ここのブログ記事に書いた自分の直感的理解が論文で確認できた話

このブログでは、できれば文献で確認できることを書くように努力はしているが、それでも私がその方が分かりやすいと思ったら直観的な理解に基づいたこともよく書いている。そのうち最近の記事に書いた直観的な理解を論文で確認できた例があったので軽く触れてみたい。

エナクティヴィズムは行動主義的である

以前の記事で私は「反表象主義はダイナミカルな行動主義である」と主張したことがあった。それが最近、反表象主義を採用するとされているエナクティヴィズムが実は行動主義でもあると主張している論文を見つけた。 google:Louise Barrett"Enactivism, pragmatism…behaviorism?"では、エナクティヴィズムの源としてプラグマティズムと共にスキナーの徹底的行動主義(radical behaviourism)を挙げている。これにはなるほどと思う一方で、スキナーから核の行動主義思想だけ取り出すことに疑問がなくもない。つまり、スキナーの行動主義(心理学的行動主義とか方法論的行動主義とも呼ばれる)には心理学における研究プログラムとしての側面も強いが、いくら研究プログラムとしてのスキナー行動主義が瀕死状態にあるとしても、研究プログラムの部分を抜き去って思想部分だけ残しても魅力は薄いと思われる。むしろ、同じく行動主義ならもっと哲学的に魅力的な考え方がある。

google:N Alksnin and J Reynolds”Revaluing the behaviourist ghost in enactivism and embodied cognition”では、ギルバート・ライルの哲学的な行動主義(論理的行動主義)を取り上げている。論理的行動主義は方法論的行動主義と違って心に関する全体論を採用している点で哲学的には魅力がある。また、クワインデネット全体論的な行動主義を好んでいるとされていて、やはり哲学的にはこちらの方が議論しがいがある。あぁ、このテーマで論文をどんだけ書けるのやら〜

この同じ論文で、新しい行動主義の側面を持っている哲学者としてセラーズも挙げられている。これはデネットへのセラーズの影響とかを考えると自分としては納得がいく。セラーズは心の哲学における機能主義の創始者の一人としても知られるが、日本では機能主義が反行動主義だと主張する哲学者がいるせいで、セラーズの行動主義の側面がうまく理解されないかもしてない。これは端的に「機能主義は反行動主義だ」という主張が間違っているからに過ぎない。むしろ、欧米には機能主義は行動主義を脱していないと論ずる哲学者もいるが、こっちのほうがずっと説得力がある。

ただ、これらの論文ではエナクティヴィズムに好意的な論者が語っており、エナクティヴィズムと行動主義の関係の確認で終わってるので議論としては物足りなさはある。エナクティヴィズムは哲学的には魅力があると思うので、科学的である振りはもうやめた方が話が健全になるような気がする。

自由エネルギー原理は予測処理のようなメカニズム的説明を与えない

以前にここの記事で、「自由エネルギー原理は予測符号化(予測処理)に対するメタ理論だ」と主張したことがある。これについても、これと全く同じ主張ではないが、実質的には似たような主張をしている論文を見つけた。

google:P Gładziejewski"Mechanistic unity of the predictive mind"ポーランドの学者の書いた論文である、実はポーランドの学者は今、認知科学の哲学のレベルがとてつもなく高くなっていて、お気に入りの哲学者を紹介しようと思ってもいた。この論文の学者はその私のお気に入り学者の同僚みたいだが、これまで読んだ論文はそこまで感心したことはなかったが、今回の論文は面白い部分もあると思った。

科学哲学の世界では、長らく主流であった法則論的説明に対してメカニズム的説明の重要性が強調されてきている。予測処理(predictive processing)はメカニズム的説明を与えるが、自由エネルギー原理は違うとされる。自由エネルギー原理が説明を与えるとしても、それはあまりに一般的過ぎて認知科学を統一できるようなものではない。自由エネルギー原理を記述的とする論文の指摘は私にはどうもピンとこないが、自由エネルギー原理が予測処理より抽象度が高いことを指摘した論文はありそうでなかったので感心した。ただ、理論の抽象性の高低はその理論の意義を直接に定める訳ではなく、その適用範囲を冷静に見ていく必要がある。

この論文の後半は、予測処理が認知科学を統一するとしたらそれはどんなものか?脳には単一の予測処理だけがあるのか複数の予測処理があるのか?みたいな話もしてて、それなりに興味深いがこの記事の趣旨から離れるのでこれでおしまい。

