この前ネットを見てたら、こんな記事をみつけた。

ネット上で社会学者の評判はなぜ悪いのか

ただ、私もこの辺りについては思うところがなくもないので、試しにちょっとなんか書いてみようと思う。

私と社会学の出会い

もちろん、私は社会学にそこまで詳しい訳ではないので、これから書くことはそんな見方もあるかな〜程度に懐疑的に読んでほしいが、私と社会学との関係はそんなに短いものではない。

私が認知科学に出会ったのは学生時代でもう二十年を超える付き合いだ。だかしかし、社会学との出会いはそれよりももう少し早い。私が宮台真司を知ったのも教育社会学の授業を介してだった。専門の選択時には社会学認知科学とで擬似的な選択を迫られて認知科学寄りを選んだが、その一方で社会学はいくつかの授業も受けただけでなく教育社会学の研究会にも幾度か参加していた。大学卒業後も独学とはいえ、時々は社会学に触れており、その経験から個人的な整理をしてみます。

メディア露出の社会学者の系譜

メディアによく登場する社会学者を大雑把に流れで見ると、小室直樹期・ポスト小室期・ポスト宮台期と分けられ、この順で学問的な社会学から離れていっていると思っていいです。

宮台真司の師匠に当たる小室直樹パーソンズの影響を受けたバリバリの理論社会学者で、元々は物理学を専攻してたのが経済学に移ってから社会学に来た人で、知識や教養のレベルが段違いに高い。橋爪大三郎宮台真司大澤真幸はその理論社会学の巨人から学んだ社会学者だが、そこに現代思想(哲学)の知識を付け加えて独自に発展させた。

21世紀に入ってからメディアに宮台真司から学んだような弟子の社会学者が出てきてポスト宮台期の今に至るのだが、彼らには師匠にはあったまともな教養がなく、挙げ句の果てには最近のメディア露出の社会学者は単なる評論家みたいになってしまった。近年になってメディアに出てくる人気の社会学者はアカデミックな社会学からはかけ離れてしまい、私から見ても感心するところはない。評判の悪さやむなしと言わざるをえない。

ここまではメディア露出が高い日本の社会学者の系譜を私的に整理してきた。最近の社会学者は学問的な社会学とはあまり関連がなくなってしまったと書いたが、実はこの流れはアカデミックな社会学の流れと無関係ではない。

アカデミックな社会学で何が起こってる?

google:盛山和夫 なぜ公共社会学か 数理社会学の夢と挫折を超えて

上にリンクした講演録は、本当は教養についての記事を書く時に参照するつもりだったが、今回の話題にも深い関わりのある記述があるので紹介します。

この講演録には、今やデカルトやカントを読む人などいないという教養の消滅も書かれているが、他にも数理社会学の衰退や社会学としてのアイデンティティの喪失についても触れられている。つまり学問的な社会学にも危機が起こっているのだ。私の印象でも、今の社会学は私が学生時代に触れた社会学と比べると明らかに魅力がなくなっている。分析社会学のような例外はあれど、21世紀になって社会学そのものが停滞してしまった感じは私も感じる。

理論社会学の衰退?

別の方向から接近すると、上の講演録には社会学からもともとはあったエッセイ的な性質が論文から失われていることが指摘されている。つまり元々、社会学には評論的な性格はあったのだが、ポスト宮台世代の社会学者はその評論的な部分だけを表に出して活躍してる感じがする。一方で、最近の学問的な社会学エビデンスベースの影響を受けて、むしろデータを分析する実証的な社会学の方が評価されつつあるようにも思う。

理論社会学的な研究はもちろん今でもあるのだけれど、盛山和夫も示唆するように目的意識が失われて自己目的化が進んでるようにも感じる。今でももっぱらウェーバーを読解するだけな社会学文献は多いが、古くはマートン最近は分析社会学者ヘドストロムが指摘するように、理論と理論史の区別がついてないとか理論と実証が分離してるといった社会学批判がより直撃に感じる。理論社会学の旬は既に過ぎ去ったとしかもう思えない。

盛山和夫は講演録で解釈学的な社会学を示唆してるが、そんな話題は私の学生時代には既にあった話で、なんだか今更そこ?としか思えない。理論社会学の停滞は数理的か解釈的かの問題とは関係なく起こっているように見える。

社会学の変遷の社会的な背景?

