科学法則は真理の言葉か?(科学的精神としての実証主義入門)
日本には、未だに脳に関する用語が入っているだけで科学的だと思い込む人たちがいて困る。相手が医者だろうが学者だろうが、文章に脳用語を入れるだけで科学的になるわけがない。日本では科学の源泉としての実証主義が全く理解されていない証拠だ。
実証主義の祖コントは、人間の知識を三つの段階に分けている。神学的段階、形而上学的段階、実証的段階。神学的段階では、物事の原因を神によって説明するのに対して、形而上学的段階では抽象概念によって説明する。しかし、神を諸々の抽象概念に置き換えただけでは、形而上学とは弱められた神学でしかない。だから、次の段階である実証的段階に進む必要が出てくる。実証的段階では、観察された現象を法則によって説明しようとする。宮台真司が、バカ左翼が執着するのは真理の言葉だとしているのはおそらく形而上学的段階で、それに対して機能の言葉としているのは実証的段階のことだ(ちなみにバカ右翼がいるのは神学的段階)。実証的段階こそが科学の始まりだ。
しかし、もし科学法則を永遠の真理のように理解していたら、その人がいるのはせいぜい形而上的段階でしかない。この場合、科学的用語を用いているかどうかはあまり重要なことではない。学校で習う詰め込み気味な科学は形而上的段階に近い。学校で教わるべきなのは科学的用語そのものではなく、科学的精神でなければならないはずだ。宮台真司は実証主義を言語ゲームとして理解しているようだが、考えてみるとなるほどとも思える。反駁が不可能な真理の言葉でしかない形而上学に対して、実験や調査などの成果を交えながらより説明力や予測力の高い法則を見つけ出そうとするのが実証主義である*1。その際、より説明力や予測力の高い法則を見つけ出すために会話が続けられるべきだと捉えれば、それは一種の言語ゲームであると言える。科学法則とは真理の言葉ではない。
形而上学的段階は破壊的に働くが、神学的段階は反動的に働く。フランス革命後の混乱した社会で生きたコントはこの不毛な対立を解消するために実証主義を提出した。もちろん現在となっては、全く形而上学的でない科学理論など現実にありえるのだろうかとか実証主義的であるための基盤は別に必要じゃないかとか社会科学に因果的な法則は本当に必要なのかといった様々な疑問も湧くが、それでも基本となる洞察は今でも通用する。他人への批判ばかりして生産的な議論をする気がない奴らとか過去の規範をよみがえらせようとするノスタルジー野郎とか自らの地位を守るためにか他人に対して閉鎖的で防衛的な態度に出る人たちとか、そういうのは今でも(今こそ?)多い。実証主義が必要とされているのはまさに今なのかもしれない。