What happend to cognitive science?を読まずに反論論文だけを読む

少し前に認知科学について調べていたら、現在の認知科学を否定的に評価する論文google: R Núñez "What happend to cognitive science?"の要旨ページを見つけた。その要旨を読んで違和感があったが、無料で論文本文を読める訳でなかったせいもあり、そのまま気になりながらも忘れていた。そんなときに、定期的に確認している学術誌「Trends in cognitive science」のアプリで早期公開されている論文を確認していたら、どうも特集を予定しているらしく、まさに「What happend to cognitive science?」への反論をしている論文が幾つか見つかった。それを読んでみたら、自分が感じた違和感が正しかったのが確証できた。そこで、当の批判対象の論文は読めてないけれど、あえて反論論文だけから自分なりに批判内容を紹介してみたい。

反論論文だけ読んでみる

まずは最もよくまとまっている反論論文google:E.P.Cooper"Multidisciplinary flux and multiple reseach traditons whthin cognitive science"を元にして元論文の批判内容を箇条書きしてみよう。

もう一つ「学術誌"Cognitive Science"の採択論文が心理学に偏っている」という批判もあるが、これは認知科学認知心理学と融合するのでは?という予測と共に考えると、認知科学の学際性への誤解と結びついているので一つ目の項目とセットにしようと私なりに判断した。まぁそれを言い始めたら、この二つの項目自体が認知科学を一つの統一した分野と考えている誤解から導かれるのだが、とりあえずこれで話を進めよう

認知科学は学際的な一貫した領域になりそこねたのか?

認知科学が学際的な領域であるというのは日本でも正しく理解されていないところがある。その点では、当の批判論文では認知科学が学際的であることが理解されている部分では正しい。しかし、Cooperが指摘するようにinterdisciplinaryとmultidisciplinaryとの区別がきちんとついていないのが問題となる。

interdisciplinaryとmultidisciplinaryは日本語ではどちらも学際性と同じ語で訳す以外の訳語の選択がなかなか難しい。Cooperの指摘を参考にしながら私なりに違いを述べてみよう。interdisciplinaryは複数の分野に関わりを持っているという意味で、Cooperによるとそこには何かしらの一貫性が前提とされているようだ。対して、multidisciplinaryは複数の分野が参加しているという意味で、Cooperによると各参加分野の同一性は確保されているという。認知科学の場合は、明らかにmultidisciplinaryが当てはまる。実際に認知科学には専門的な心理学者や言語学者人工知能学者が研究に参加しているが、そのことによって元々の専門家としてのアイデンティティーが失われるわけではない。interdisciplinaryの場合は複数の分野の知識が必要になるのかもしれないが、それはその研究者のアイデンティティーとは別の問題だ。もちろん認知科学の中にはinterdisciplinaryの意味で学際的な研究をしている人もいるかもしれないが、それは認知科学がmultidisciplinaryであることに反しない。

認知科学に統一性や一貫性が前提とされていないことは、google:Dedre Gentner"Cognitive science is and should be pluralistic"でも認知科学創始者からのコメントによっても確認されている。現実に認知科学は一枚板ではないのだが、それは2つ目の項目と関わられて論じるが、その前に確認しておくことがある。

批判論文では、学術誌"Cognitive Science"の採択論文が心理学に偏っていることがデータから確認されて、認知科学認知心理学に融合されるのではないかと指摘されている。私の見解では、心理学の研究論文がよく採択されるのは実験や調査をすればとりあえずオリジナルのデータが取れるから論文が書きやすい 1のと、神経科学その他の分野ではそもそも専門誌に論文が投稿されるせいな気がする。それを無視しても、採択論文が偏っているとは別の分野に吸収されて構わない理由にならない。だいたいその程度しか価値のない学術誌はいずれ勝手に消え去るだけだ。しかし、認知科学のmultidisciplinaryな役割はまだ当分はお役御免とはなりそうにないと私は思う。現在の認知科学の問題はもっと別のところにあると思うが、それは別の機会に触れるかもしれない。

認知科学は研究プログラムとして成功してないのか?

研究プログラムとは科学哲学者ラカトシュの提示した概念である。研究プログラムは本気で説明しようとすると大変だが、大雑把に言うと核や保護膜や発見法などからなる科学的な研究を推し進めるためのひとかたまりのプログラムであり、例えばニュートン力学相対性理論などはこうした研究プログラムを持っているとされる。対象の批判論文では認知科学はこうした研究プログラムとしてとして成功していないと言う。しかし、これは科学哲学についてそれなりに知識を持っていればおかしなことを言っているな〜と感じるはずだ。

認知科学は一つの研究プログラムなのだろうか?例えば、成功した科学の典型である物理学を考えみよう。物理学には相対性理論量子力学統計力学などの研究領域があるが、これらが単一の同じ研究プログラムからなっていると言えるだろうか?もちろんそんなことは言えそうにない。だいたいラカトシュは複数の研究プログラムの中から成功するものと後退的なものが出てくるとしているのであり、物理学という分野自体が一つの一貫した研究プログラムを持っている訳ではない。物理学でさえ複数の研究プログラムから成っているのに、なぜ認知科学がただ一つの研究プログラムしか持っていない(持つべきでない)と言えるのだろうか。

