前回は、まるで自分が認知科学のこと全部分かってます的な語り方をしたけれど、もちろんそんなことは全くなくて、何年も経ってから初めてこんなことが認知科学で話題になっていたんだぁ〜みたいに後から知ることもたまにあるし、逆にこの辺りが重要じゃないかと勝手に当たりをつけておきながら結局当たらなかったことだってある。私の言うことは適当に割り引いて聞いてほしいし、その程度のことでも書けるようにこのカテゴリーは書いている。

そういえば、あるブログで人工知能学者との会話で人工知能ブームの山は過ぎたと話した…みたいな記事を読んだが、私の印象でも人工知能ブームは落ち着きつつあるように思う。とはいえ、 ネットを中心にして知識に基づかない勝手な人工知能論は相変わらず目立つ。日本語で私の読んだ範囲でも、専門家の言うことはどれもなるほどなぁ〜と私でもたいてい納得がいくが、そうでない場合はこいつ何言ってるんだ?と疑問符が出ることがほとんどだ。西垣通は書籍でもネットでも人工知能論者として有名だが、彼の強い人工知能論が間違っていることは以前に指摘した。西垣通は本来の専門はメディア論のはずなので、お願いだから適当なことは言わんでくれ!と願った。学者でも本来の専門でないところでは平気で適当なことを言う率は高い。

ネット上でそこそこ検索順位が高いところに人工知能で使われるアルゴリズムに数学は関係がないと一所懸命に論じているブログを見かけたが、こいつはニューラルネットワークの本もまともに読んだか怪しいが、ましてやベイジアンネットワークやNP問題の本さえ知らないんだろうなぁ…と馬鹿にせざるを得なかった。その他、人工知能の開発は脅威だからやめるべき的とか、人工知能がどのように作動しているか分かっていないとしか思えないのは依然多い。

人工知能論としては他にも、身体がないから駄目だとか東洋思想が必要だとか、もっともらしい評論家的な意見もあるが、こういうのはそれっぽいだけで特に中身がない、第二次ブーム時なら身体がないと論にまだ意義があったが、ロボティクス研究が既に盛んな今は身体さえあればいいみたいなそういう単純な問題じゃない。

東洋思想云々も人工知能の第二次ブーム時は同時に現代思想ブームでもありさらにヒッピー文化の影響もあって東洋思想ものの書籍もよく出ていたので、東洋思想云々の話に今更目新しさはない。それどころか、西洋思想も東洋思想もいろいろあるのだから、そんなに簡単に真っ二つに分離できないし、場合によっては考え方の近いもの(例えば古代の形而上学倫理学)も普通にある。それに、私自身は高校時代に老荘思想韓非子にハマったことがあるし、その後もインド哲学・禅・朱子学陽明学と原典翻訳を手に入れてまで勉強した時期もあって、もちろん自分がよく理解できていると自負することはとてもじゃないが無理だが、その経験の範囲内でも東洋思想を持ってくれば問題解決という単純なことはとても言えない。ただもっともらしいことを言ってる断片的な言葉を引き出すだけなら任意の文献を使ってすることは案外できる。人工知能についての評論家的なもっともらしい言説には全般的に注意したほうがいいです。そういうのは表面的なもっともらしさの点で巷の自己啓発本と大して違いはない。

人工知能が人の知能を超える特異点(シンギュラリティ)が来る可能性を否定まではしないが、それがいつやってくるのかは予想がつかない。それが数年後なのか50年後なのか100年後なのか一万年後なのさっぱり分からないが、そんな予想のつかなさはすべての技術に当てはまることに過ぎない(スマホの実現可能性を予想できた人がどれだけいる?)。少なくとも現時点ではそんなに簡単には特異点は来そうにない!としか言えない。有名な特異点の到来予想も単純な量的計算による予測であって、特に根拠のあるものではない。

私の勝手な印象ではIT系の人は技術の量的な発展を過大評価する傾向があるように思う。それは(物理的限界を無視すれば)ITには当てはまるかもしれないが、それが人工知能に当てはまるかは別の問題だ。確かに、人工知能ブームというのは、過去において発見された当時のコンピュータ性能では実現できなかったアルゴリズム(計算理論)がその後の技術の発展で実現可能になった例がよくあるが、技術の量的発展とは別の要素が必要なことに変わりがない。特に今回の人工知能ブームはビッグデータとの関連が大きいが、これも単純な技術の量的発展だけによって可能になったわけではない(それこそスマホの普及の影響は大きい)。

自我を持った人工知能を恐れるよりも社会の中に埋め込まれる人工知能(的アルゴリズム)の方がよっぽど現実的な問題だという話は以前にもしたが、その話のついては、いい加減に文章が長くなったのでもう書けない。

いい加減に認知科学以外の話もしてみたい気もするが、とりあえず区切りのいい所までは書いてしまおう。

私が学生だった二十世紀末でも認知科学なんて一時的ブームで終わる!と言われていたし、二十一世紀に入っても脳科学ブームの中で認知科学なんて科学じゃない!とか言われたりもしていた。そういった言葉は二十一世紀における欧米での世間的または学問的な認知科学関連のブームの多さを考えたら見当外れなのだが、それは日本の特殊事情とも関わりを持っているがそれは以前にもブログ記事で触れたことがある。とりあえず認知科学が非科学的でも終わってもいなかったと認めるとしても、現在の状態と未来はどうだろうか。