理論中心から証拠中心の流れは社会学に限らず、(現代思想系な残党を除けば)社会科学全般で進んでいると思われる。そして、そうした流れは階級社会から階層社会へ(または古い階級社会から新たな階級社会へ)の動きを背景にして起こってると思うが、それについては別の機会にでも…

ラジオを聞いてたらどっかの哲学研究者が、AIは感情を持てないから所詮人間とは違う…みたいなことを話していて、まだその場所?と軽く馬鹿にした。

人工知能が人の感情を引き出す振る舞いをして、人の側が人工知能に感情があると思い込めば、それだけで人を上手く操ることは難しくない。人工知能について本当に感情を持つかという形而上学レベルから感情があるかに見えれば構わない…の動きは二十世紀末から起こった動きで、そっちの方が怖えんだよ!所詮、知識のないやつの見解なんてどっかの典型に当てはまるものでしか大抵ない。

人工知能について日本では、教養のない工学者の素朴な技術主義と(科学的)知識のない人文学者の素朴な人間主義とが分断している下らない状況はある。日本の技術主義の話は脇に置くとして、そういえば認知科学的に見ても、日本では身体化とかクオリアとかアフォーダンスとかが好まれやすいが、それって日本には人間的なものへの素朴な愛着がある伝統があることの傍証にも感じる。

人権否定は人間への見方が甘い証拠

日本には人権を馬鹿にする西洋の人間主義を否定する奴も多いが、私からみると人間に対する見方が甘いのはむしろ日本の方だ。そう思ったきっかけは、どうも日本では制度とかプラットフォームとかを軽視しているが、それは人間に対する見方の甘さが原因ではないかと気づき始めたからだ。

つまり、制度の基盤となる権力分立とは人は権力を持つとろくなことをしないという冷徹な視点から成立しており、権力同士を互いに均衡させようとしている。しかし、日本にはそんな思考があまりなくて、決められない政治は駄目だ的な言葉に簡単にやられてしまう。決められない政治は権力均衡の結果であり、簡単に物事を決められる独裁状態に陥るよりもよっぽどマシだ。

プラットフォームとしての憲法

憲法はプラットフォームを成立させるためのもので、人権はその重要な要素の一つだ。人権なんてどうでもいいと言う奴は、人権はお互いに守りましょうと言う奴と同じで、人権の役割を分かっていない。人権とは、権力との非対称な関係から人々の身を守る基盤であり、人権を守るべきなのは人々の側と言うより権力の側だ。人権に安易に例外を認めないのは、権力の側による恣意的な運用を防ぐのが目的。人権を安易に否定する奴は、権力を持った人間の恐ろしさを分かっていないアホな奴らでしかない。

日本では制度やプラットフォームの意義がさっぱり理解されていなくて、自分に都合よく物事を変えようとして土台まで平気で掘り崩す馬鹿がいる(スマホでアプリを削除してたらOSも消しちゃったみたいな感じ)。憲法と法律の区別もつかない馬鹿な政治家に限って憲法改正で騒いでる。憲法は政治的に見解が異なる間でもなんとか同意できるものでないといけない。憲法を変えるのがいけないとは言わないけど、せめてもうちょっと憲法の意義を正しく理解できるようになってからやろうとしてくれないかなぁ〜

人間や制度への認識の甘さは東アジアの特性?