認知科学が単一の一貫した研究プログラムだと誤解した理由は、おそらく認知科学の計算主義(情報処理アプローチ)にあると思われる。じゃあ、計算主義を認知科学の研究プログラムの核だとしたら、シンボル処理もコネクショニズムも(最近だとベイズアプローチも反表象主義も)同じ一つの研究プログラムが元になっていると言えるのだろうか?どう考えても、認知科学そのものの中に複数の研究プログラムがあると考えるのが自然だ。

要するに、認知科学はDedre Gentnerも論じているように始めからそして今も多元的なのであり、むしろそうであるべきなのだ。認知科学に一貫した一枚岩であることを求めるのは、そもそものところ見当違いでしかない。


  1. ただし、再現性問題が問題になっている現在でもそれが言えるのかはよく分からない。ただ、メタ分析の問題とかを考えると有意性が出なかったからと言ってデータを公表しなくていいということにはならない気もするが、それはインターネットを使って解決されるべき問題だろう。

なぜ公的な領域にはエビデンスベースが求められるのか?

二十一世紀に入ってから、医療や教育や政策などエビデンスベースが求められる領域が広がっている。エビデンスベースとは「証拠に基づいた」という意味で、経験的な検証を経た手法を用いて医療や教育などを行なおうという動きである。

エビデンスベースとは何か?

まず始めに確認しておきたいのは、エビデンスベースとは科学的であることと全く同じであるわけではないことである。世間一般で(広い意味で)科学的という場合は、任意の科学的成果に基づいているという広い意味で使われることが多く、科学的成果からそれに基づく提言までの間にあからさまに類推や推測が働いていることが多い。それに対して、エビデンスベースの場合は、対象となる手法を直接的に検証している。例えば、単に(広義で)科学的というだけだとある成分がラット実験に効くことだけから人間にも効くということを導く場合も含まれうるが、この例ではラットに効くなら人間にも効くという推測が働いている。エビデンスベースの場合はその成分の直接に人間に試して効くかどうかを検証するような直接的な仮説検証型を指す場合が一般的だ。更に実験計画や因果推論に関わる細かい話は他にいろいろとする余地は幾らでもある。当初はそうした細かい議論をする記事を書く計画だったが、それは手間が掛かりそうなので今回はその手前の内容を書く予定なので、今はこの説明で済ませます。

私がエビデンスベースについて書こうとしているきっかけは、たまたまネット上にあったエビデンスベースについて記事を読む機会があり、ネットで日本語のエビデンスベースの論文を幾つか読むうちに危機感が高まってきたせいである。ネットでよく見かけるエビデンスベースの論文は教育学者や人文学者によって書かれたものが多く、基本的に反エビデンスベース色が強い上に科学的な方法論にも無知なことが多く、読んでも得るものが少ないと言わざるをえない。だいたいその人たちの科学観も科学社会学(やSTS)の辺りに留まるものが多く、私から見ても古臭くて偏っている。このポストトゥルースの時代に、クワインホーリズムもろくに分からない不勉強で非倫理的な 1学者に付き合わされるのはあまりに気の毒なので、とりあえずはエビデンスベースの必要性についてだけの記事を書くことにした。エビデンスベースについてのさらなる突っ込んだ議論 2は別の機会に書く予定です(出来なかったときはすいません)。

私的な領域にエビデンスはいらない(当たり前だ)

なぜ、どんな領域にエビデンスは必要なのだろうか。それは公共的な領域にはエビデンスベースが求められるのだ。そして、医療や教育は社会全体に影響を及ぼす重要な領域であり、そこで使われる手法になぜそれである必要があるのかという公共的な理由が要求されるの自然なことだ。エビデンスというのはまさにその公的な理由(public reason)としてふさわしいものだ。効果があるのかよく分からないものに公的な資金が費やされ、社会の大多数がそれに巻き込まれるのは社会にとって迷惑でしかない。医者が自分の好みで勝手な治療法を選んだり、教育の仕方が政治家や教育学者の単なる思い込みで決めれたりしたら、その社会は大損失を被ることになる。もちろんエビデンスベースは万能なものではないが、社会全体を考えたら、エビデンスベースに従うことが多くの人にとって益することになるのだ。勝手にエビデンスベースを万能なものに仕立ててそれを非難するという反エビデンスベース論者の言うことをいちいち真に受ける必要はない。