認知科学はこれからもこれまでのような重要性を持ち続けられるのかは私にはよく分からない。しかし、これまでのブームが二十世紀までの遺産を受け継いでいたことを考えると、新しいネタがこれからも出続けられるのかは正直怪しい。そもそも認知科学の創始分野でさえどんどん研究の独立性が高くなってきている。人類学と言語学はすでに触れたが、人工知能も(まだ汎用人工知能も目指されてはいるが)もはや人間並みの知能を目指すことは共通の目的とはなっているわけではなく工学としてのすっかり独立している。神経科学は脳イメージング研究のブーム以降は認知科学に対して知識がないどころか関心さえない研究者が目立つようになった。心理学は認知科学での科学性の望みの綱ではあるが、最近は再現性問題によって素朴に新しい発見を目指すみたいには行かなくなってる気もする。実は、今や認知科学で騒いでいるのは主に哲学者が目立ってはいる。ただ、これも以前とは様子が違う。

認知科学における哲学の様子については、既にデネットとの関係で触れている。ここでは別の側面から語ると、最近認知科学(特に4E認知)で活躍する哲学者は必ずしも科学的知識がある訳ではなく、嫌味な言い方をすると学者としての生命を保つための論文作成装置にしているだけな疑いを持ってしまう。現象学者が認知科学に参加するのに異存はないが、メルロ=ポンティのように科学的成果を用いて哲学的分析をしてくれるなら大歓迎なのだが、そうではなくて文献学者としてのメルロ=ポンティ学者が(思弁的に)身体化(4E認知)論を論じるというようなことも多いように感じる。この傾向は別に現象学者に限った話ではなく、身体化論を論じる哲学者にはよく見られる傾向だ。それでも身体化論に批判的な哲学者は議論が生産的なぶん問題は少ないのだが、身体化を擁護するタイプの哲学者は同じようなもっもらしいだけの話の繰り返しで発見があまりない。結局評価できるのはA.クラークのような昔から活躍している学者か批判的な議論をしている学者だけだが、それだけでは学者や論文の全体における割合は少ない。個人的に面白いと思っている論文もあるとはいえ、正直これだと先が思いやられる。

この先、認知科学が無くなることはないにしても、学際的領域としての重要性は下がってしまうのでは…と懸念してしまう。ただし、固有の領域としての認知科学によりも認知科学が起こした科学革命の方に惹かれた自分としては、それでも構わないと思う。むしろ、必要に応じて任意の学際的領域が立ち上がる状態の方がどう考えても好ましい。認知科学がそうした事例の歴史上における理想的ケースとして伝えられていくだけでも私としては十分に満足だ。

じゃあ、私の考える認知科学の起こした科学革命とは何だったのかをまた書かないといけない。この話は認知科学だけの話じゃ終わらないはずなので書くのは面倒だな。そのうち気が向いたら書くかも…

前回計算論に軽く触れたので、今度は今話題の予測符号化についての哲学的な話でもしようかと思ったけれど、まだ現在進行中なことも含めてまだ決心がつかない。予測符号化(または自由エネルギー原理)の科学的な側面については日本語でも書籍の出版や学術誌の特集などによって触れられるようになりつつあるが、哲学的な側面となるといつになったら日本語で読めるようになるのかよく分からない。たとえそれが出たとしても身体化(4E認知)論に偏った議論の紹介にしかならないのではと心配している。それをきちんとした記事にするか軽い独り言にするかもまだ迷っているので、今回は別の話をする。

以前、認知科学の創始分野の一つである人類学が二十一世紀になって認知科学での位置づけが怪しくなった話をしたことがある。私は有名な認知人類学者ハッチンスの本を原書で読んだことがあるのでその事態は残念だが、今回はその話ではない。これは誰かが指摘していることではなく私の勝手な印象だが、実は言語学も人類学の二の舞を踏みつつあるのではないかと懸念している。言語学認知科学の創始分野の一つに挙げられるが、以前に比べると認知科学的な議論に参加している言語学者が目立たなくなっている気がしている。チョムスキーは未だにたまに共著論文を出したりもしているが、全般的に見ると言語学者は専門的な言語学の中に閉じつつあって、以前にはよくあった学際的な議論は少なくなっているように感じる。もちろん専門分化は言語学に限った話ではないが、専門分化が先行している点では人類学とは事情が違う。

なぜこんな事態になったのか。もちろん、そもそも認知科学の生物学化は原因のひとつだろう。ここにはチョムスキーによるミニマリストプログラムの動向が関わりを持っている。まず主流の生成文法ミニマリストへの転向によって、認知言語学による生成文法批判の位置づけが分かりにくくなったのがある。ミニマリストの大きな長所は言語進化を扱えるようになったことだが、認知言語学は言語進化の議論にうまくついていけなくなった感が拭えない。ミニマリストは専門の言語学者を置いてけぼりにしてまでむしろ生物学化の事態に適応してしまった点では感心するしかない。

二十一世紀になって大きな話題になった生成文法の話題にピダハン論争があって、詳しくは書籍が出てるのでそっちを読んでほしいが、結論だけ述べると「埋め込みがなくても再帰性は否定されない」が正しいと思う。もう少し小さな話題としては文脈主義論争もあったが、(ピンカーの本でも軽く触れられていたとはいえ)思った程には話題にならなかった気がする。あとこれは私の勝手な見解だが、法則を見つけようとする生成文法よりも、制約に基づく理論や構文文法の方が言語を記述するという点では優れている気もしている。言語学で対立と思われていたことの多くが今でも意義のある対立なのか私にはもうよく分からない。

生成文法であれ認知言語学であれなんであれ、以前は言語学者が分野やテーマを横断した学際的な理論を展開していたが、前にも指摘したようにそういうことが平気で出来る時代はもしかしたら過ぎ去ったのかもしれない。そういう中で認知科学の現在がどうなっているかを語る予定だったが、すでに長くなっているのでそれは別の機会に…