西洋の人間主義(ヒューマニズム)を馬鹿する奴は日本によくいるが、権力分立や人権が何故あるのか?つまり権力を持った人間の恐ろしさを知らない日本人の方が、よっぽど甘ちゃんとしか思えない。

で、こういうことを考えているうちに、私の中国思想史の知識(諸子百家から陽明学まで)を漁って見ると、どうも西洋にあるリアルな人間観が見当たらないのに気づく。韓非子の法家はリアリストっぽいけど、誰が法を作るのかを見逃してる点では甘い(西洋だと古代からツキディデスのリアリズムもあれば混合政体論もある)。今の東アジア(特に中国)を見てると、そもそも東アジアでは思想的に制度は理解されてないかも…とも思うが、これはこれから調べるべき宿題だな


勢いで書いたので本文からは抜いた

緊急事態条項うんぬんで騒ぐ奴らもいるが、緊急事態条項は条文化されてる国もされてない国も両方あるのでそこは問題ではない。むしろ緊急事態にはリスクと人権を秤にかけられる人材がいることが前提で、あとは責任を持てる人が決断できればよいのだが、残念ながら日本には「責任」を持てる人も制度もないので、全くもってお話にならない。緊急事態条項をそんなに条文化したいなら、それ以外の制度を整えてから物を言え!

2010年代に入ってからしばらく経ってからだと思うのだが、はてなハイクにこれからの心の科学(認知科学)で重要となる研究テーマを予測した覚えがある。確かそれは脳の系統発生と個体発生がこれから(2010年代に)心の科学的研究で推し進められるべきだと書いた気がする。

2010年代の認知科学への予測の答え合わせ

そう思った理由はたしかこんな感じだ。それまでの00年代には進化心理学認知神経科学(脳イメージング)が流行っていた。しかし、そのブームも行くとこまで行き着いたら行き詰まるだろう。なら、次に認知科学的に重視されるべき研究領域はなんだろうかと考えた。同じく進化論でも進化心理学が適応論を強調していたのに対して、これからは系統発生に注目されて色んな動物の認知(心)が研究されるだろうと予測した。さらに、脳の研究は流行っているが、これからは脳の発達的研究が未知の領域として経験的に研究可能になるだろうと予測した覚えがある。それでこれからは系統発生と個体発生が重視されると言い方を揃えた気がする。

2010年代が終わってこの予測はどうなったかと言うと、目の付け所は悪くなかったがそこまでは当たってはなかった。動物認知については前より研究対象となる種が広がってはいる(例えばイカやタコ、変わり種では植物の心の研究も見たことある)が、動物の心の研究に人間を基準にした見方をやめようとやっと言われ始めたばかりで、まだまだこれからな感じが強い。子供の脳の研究はなくはないが、子供の脳のイメージング研究は困難も多く、技術の発展や研究手法の開発などまだまだ乗り越えるべき壁は厚い。

つまり、脳の系統発生と個体発生は重要かもしれないが、研究はまだこれからの発展が望まれるのレベルをなかなか超えない。私の予測が当たったとはとても言えない。

これからの予測も書いてみたが、上手く書けてない

で、2020年代に入っての予測があるかといえば、あまり思いつかないが少しならある。それは既に10年代にあった統計を用いた研究の重要性がより上がることだ。21世紀に入って、機能局在論から計算メカニズムへと脳の研究が進んできたが、メカニズム的な研究はこれからも増えはするだろうが、そこには限界があるのでむしろ脳のデータを全体として統計で直接に分析する手法が広がるような気がする。脳のデータとメカニズムを結ぶ研究としての統計的分析を想定している。

脳から認知研究一般に目を向けると、理想的観察者モデルのような統計的な研究が増えそうな気もする。素朴な最適化を心(脳)に当てはめるのは無理があるので、むしろそこからの距離を記述的に求める方がまだ見込みがある。ただパラメータを求めるだけの研究が増えるだけかもしれないが、進化論とセットにしてそのパラメータになった自然淘汰的な理由を探れればより理想的だ。(追記:う〜ん…これじゃカーネマンの行動経済学の理論とあまり変わらんな。これじゃただの適当な思いつきだよ。統計-情報の話は改めて書くべきだな)

でも、これからの予測があまり思いつかないそもそもの原因は、認知科学そのものが学問的にパッとしなくなる可能性の高さが頭の隅にあるせいかもしれない。まぁ、だからといって他を見てもさしてめぼしいもん見つかんないけどね。