定したとかコミュタリアンの批判を受け入れたといった見解には根拠がない(「正義論」の第三部の書き換えとするのが正しい)

とりあえずの結論

この記事は、始めから明確な目的があって書き始めたのではなく、自分の中のモヤモヤを発散するために書き始めただけなので、元から結論など決めてなかったが、ここまで書いてみて思いついたことで締める

政治への責任を全うするためであれ、人々との交換可能性の範囲を定めるためであれ、人々が会話を続けることが必要だ。それもできればネットだけでなく、現実世界で会話することで相異なる互いを知りえるはずなのだ[^5]


  1. ただし、これらの論証がただの直観ポンプ(勝手な直観に頼ってるだけ)でしかないと可能性はありうる。だとしても、元々の論証を無視していい理由にはならない

  2. コロナ禍の中、あるラジオ番組で「政権批判するな!」的なことを言った某大物ミュージシャンの言葉をリアルタイムで聞いていたが、本気で殺意を感じた。そのミュージシャンは政治を語らない芸能人が好き的なことを普段から言っていたが、その当本人が最も最悪の政治的発言を平気でしたのには呆れた。それ以来、そのラジオ番組を聞くと不愉快になるので聞かなくなった(好きな番組だったがもう無理)

  3. 親から子が生まれるから「親ガチャ」という言い方は変だ、という批判はネットでも見てもっともなのだが、ここではそこには突っ込まない

  4. もちろんロールズの無知のベールに対しては、リバタリアン(自由至上主義者)による批判は知られている。しかし、日本には真っ当なリバタリアンなんてほとんどいない(その場の勢いで自己責任論で騒いでるだけで、一貫性などない)ので、ここでは論じない(むしろ本物のリバタリアン出てこいや!)

  5. コロナ禍がそれを邪魔してるのは端的に残念でしかない。じゃあ、コロナ禍でなければ良くなってたか?と言われたら、そうでもない気もする(自分的にはコロナ禍の前が良かった訳でもない)。顔を合わせられないなら、せめてまともな議論ぐらいもっとあればいいのに…とはずっと思ってる