エビデンスベース論者で極端な馬鹿論者は、何にでもエビデンスベースが当てはまるわけじゃないという人がいる。そんなの当たり前だ。すでに論じたように、エビデンスベースは公共的な領域について公共的な理由を与えるために求められるのだ。逆に言えば、当然なことに私的な領域にはエビデンスベースは必要ない。これまた理由は簡単で、私的な領域に公的な理由は必要ないのであり、各人は法律に反しなければどんな人生を送ろうと自由だ。もちろん人生に規範が必要だと思う人は勝手にそう思えばいいのであり、それもエビデンスとはなんの関係もない。エビデンスベースに強い抵抗を示している人は、自分の人生が侵食されるかのようなおかしな勘違いをしている場合もあるのかもしれない。

この節で重要な結論は、「公共的な領域にはエビデンスベースがあるものがふさわしい」ということだ。エビデンスベースをどう評価しどう適用すべきか?という上級編は別の機会に取っておきます。

経営にエビデンスベースは必要か?

エビデンスベースの必要性についての基本的な話はすでに終わったのだが、今度はその応用編となる議論をしてみよう。経営にエビデンスベースが必要だという人を想定しよう 3。この人の意見は正しいのだろうか?

結論を先に述べてしまうと、その人がそう主張するのは自由だが、公的領域におけるほどには強制的な説得力はない。経営にエビデンスが必要とされるかの判断の基準は、経営が公的な領域に当てはまるかどうかにかかっている。社会全体を網羅するような医療や教育ほどには大多数の人には関わりが大きくないにしても、私の人生のような私的領域に比べると関わりのある人数はずっと多い。その点では、ある経営者が自社の多数の雇用者のために確実なエビデンスに基づく経営手法を選ぶというのはおかしな話ではない。しかし、その決定は公共的決定とは言い難い。エビデンスの求められる公共性の問題は単に人数の問題ではなく、その失敗が社会においてどう位置づけられるかにかかっている。

ここで注目すべきなのは経営が市場で評価される点である。医療や教育におけるエビデンスベースとは失敗を最小限に抑えること…つまり実験では一方の条件の群が失敗を被るが、単に盲目的に勝手な手法が適用されている(つまり失敗の情報があまり伝わらない)よりは失敗の数は最小限に抑えられることになる(失敗の情報が効率的に伝わる)。

そもそも、経営手法を実地に実験できるか(条件のランダムな割当に経営者が賛同できるのか?)も問題だが、それ以前に注目すべき点として、市場とはそれ自体が実験場なところがある。つまり、市場で様々な経営が行われて、そのうちの成功したものが生き残るのだ。市場そのものが実験場なのだから、わざわざ手間のかかるエビデンスベースな実験をすることは無駄が多い。市場はそれ自体が効率的な(分散的)情報伝達を行なう場でもある。経営にはエビデンスが必要ないというよりも、市場の効果には及ばないということでしかない。

市場かエビデンスか、それが問題だ

ここまでくると、リバタリアン(自由至上主義者)なら医療や教育も市場に任せればいいだろ!というかもしれない。実際に塾や予備校は市場原理に従っている。しかしこれらはあくまで家庭ごとの私的支出によって支えられている。医療や教育のような公共的領域の目的の一つは、公的資金を投入することで最低限の基準を保つことである。そのためにはやはりエビデンスベースによる最低限の保証はないよりあった方がよい。それは自分勝手な政策を実行しようとする政治家に対する防波堤にもなりうる 。

無知なエビデンスベース非難はお話しにならないが、エビデンスベースには様々な面倒な問題があって、単に手法を検証して適用すれば構わないでは済まされないのも確かだ。その点ではリバタリアンのすべてを市場原理に任せろ!も理解できない訳ではない。しかし市場もエビデンスベースとは別の意味で万能薬ではない。ただ、最終的に市場に任せるのであれエビデンスベースに頼るのであれ、政治家や官僚や学者の何の証拠にも基づかない思弁的な政策を勝手に実行されるよりはずっとマシだということだ。 4


  1. 自分の学者人生を引き伸ばすことしか考えていない

  2. おそらく社会科学の基礎論的な話になるだろう。社会科学は条件の統制やサンプルの代表性が自然科学ほどには保証できない…と書けば分かる人には分かるはずだ。実は心理学の再現性問題も関わりを持っている。

  3. だいたい経営手法を直接に実験的に検証するのは困難としか思えない。「経営者と構成員の認知・判断に関する実験科学的アプローチ」を参照。一応確認しておくと、私はエビデンスベースの経営を否定しているのでなく、必要性の議論の違いに注目させたいだけだ。

  4. ちなみに、この記事に文献参照が少ないのは単に適切な日本語のエビデンスベース論文がないからでしかない。一本だけ良い日本語の論文はあったが、今回参照するのには端的に適切でなかっただけだ(次があれば参照するはず)。英語のエビデンスベース文献で最も重要なのは科学哲学者ナンシー・カートライトの著作だ。